上 下
28 / 153
第4章「女ぎつね オン ザ ラン」

第28話「会いたい」

しおりを挟む



 磯川(いそかわ)がにやりとしてシャツを振り回しはじめたので、清春はあわてて手を伸ばして、取りかえした。

「磯川さん! 何を言っているんですか――”ディオールの女”だなんて」
「そんなにわかりやすい匂いをつけとって、何を言うか」

 磯川は有無を言わさず、ふたたび清春から佐江の匂いの残るワイシャツをひったくった。小さな鼻をうごめかし、

「ふん、化粧品もディオールらしいな。しかもシャツにファンデーションも口紅も残しとらん。ふむ。坊ン」
「なんですか」

 清春はもう、ふてくされるしかない。

「佳《え》え女だったろ」
「もういいんです、持って帰ります」

 清春が手を伸ばすと磯川がシャツを高々と上げ、

「今日はちょいとゴタついとるんでな、ちっと時間がかかる。明日の夜に、取りに来いや」

 ふう、と息を吐いて、清春はランドリー部の低い天井を見上げた。

「——そのワイシャツ、ランドリー部じゅうのさらし者にするつもりじゃないですよね?」
「とんでもない」

 磯川はにやりとして清春を見た。

「俺が、懇切丁寧に洗濯してやる。だが、俺がやる以上、もう何の匂いもシミも残らんぞ。ええのか、坊ン」
「気が変わりました。持って帰ります」

 清春はほんとうに磯川の手からワイシャツを取り戻して丁寧にたたみ、ランドリーバッグにしまいこんだ。磯川が妙な顔をして清春を眺める。

「こちらも忙しいでしょうから、街のランドリーに頼みます」
「悪かった、坊ン」

 やけど痕のある無骨な手が差し出されてきた。清春はその手をしばらく見つめ、ぽんとランドリーバッグを乗せる。
 磯川が、不思議そうにつぶやく。

「あんたの、そんな顔は久しぶりに見るな」
「いつも、こんな顔ですよ」

 清春は長い指で、つるりと顔を撫でた。シルバーフレームの眼鏡を丁寧になおす。
「いつもと、何ひとつ変わりませんよ」
「いやはや。そんな顔はなあ、坊主のころ、そのまんまだ」
「いつの話をしているんです?」

 清春が、面食らって尋ねた。磯川はしわのある額を二度ほど撫でて

「坊ンが、七つか八つのころだろ。親父さんに隠れてここに来て、うちでさんざん遊んでいったときのことだわ」
「もうそろそろそれは時効にしてください。あれから二十年以上もたっているんです」
「俺にとっちゃ、まだハナタレだがな。そのハナタレが、ついに女に惚れたかい」
「そんなんじゃ、ありません」

 清春はにがりきって答えた。

「——ただ、大事な女なんです」

 言ってしまってから、清春は顔をしかめた。

「いいんです、忘れてください」
「坊ンにも、ケツの青いところが、残っとったか」

 磯川はにやりと笑い、清春に手を振った。

「もう行け。次のデートに間に合わせてやる。明日では遅いか?」
「遅くありません。次に会えるのは、一週間後ですよ。いや、もう会えないかもしれない」
「弱気やのう」

 磯川はあきれた顔で清春を見た。

「女はな、身体のどこかをぎゅっと掴んでおかんとすぐ逃げる。佳い女ほど逃げ足が早いぞ」
「もういいんですよ。よろしくお願いします」

 清春は早々に、ランドリー部から退散した。
 つかんでおけと言われても、清春には、昨夜と今朝で佐江の身体のどこかをつかめた気が全くしない。逃げ足の速い女は、もう後ろ姿も見えないほど遠くへ走り去っていった。

 清春のシャツに、甘い残り香だけを漂わせて。

 佐江に会いたい、と清春はため息をついた。次に会う予定は、全くないが――会いたい。
しおりを挟む

処理中です...