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第一章 蛍邸
10 引きこもりの貴公子 1
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奥の間に着くと、女房は頭を下げ、退いた。
「こちらへ」
几帳の影から、弱々しい声がする。
「まるで、女のようだね」
「しっ、聞こえます」
沙醐は慌てて、一睡を黙らせた。
若く、青白い男が、脇息に寄り掛かっていた。
「右少将、橘師直です」
声まで弱々しい。
しかし、右少将とは……。殿上人(天皇の居所に上がれる身分)ではないか。
「父は、権大納言です。検非違使の別当(長官)も務めておりまする」
……親の七光りか。
沙醐はがっかりした。
若い男は、なよなよと首を振り、沙醐に目を止めた。
「どこかでお会いしたような……」
しかし、沙醐には、覚えがない。
「この女人は?」
「わがハシタメじゃ」
一睡が短く答えた。
「ハシタメ……」
沙醐は、つくづくと我が身を見下ろした。破れた衣服、泥と細かな木の葉にまみれたこのかっこうでは、ハシタメと言われても仕方がない。
「私の苦しみを取り除いてくれると、のたもうておられたが……」
師直は一睡に向き直った。おずおずと問う。
「生き苦しさを取り除いて進ぜましょう」
すまして、一睡が答える。
「頃はよし。さ、庭へ参りましょう」
沙醐に見やる。
「なにをぼんやりしておる。師直殿に、肩をお貸しせぬか」
さきほどまでと、言葉遣いまで変わっている。偉そうで、主人然としている。
……あ。主人か。
主人の言うことなら、聞かねばならぬ。沙醐は慌てて、師直の体を支えた。
師直の体は、ぐにゃぐにゃと、捕らえどころがない。全身を預けてくるので、小柄な沙醐には支えきれない。
「一睡さま、お手をお貸し下さい」
一歩先を歩いている一睡に懇願するのだが、聞こえないふりをしている。
「一睡さま!」
「うるさい。マロは、箸より重いものは持ったことがないんだ!」
「虫取り網は、箸より重いのでは?」
「なんだって?」
「いえ、なんでもありません」
庭には、大きな池があった。
一睡が石を拾った。間髪入れず、池に投げ込む。
水面に静かに波紋が広がり、やがて消えた。
……やっぱり子どもだわ。
……池を見ると、石を投げずにはいられないんだわ。
師直は、池に渡された橋の、朱塗りの欄干に身をもたせた。
沙醐は、ほっとして、肩を外した。身を離してもなお、全身に、師直の衣に焚き込められた香の匂いがまとわりついてくるようで、気持ちが悪い。
それは、大層、高級な香であるらしいのだが。
「今宵は風もなく」
「水面も穏やかでござるな」
「水草にも風情がございます」
「猿沢の池の玉藻にも劣らず」
一睡と師直は、風流な会話を交わしている。
昔、まだ奈良に都があったころ、帝の寵愛を失ったと思い込んだ采女(うねめ)が、猿沢の池に身投げしたという。
玉藻というのは、その采女の乱れ髪を表現している。
……さすが、平安貴族。
……腐っても鯛ってやつね。
今のこの場面が、物語の中の一場面のように思え、沙醐は、ちょっと感動した。
「鯉は、おりますかの?」
一睡が師直に尋ねている。
「大きい奴がおりますよ。うっかりすると、指を噛まれるそうです」
「かなり深い池なのでしょうな」
「わが悩みと同じくらい」
「それは理想的」
「は?」
「独り言です。時に、美しい月ですな」
つられて、沙醐も空を見上げた。
その時、まるで牛が鳴くような、モオーッ、という声が聞こえた。
物語世界をぶち壊すような、野太い声だった。
驚いて、沙醐は、池の面に目を映した。牛の声が、池の中から聞こえたような気がしたのだ。
しかし、師直はなお、うっとりと、月を見上げている。
「あの声は……」
問いかけて、沙醐は、ぎょっとした。
ひそかに師直の背後に廻り込んだ一睡が、かがみこんで、上を向いた師直の足をすくおうとしているのに気がついたからである。
こんな橋の上で足をすくわれたら、欄干を飛び越えて、池の中にまっさかさまである。
池は深いし、水草が生い茂っているようである。
そうでなくても、師直のようなぼやっとした貴族が、池に突き落とされて無事でいられる筈がない。
子どものいたずらにしても、悪質だ。
「一睡さま!」
思わず声が尖る。
一睡は、ちらっと沙醐を見ると、悪びれた様子もなく、もとの姿勢に戻った。
「ああ、あれは、ウシガエルですよ。牛の声で鳴く蛙です」
師直は何も気付いていない。
「さてと。もう少し先までいってみませんかな」
再び師直は、沙醐の肩に寄りかかる。
……自分で歩け!
思わず沙醐は、心の中で毒づいた。師直に肩を貸し、立派な庭園の中をよろよろ歩く。
先を歩いていた一睡が振り返った。
「師直殿は、どの木がお好きですかな。やはり、桜でしょうか」
「桜の花は、私には派手過ぎます。いつの間にやら盛りを迎え、地味に長く咲く、桃の花が好きですね」
「長く」は、「百歳」など、「桃」と同じ読みをする「百」を踏まえている。
これまた、雅な表現である。
沙醐は、再び感心する。
それにしても、師直の体は、重い。柔らかくて、捉えどころがない。もう少し、鍛えた方がいいのではないか。
「なるほど、桃の方が大きくて、おいしいですしね」
一睡が、見当外れの感想を、述べた。
師直は足をもつれさせ、なかなか前へ進めない。
身軽な一睡はどんどん先に行ってしまう。
「こちらへ」
几帳の影から、弱々しい声がする。
「まるで、女のようだね」
「しっ、聞こえます」
沙醐は慌てて、一睡を黙らせた。
若く、青白い男が、脇息に寄り掛かっていた。
「右少将、橘師直です」
声まで弱々しい。
しかし、右少将とは……。殿上人(天皇の居所に上がれる身分)ではないか。
「父は、権大納言です。検非違使の別当(長官)も務めておりまする」
……親の七光りか。
沙醐はがっかりした。
若い男は、なよなよと首を振り、沙醐に目を止めた。
「どこかでお会いしたような……」
しかし、沙醐には、覚えがない。
「この女人は?」
「わがハシタメじゃ」
一睡が短く答えた。
「ハシタメ……」
沙醐は、つくづくと我が身を見下ろした。破れた衣服、泥と細かな木の葉にまみれたこのかっこうでは、ハシタメと言われても仕方がない。
「私の苦しみを取り除いてくれると、のたもうておられたが……」
師直は一睡に向き直った。おずおずと問う。
「生き苦しさを取り除いて進ぜましょう」
すまして、一睡が答える。
「頃はよし。さ、庭へ参りましょう」
沙醐に見やる。
「なにをぼんやりしておる。師直殿に、肩をお貸しせぬか」
さきほどまでと、言葉遣いまで変わっている。偉そうで、主人然としている。
……あ。主人か。
主人の言うことなら、聞かねばならぬ。沙醐は慌てて、師直の体を支えた。
師直の体は、ぐにゃぐにゃと、捕らえどころがない。全身を預けてくるので、小柄な沙醐には支えきれない。
「一睡さま、お手をお貸し下さい」
一歩先を歩いている一睡に懇願するのだが、聞こえないふりをしている。
「一睡さま!」
「うるさい。マロは、箸より重いものは持ったことがないんだ!」
「虫取り網は、箸より重いのでは?」
「なんだって?」
「いえ、なんでもありません」
庭には、大きな池があった。
一睡が石を拾った。間髪入れず、池に投げ込む。
水面に静かに波紋が広がり、やがて消えた。
……やっぱり子どもだわ。
……池を見ると、石を投げずにはいられないんだわ。
師直は、池に渡された橋の、朱塗りの欄干に身をもたせた。
沙醐は、ほっとして、肩を外した。身を離してもなお、全身に、師直の衣に焚き込められた香の匂いがまとわりついてくるようで、気持ちが悪い。
それは、大層、高級な香であるらしいのだが。
「今宵は風もなく」
「水面も穏やかでござるな」
「水草にも風情がございます」
「猿沢の池の玉藻にも劣らず」
一睡と師直は、風流な会話を交わしている。
昔、まだ奈良に都があったころ、帝の寵愛を失ったと思い込んだ采女(うねめ)が、猿沢の池に身投げしたという。
玉藻というのは、その采女の乱れ髪を表現している。
……さすが、平安貴族。
……腐っても鯛ってやつね。
今のこの場面が、物語の中の一場面のように思え、沙醐は、ちょっと感動した。
「鯉は、おりますかの?」
一睡が師直に尋ねている。
「大きい奴がおりますよ。うっかりすると、指を噛まれるそうです」
「かなり深い池なのでしょうな」
「わが悩みと同じくらい」
「それは理想的」
「は?」
「独り言です。時に、美しい月ですな」
つられて、沙醐も空を見上げた。
その時、まるで牛が鳴くような、モオーッ、という声が聞こえた。
物語世界をぶち壊すような、野太い声だった。
驚いて、沙醐は、池の面に目を映した。牛の声が、池の中から聞こえたような気がしたのだ。
しかし、師直はなお、うっとりと、月を見上げている。
「あの声は……」
問いかけて、沙醐は、ぎょっとした。
ひそかに師直の背後に廻り込んだ一睡が、かがみこんで、上を向いた師直の足をすくおうとしているのに気がついたからである。
こんな橋の上で足をすくわれたら、欄干を飛び越えて、池の中にまっさかさまである。
池は深いし、水草が生い茂っているようである。
そうでなくても、師直のようなぼやっとした貴族が、池に突き落とされて無事でいられる筈がない。
子どものいたずらにしても、悪質だ。
「一睡さま!」
思わず声が尖る。
一睡は、ちらっと沙醐を見ると、悪びれた様子もなく、もとの姿勢に戻った。
「ああ、あれは、ウシガエルですよ。牛の声で鳴く蛙です」
師直は何も気付いていない。
「さてと。もう少し先までいってみませんかな」
再び師直は、沙醐の肩に寄りかかる。
……自分で歩け!
思わず沙醐は、心の中で毒づいた。師直に肩を貸し、立派な庭園の中をよろよろ歩く。
先を歩いていた一睡が振り返った。
「師直殿は、どの木がお好きですかな。やはり、桜でしょうか」
「桜の花は、私には派手過ぎます。いつの間にやら盛りを迎え、地味に長く咲く、桃の花が好きですね」
「長く」は、「百歳」など、「桃」と同じ読みをする「百」を踏まえている。
これまた、雅な表現である。
沙醐は、再び感心する。
それにしても、師直の体は、重い。柔らかくて、捉えどころがない。もう少し、鍛えた方がいいのではないか。
「なるほど、桃の方が大きくて、おいしいですしね」
一睡が、見当外れの感想を、述べた。
師直は足をもつれさせ、なかなか前へ進めない。
身軽な一睡はどんどん先に行ってしまう。
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