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17 陣痛

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 マリー・ルイーゼの叔父、フェルディナントが、駆けつけてきた。
 歓迎のため、観劇の行事が行われることになった。




 ……妊婦が、夜のお出かけなんて。
 釈然としない思いで、モンテスキュー伯爵夫人は、マリー・ルイーゼにドレスを着せかけていた。
 腹の大きな皇妃は、気だるげだ。ドレスの腰回りを緩めながら、モンテスキュー伯爵夫人は言った。
「ご気分が乗らないようでしたら、お休みされたらいかがでしょう」
「そういうわけにはいかないわ。はるばる叔父様が来てくださったんですもの」


 姪の結婚式でパリに来ていたフェルディナント大公が帰ったのは、つい最近のことだ。

 祝宴のひとつで、火事(※)が起きた。猛火の中から、大公が、ナポリ王妃を救い出したことを、モンテスキュー伯爵夫人は思い出した。ナポリ王妃とは、ナポレオンの妹、カロリーヌのことだ。大火事から彼女を救ったのは、夫のミュラ元帥ではなく、皇妃の叔父君、フェルディナント大公だった。彼は、姪をほったらかしにして、カロリーヌの元へ駆けつけた。

 ……メッテルニヒ外相もなかなか帰らなかったわね。
 フェルディナント大公とメッテルニヒは、お互いにらみ合い、いつまでもぐずぐずパリに居残っていた。カロリーヌの夫、ミュラ元帥に煙たがられながら。
 ……乱れてる。
 特に、メッテルニヒ外相には、有能な妻がいたはずだ。

 やっと帰っていったフェルディナント大公だが、またすぐ戻ってきた。彼の姪の赤ん坊は、まだ生まれてもいないのに。


 モンテスキュー伯爵夫人は首を振り、ふと、皇妃の顔がひきつれているのに気がついた。
「お腹が痛い」
つぶやいて、マリー・ルイーゼは蹲った。





 「お子様がお生まれになります!」
 着替えている最中だったモンテベッロ公爵夫人は、いきなりドアを開けられ、びっくりした。
 普段より青ざめた顔のモンテスキュー伯爵夫人が立っていた。
「早く皇帝陛下にお伝えして! コルヴィサール博士と、デュボワ先生にも!」
 いよいよ、赤ちゃんが生まれる!
 モンテベッロ公爵夫人は動転し、女官服を掴んだまま、ほぼ下着姿で、廊下に飛び出していった。





 テュイルリー宮殿の控えの間には、親族や政府高官が、続々と集まってきた。


 この日の為に用意された産室には、大勢の人が、入室していた。デュボワ産科医他、数名の医師、モンテベッロ公爵夫人・モンテスキュー伯爵夫人を筆頭に、16人の女官たち。
 部屋には緑色の衝立があり、その向こうには、赤ん坊誕生の証人となる為、カンバセレス大法官始め、主だった人々が控えている。春先の、まだ寒い頃だったが、それでも産室は、集まった人の熱気で、むんむんするほどだった。


 お産は、最初から波乱含みだった。
 取り上げは、デュボワ産科医に指名されていた。だが、彼が日頃頼りにしていた産婆(赤ちゃんを取り上げる女性。医師ではない)は、入室を許されなかった。皇妃への礼儀に反するというのだ。
 そもそも皇妃は、デュボワ医師を信用していなかった。なぜなら彼は、赤ん坊の性別を教えてくれなかったからだ。コルヴィサール医師先生は、教えてくれたというのに。
 デュボワは慎重で、わからないものはわからないと言っただけなのだが。

 皇妃が信頼するコルヴィサール医師は、夜10時を過ぎて、やっと姿を現した。
「初産ですからね。急ぐことはないです」
悪びれることなく、彼は言った。産婦の痛みがだんだん強くなっていることを確認し、頷いた。
「順調ですね」



 夜の間中、ノートルダムはじめ、パリ中の教会の鐘が打ち鳴らされた。市民は、出産の無事を祈った。


 テュイルリー宮の控えの間に集まった客人たちは、次第に疲れてきた。この場に呼ばれるのはとても名誉なことだった。だが、待つだけというのは、辛いものだ。時折、廊下の向こうから、皇妃の苦しそうなうめき声が聞こえてくる。

 ナポレオンは、胃の辺りに手を当てて、暖炉に寄りかかっていた。ついさっきまで産室にいたのだが、苦しむ皇妃の様子にいたたまれなくなって、退室してきたばかりだ。

 控えの間の紳士たちはうたた寝をし、淑女達は低い声でおしゃべりをしていた。僧侶はうつむき、本を飛ばし読みしている。テーブルの上には、チョコレートや飲み物が用意されていた。
 みな、落ち着かない夜を明かした。



 陣痛は、強くなり、弱くなりを繰り返し、明け方になっても続いた。
 朝5時頃、疲れきった皇妃は眠りに落ちた。
 コルヴィサール医師はそっと産室を抜け出し、別室に退いた。新聞社から、臨場感ある記事の執筆を頼まれていたのだ。



 ナポレオンは、自分のことを、運がいいと思っていた。その一方で、自分の強い運が、妻や子どもの運を喰ってしまうのではないかと、恐れていた。
 彼は、不安で不安で仕方がなかった。
 このお産がうまくいかないのではないか、という暗い予感に、常に脅かされていた。
 だが、親族や臣下の前で、弱いところをみせるわけにはいかない。
 気持を鎮める為、彼は、熱い湯を立てさせた。


 ナポレオンが湯に浸かっていると、産科医のデュボワがやってきた。




 青ざめたその顔を一目見て、ナポレオンは自分の予感が当たったことを直感した。
「皇妃は死んだのだな!」
かすれた声で彼は叫んだ。息が苦しい。
「ああ! 彼女を、埋葬しなければならない!」
「皇妃様は、お亡くなりになってはいません」
張りのない声が否定した。
「では、赤子だな! 赤ん坊が死んだのだ!」
「それも違います」
ようやく、ナポレオンの呼吸が、普通に戻った。

「では、どうしたというのだ」
「破水しました。千分の1でしか起こらないような異常な事態が、起きています」
「一体何が起きたというのだ!?」
「赤ん坊が降りてきました。でも、頭からではありません。尻が見えています」
「……どういうことだ?」
「器具が、必要です」
「器具?」
鉗子かんし鉗子を用います」
 鉗子というのは、体内の異物を掴んで引き出す医療器具のことである。




 なおも重ねて、ナポレオンは尋ねた。
「危険を伴うのか?」
デュボワ産科医は、それには答えなかった。このような場合、産婦の夫や家族に対して、当時の産科医がいつもする質問をした。
「陛下。赤子と母親、どちらの命を優先させればよろしいでしょう」

「母親だ!」
即座にナポレオンは答えた。
「それが彼女の権利というものだ。赤子は、次の機会もあろう」
ナポレオンは、素っ裸で風呂から飛び出した。慌ただしく体を拭きながら、どこかで調べてきた知識を披瀝した。
「自然に任せるわけにはいかない。いいか。町のおかみさんにするように、するがいい。靴直しの息子は、鉗子を使って、生まれたというからな」






・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

この火事は、フランス側への返礼として、オーストリアの在フランス大使、シュヴァルツェンベルク(メッテルニヒの後任で、彼の不興を買った軍人。ナポレオンのマリー・ルイーゼへの奇襲(?)に怒り、オーストリアに仕返しを促そうとした……)が開催したもの。この大火で、彼は義理の姉妹を何人か失い、夫人は一生消えないほどの大火傷を負ったという。
なお、この大火からマリー・ルイーゼを助け出したのはナポレオンだという。






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