3 / 50
第一章 蛍邸
3 光る玉
しおりを挟む「小式部には見えたのよ」
再び、ひそひそと、百合根が囁く。
「小式部……私の前任の方ですね」
沙醐は身体を硬くした。前任者の女房は、心を病んで、お邸を退いたと聞く。
百合根は、大きくうなずいた。
「あの子、いろいろ、言ってたのよね。一の姫の局が毛虫でいっぱいだとか、二の姫が、空に舞い上がって、踊ってたとか。……馬鹿げた冗談よ。そんなこと、ある筈がないでしょ。それが、先月の雷の日、お庭に青鬼が落ちたと叫んで、それっきり……」
「それっきり?」
「実家に逃げ帰っちゃったのよ」
「するとその、小式部という方は」
「頭が弱かったのね」
あっさりと百合根は言って、碗を下に置いた。
「男出入りも激しかったし。あなた、通ってくる殿方とか、いらっしゃる?」
「いえ、私は、そんな」
沙醐は顔を赤らめた。
男に頼るのは嫌いだが、恋愛はしてみたい。
沙醐は、いつか、たったひとりの誰かに会える日がくると信じている、結構まじめに。
「あら、残念」
トウの立ち切った百合根が、さらっと言った。
「あんまりたくさんの殿方との同時進行は困るけど、一人二人なら、いらした方がいいのに。このお邸は、マトモな殿方に縁がなくてね。ま、姫さまたちがあのようでは、仕方がないのかもしれないけど」
沙醐は、さっき見た、丈の高い雑草に覆われた荒れた庭を思い出した。あれでは、どんなに美人がいても、外から見えよう筈もない。
恋は、垣間見から始まるのに。
透垣が、あのように、隙間だらけに竹や板を組んであるのは、その為だ。
中の美女がよく見えるように。
……でも、このお屋敷の透垣は、崩れかけてたわ。
垣間見どころか、丸見えである。ちらと見えるから、いいのである。全部見えたら、興ざめだ
……だから、お庭を、草ぼうぼうにしてあるのかしら。
しかし、いずれにしろ、このような荒れたお屋敷に、美女がいると思うだろうか。
その時、几帳のかたびらが割られ、白く光るものが飛び込んできた。
「百合根さま、百合根さま」
一向に動ぜず、白湯のおかわりなどを継ぎ足している百合根の袖を、沙醐は強く引いた。
「ただいま、何かが几帳の内に、入り込んでまいりました」
「え? 何が?」
百合根は、おっとりと構えている。
「何か、光る白い玉のようなものが……」
「気のせいじゃないの?」
百合根の声に被さるように、ぱたぱたという軽い足音が聞こえた。渡殿を渡って、近づいてくる。
「マロの生き須玉はどこ!」
飛び込んできたのは、まだ年端もいかぬ、垂れ髪の童だった。完膚なきまでに着崩してはいるが、直衣と袴を着用し、彼が、ただならぬ身分であることを示している。
「うぬ、見慣れぬ奴。何者!」
沙醐の姿を認め、間髪を入れず、左手に持った補虫網を差し向ける。太刀でも差し向けるような、仰々しい物腰である。
振り上げられた棹の先から、目の細かい網が、だらんとたれ下がった。
よく見ると、右手には、虫かごも下げている。
「まあ、若さま。無粋でございますぞ」
落ち着き払った様子で、百合根がたしなめた。しかし、その百合根の手が、がたがた震えているのに、沙醐は気づいた。
「蛍に触られたら、御手をお洗いになりましたか」
「蛍じゃない、生き須玉だ。大きいかごに移そうとしたら、飛んで逃げちゃったんだ」
「お手は? お手は、おきれいですか?」
「……手は、まだ洗ってない」
「では、これで、お拭きなさいませ。水で、湿らせてございます」
いつの間に用意したのか、濡らした手拭布を差し出だす。
子どもは素直に布を受け取り、両手を拭い始めた。
「こちらは、沙醐。新しい女房です」
「沙醐にございます。どうぞ、よろしゅう……」
沙醐は慌てて頭を下げた。
……それでは、この方が、若様……。
邸には、他に、二人の姫君がいるはずだ。
「一睡じゃ。見知りおけ」
男の子は、言い放った。百合根に対するのとは違い、ひどく尊大な態度だ。
彼は、几帳のうちを、きょろきょろと見渡した。
「ここに、生き須玉が飛んできた筈だけど」
「生き須玉というのは、あの、白く光る玉のことでございますか?」
おずおずと、沙醐は尋ねた。
「お前、見えるじゃないか。百合根は、見えないと言うんだ」
「何をおたわむれを」
ゆったりとした口調で、しかし、その眼はどうにも落ち着きを欠いて、百合根が口を挟んだ。
「それより、一睡様。甘いものでもいかがですか? 干し柿がございます」
戸棚をごそごそと探っている。
「干し柿。うん、ちょうだい」
その時、几帳の隅から、白い光がぱっと飛び立った。
「あ、あそこに!」
沙醐が指差したのと、一睡と名乗った少年が飛び上がったのは、ほぼ同時だった。
「こら、生き須玉。待て!」
几帳から垂れた絹布を割って、白い玉が、続いて補虫網をふりかざした少年が、元気よく飛び出していった。
「百合根さま……」
振り返った沙醐は、びっくりした。百合根が、両手にしなびた干し柿をしっかり握り締め、口から泡を噴いて倒れていたのだ。
「百合根さま、百合根さま。誰か、誰かー!」
ここが平安貴族の邸宅だということも忘れて、沙醐は、力いっぱい叫んでいた。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
仇討浪人と座頭梅一
克全
歴史・時代
「アルファポリス」「カクヨム」「ノベルバ」に同時投稿しています。
旗本の大道寺長十郎直賢は主君の仇を討つために、役目を辞して犯人につながる情報を集めていた。盗賊桜小僧こと梅一は、目が見えるのに盗みの技の為に盲人といして育てられたが、悪人が許せずに暗殺者との二足の草鞋を履いていた。そんな二人が出会う事で将軍家の陰謀が暴かれることになる。
【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す
矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。
はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき……
メイドと主の織りなす官能の世界です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる