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第1章「ロンリーカナリア」

第1話 男を狂わす 唇

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(Oliver PetersによるPixabayからの画像)

 この世には、男をくるわす唇がある。井上清春(いのうえきよはる)にとっては、岡本佐江(おかもとさえ)の唇が、それだ。

 今、清春の前には、まさに岡本佐江の唇がある。佐江は、目を丸くして清春を見返している。

「……あ」
 清春のまわりに、一気に肌寒い朝の雑踏がよみがえった。
 
 清春の異母妹に絶望的な恋をしている女の瞳が、驚きと、かすかな欲情をまじえて清春を見ていた。
 春あさい午前11時。
 ひとの行き交う路上で、井上清春は岡本佐江に恋をした。
 くるうような、恋だ。

 ★★★
 コルヌイエホテルは、創業して50年になる。
 井上清春は、朝九時のメインロビーにホテルマンらしいまっすぐの姿勢のまま立っていた。
 百八十五センチの長身をダークスーツに包み、さりげなくロビーを見る。さらにロビーの奥にあるカフェを見て、かすかに顔をしかめる。
 ぐいっと長い指でシルバーフレームの眼鏡を押し上げた。

 カフェには、清春の異母妹である渡部真乃《わたべまの》が一人で座っている。ゆるくカールさせた髪をゆるくアップにした真乃は、どこにいてもめだつ。小柄だが全身から生命力と華やかさを発散させているからだ。
 しかし今日の真乃はくすんで見えた。

「――病気か?」
 清春がつぶやいたとき、コルヌイエホテルのシックなメインロビーをあざやかな影が横ぎった。匂いたつような品の良さと、それを裏切る熱量を持つ熱帯の蝶のような影。
 蝶は足早にロビーを歩いて、真乃のいるカフェに入っていった。そのまま真乃の前に座る。背中を向けている女のうなじが、清春の目に染みた。
 
「……佐江ちゃんか。真乃が呼んだな」
 だとしたら真乃の顔色が良くないのも、恋人と暮らす部屋に戻らずコルヌイエホテルに泊まっている理由も、きっと彼女に聞けばわかるだろう。
 清春の両手がキーボードの上ですばやく動いた。チェックアウト作業をどんどん片付けていく。優美にカウンターを出たところで、声をかけられた。
「あのう。すいません、宿泊を延長したいんですが。今夜も同じ部屋に泊まれますか?」
 振り返るとまだ若い女性ゲスト2人が清春を見ていた。話しかけようと、タイミングを狙っていたらしい。清春は瞬時におだやかな表情を作った。
「もちろんでございます。お部屋のご予約状況を確認いたしましょう。どうぞ、こちらへ」

 洗練された身動きでレセプションカウンターに戻りながら、清春の右手はじりじりとこぶしを作った。
 なんとしても、岡本佐江を捕まえねば。
 これ以上、異母妹のわがままに振り回されるわけにいかない。

 岡本佐江を捕まえたい。彼女は真乃の親友だ。真乃を愛して、真乃のためなら何でもする女だ。
 そして清春は――異母妹を愛している佐江を、愛している。

 とん、と最後のキーボードを打ち終わった清春は、急いでいるように見えないギリギリのスピードでカフェに向かった。
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