12 / 153
第2章「もう跳ぶまいぞ、この蝶々」
第12話「気が付かないと言う、無垢な残酷さ」
しおりを挟む(Chí Nguyển QuốcによるPixabayからの画像 )
井上清春は、自分の名前の隣に「岡本佐江」の端正な署名が並んでいるのをまじまじと見た。
「おまえ、佐江ちゃんと会ったことあったのか? この婚姻届けの証人の」
「ねえよ」
洋輔はバーカウンターで酒の残量を確認しつつ答えた。
「初めて会った。真乃と、あんなに仲のいい女は珍しいな」
「そうだな」
清春は、書類を書きながら考えた。
真乃は洋輔に岡本佐江を会わせたくなかったのだろう。
おれが真乃でも、絶対に、会わせたくない。だがおれが洋輔なら、絶対に会いたい女だ。岡本佐江とは、そういう女だ。
書類を書き終わり、清春はバックルームに戻って印鑑を手にしてメインバーに戻った。
清掃の終わったメインバーには異母妹、渡部真乃(わたべまの)の姿があった。
真乃はウェストラインがめだたない服を着て、普段なら絶対に履かないようなローヒールを履いていた。バースツールに座り、洋輔を見上げて笑っていた。
真野の顔からは、日本に帰ってきてからの泥のような疲れがすっかり抜けていた。
真乃が何か言う。
洋輔が笑う。
洋輔の非の打ちどころのない美貌が、あたたかな空気をまとっているのを清春は見て取った。幸せ、という言葉が、二人の周りにたゆたっていた。
おれの知らない世界だ。清春はそう思った。心おだやかに、大事な女を素直に大事にしていい、満ち足りた世界がそこにあった。
清春が永遠に拒絶されている、柔らかな世界。
やがて、洋輔がこちらに気が付く。
「キヨ、真乃がお前に言いたいことがあるってよ」
「そりゃそうだろう。
ここまで働かせておいて、礼の一つもなければ、おれは暴れるぞ真乃?」
「もちろん。キヨちゃんには世話になったわよ。っていうか、これからもっと、世話をしてもらわなくちゃ」
「これ以上、何をさせる気だ?」
清春は少し警戒しながら、真乃と洋輔の婚姻届の証人欄に判を押した。
「もう行くぞ。仕事があるんだ」
真乃は言った。
「あのね、キヨちゃんと佐江に、ちゃんと結婚の報告をしたいのよ」
「おれは要らないよ」
清春は早口で言った。
「佐江ちゃんもべつに、報告なんか要らないだろう」
佐江はあれほど真乃を愛しているのに、真乃はまったく素知らぬ顔で、自分の婚姻届けに判を押させている。
気が付かないと言う、無垢な残酷さ。そして岡本佐江には、真乃の頼みを断るという知恵さえない。さぞかし佐江にとっては、つらい状況だっただろう。
おれが一緒にいてやればよかった。
なんの根拠もなく、清春はそう思った。
「あのね、結婚と子供の報告を、あたしから、ちゃんとしたいのよ。ていうことで、駅前のチャイニーズレストラン“白楽天(はくらくてん)”、一週間後に予約したから」
「おれの都合も聞かずにか?」
おもわず、清春の声がとがった。
最愛の真乃に見とれる佐江の顔は、みたくないからだ。
0
お気に入りに追加
26
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
今日の授業は保健体育
にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり)
僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。
その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。
ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる