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15 二人のバロネス
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「申し訳ございません、陛下」
モンテスキュー伯爵夫人は頭を下げた。
「重大な役を仰せつかり、陛下のご信任厚きこと、まことに栄光の限りではございます。ですが、そのような大役、私にはとてもとても、やり遂げられる自信がございません」
「そこを敢えて頼みたいのだ」
フランス皇帝は言った。
「生まれてくるローマ王の養育の最高責任者に、貴女を指名したい」
「……」
……誰が、
モンテスキュー伯爵夫人シャルロットは思った。
……赤子なんて、子守女の胸にしがみついてバブバブ言ってるだけじゃないの。養育係? この私に? 自分の言ってることがわかっているのか、このコルシカ男は。
モンテスキュー家は、旧体制を支えた貴族だ。革命前から続く家柄で、彼女の夫は、今現在も、立法院議長を務めている。
「その気品、気高さ、教養を、ぜひ、生まれてくるローマ王に伝えてやってほしい」
まるでモンテスキュー伯爵夫人の心を読んだかのように、ナポレオンは言った。
「ですが、私はすでに年を取り、社交界も退こうかと考えております」
これは、本音だった。
モンテスキュー伯爵夫人は、46歳だった。宮廷のゴシップや女同士の面当てを、散々見てきた。
……もうたくさんだ。年を取るのも悪くない。これからは、庭いじりやレース編みをして、静かに暮らそう。夫も大切にして。
そう思っていた矢先だった。
「滅相もない!」
帝王が、王座を滑り降りた。
まっすぐにモンテスキュー伯爵夫人の元まで歩いてくると、その手を握りしめた。
「貴女はまだ十分、お若く美しい。お願いです、モンテスキュー伯爵夫人。私は貴女にフランスの運命を託します。私の息子を、どうか立派なフランス人に育て上げてやって下さい」
若くて美しいなどと言われたのは、二十数年ぶりだった。
大きな乾いた手が、温かい。珍しいコロンの、よい香りがする。
モンテスキュー伯爵夫人は、ぼうーっとして、この人誑しの顔を眺めた。
「熱意と献身を持って、生まれてくる子どもに尽くすことを誓います」
気がつくと、誓いの言葉を述べていた。
部屋を出ると、控えの間に、女官服を身につけた女の姿が見えた。
モンテベッロ公爵夫人だ。
彼女は、マリー・ルイーゼ皇妃の女官長だ。皇妃がオーストリアからフランス側へと引き渡される時、この女官も、ブラスナウまで行った。皇帝の妹、ナポリ王妃を手伝い、皇妃に、フランス風衣装へ着替えさせたのも、彼女だ。
その後、この女官がしきりと皇妃に取り入っていることを、モンテスキュー伯爵夫人は知っている。
オーストリアから随行してきたラザンスキ伯爵夫人を追い返したのも彼女だ。ラザンスキ伯爵夫人は、マリー・ルイーゼに信頼され、頼りにされていた。その座を、横取りするためだ。
わざとらしく窓から外を見ていたモンテベッロ公爵夫人は、モンテスキュー伯爵夫人の気配に振り向いた。
「生まれてくる御子さま付きの女官長になったのね」
「ええ。よろしく、モンテベッロ公爵夫人」
膝を折り、礼儀正しく、彼女は挨拶した。
モンテベッロ公爵夫人は挨拶を返さなかった。公爵は、伯爵より身分が上だ。
だが、モンテベッロ公爵夫人の実家は、伯爵位である。旧家の伝統という点では、モンテスキュー家に遠く及ばない。
公爵夫人の身分は、夫が齎したものだ。ジャン・ランヌ……戦死した彼女の夫は、平民出身の元帥だった。
「先日、お庭でのお食事会の時、」
口の端を歪め、モンテベッロ公爵夫人は言い募った。
「貴女、肉料理を食べなかったんですってね。陛下は、いたく感心されていましたよ。さすが、伝統ある貴族の女性は違う。彼女らは、肉を食べないんだ、って。でも、」
意地悪く笑った。
「年をとると、お肉は食べたくなくなるものですものね。固いから、噛めないんでしょ。大丈夫かしら。そんな人に、大事な御子を育てさせて」
呆れて、モンテスキュー伯爵夫人は、相手の顔を見た。
モンテベッロ公爵夫人は29歳。その年齢で、なぜ、自分に牙を剥くのか。
それは、モンテスキュー夫人をもてなす為の食事会だった。
モンテスキュー伯爵夫人が肉を食べなかったのは、隣にナポレオンがいて、生まれてくる子どもの養育係を引き受けてくれるよう、しつこく頼み続けていたからだ。
かりにも皇帝である。その彼が、ひっきりなしに話しかけてくるのに、食べ物で口の中をいっぱいにしておくわけにはいかないではないか。
彼女は、口に入れるとすぐ溶けるムースやプディングの類しか口にしなかった。
「私の仕事は、子守ではありません。フランス王室の子どもを、どこに出しても恥ずかしくない、立派な人間に育てることです」
毅然としてモンテスキュー伯爵夫人は言い放った。
「私の下には、若いマムやナニーをたくさんつけてもらいましたよ。貴女よりずっと若い、ね。ご存知ないかもしれないけど、年を経たからこそ得られる、知識教養というものもあるんですよ」
じろりとモンテベッロ公爵夫人を見やった。
「皇妃は絵画や歌やピアノ、ハープなどをよくされ、とても深い教養をお持ちの方です。あなたが女官長では、さぞ、物足りない思いをされているでしょうね」
モンテベッロ公爵夫人の顔が、面白いように赤らんだ。彼女は、ただの牽制のつもりだった。公爵夫人の身分を持つ自分が、伯爵位の女に、まさか反撃されるとは、思ってもいなかったようだ。口をぱくぱくさせ、返す言葉もない。
別に、やりたくて引き受けた仕事ではない。向こうから押し付けてきたことだ。これ以上の名誉も欲しくないから、クビになってもいっこうに構わない。
高らかに笑いながら、モンテスキュー伯爵夫人は、控えの間を後にした。
・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
「伯爵夫人」「公爵夫人」なのに、「バロネス(男爵夫人)」とは? というご質問を、カクヨムさんで多く頂きました。
私が読んだ英訳の資料本では、モンテスキュー伯爵夫人、モンテベッロ公爵夫人ともに、"baroness" の称号で呼ばれていました。書籍全体の文意の流れから、「バロネス」は、女性に与えられる身分のことで、夫にではなく、彼女たち自身に与えられた身分だと解釈しました。皇妃につけられた女官長(モンテベッロ公爵夫人)、ローマ王の養育係長(モンテスキュー伯爵夫人)というのが、二人の職責です。
モンテスキュー伯爵夫人は頭を下げた。
「重大な役を仰せつかり、陛下のご信任厚きこと、まことに栄光の限りではございます。ですが、そのような大役、私にはとてもとても、やり遂げられる自信がございません」
「そこを敢えて頼みたいのだ」
フランス皇帝は言った。
「生まれてくるローマ王の養育の最高責任者に、貴女を指名したい」
「……」
……誰が、
モンテスキュー伯爵夫人シャルロットは思った。
……赤子なんて、子守女の胸にしがみついてバブバブ言ってるだけじゃないの。養育係? この私に? 自分の言ってることがわかっているのか、このコルシカ男は。
モンテスキュー家は、旧体制を支えた貴族だ。革命前から続く家柄で、彼女の夫は、今現在も、立法院議長を務めている。
「その気品、気高さ、教養を、ぜひ、生まれてくるローマ王に伝えてやってほしい」
まるでモンテスキュー伯爵夫人の心を読んだかのように、ナポレオンは言った。
「ですが、私はすでに年を取り、社交界も退こうかと考えております」
これは、本音だった。
モンテスキュー伯爵夫人は、46歳だった。宮廷のゴシップや女同士の面当てを、散々見てきた。
……もうたくさんだ。年を取るのも悪くない。これからは、庭いじりやレース編みをして、静かに暮らそう。夫も大切にして。
そう思っていた矢先だった。
「滅相もない!」
帝王が、王座を滑り降りた。
まっすぐにモンテスキュー伯爵夫人の元まで歩いてくると、その手を握りしめた。
「貴女はまだ十分、お若く美しい。お願いです、モンテスキュー伯爵夫人。私は貴女にフランスの運命を託します。私の息子を、どうか立派なフランス人に育て上げてやって下さい」
若くて美しいなどと言われたのは、二十数年ぶりだった。
大きな乾いた手が、温かい。珍しいコロンの、よい香りがする。
モンテスキュー伯爵夫人は、ぼうーっとして、この人誑しの顔を眺めた。
「熱意と献身を持って、生まれてくる子どもに尽くすことを誓います」
気がつくと、誓いの言葉を述べていた。
部屋を出ると、控えの間に、女官服を身につけた女の姿が見えた。
モンテベッロ公爵夫人だ。
彼女は、マリー・ルイーゼ皇妃の女官長だ。皇妃がオーストリアからフランス側へと引き渡される時、この女官も、ブラスナウまで行った。皇帝の妹、ナポリ王妃を手伝い、皇妃に、フランス風衣装へ着替えさせたのも、彼女だ。
その後、この女官がしきりと皇妃に取り入っていることを、モンテスキュー伯爵夫人は知っている。
オーストリアから随行してきたラザンスキ伯爵夫人を追い返したのも彼女だ。ラザンスキ伯爵夫人は、マリー・ルイーゼに信頼され、頼りにされていた。その座を、横取りするためだ。
わざとらしく窓から外を見ていたモンテベッロ公爵夫人は、モンテスキュー伯爵夫人の気配に振り向いた。
「生まれてくる御子さま付きの女官長になったのね」
「ええ。よろしく、モンテベッロ公爵夫人」
膝を折り、礼儀正しく、彼女は挨拶した。
モンテベッロ公爵夫人は挨拶を返さなかった。公爵は、伯爵より身分が上だ。
だが、モンテベッロ公爵夫人の実家は、伯爵位である。旧家の伝統という点では、モンテスキュー家に遠く及ばない。
公爵夫人の身分は、夫が齎したものだ。ジャン・ランヌ……戦死した彼女の夫は、平民出身の元帥だった。
「先日、お庭でのお食事会の時、」
口の端を歪め、モンテベッロ公爵夫人は言い募った。
「貴女、肉料理を食べなかったんですってね。陛下は、いたく感心されていましたよ。さすが、伝統ある貴族の女性は違う。彼女らは、肉を食べないんだ、って。でも、」
意地悪く笑った。
「年をとると、お肉は食べたくなくなるものですものね。固いから、噛めないんでしょ。大丈夫かしら。そんな人に、大事な御子を育てさせて」
呆れて、モンテスキュー伯爵夫人は、相手の顔を見た。
モンテベッロ公爵夫人は29歳。その年齢で、なぜ、自分に牙を剥くのか。
それは、モンテスキュー夫人をもてなす為の食事会だった。
モンテスキュー伯爵夫人が肉を食べなかったのは、隣にナポレオンがいて、生まれてくる子どもの養育係を引き受けてくれるよう、しつこく頼み続けていたからだ。
かりにも皇帝である。その彼が、ひっきりなしに話しかけてくるのに、食べ物で口の中をいっぱいにしておくわけにはいかないではないか。
彼女は、口に入れるとすぐ溶けるムースやプディングの類しか口にしなかった。
「私の仕事は、子守ではありません。フランス王室の子どもを、どこに出しても恥ずかしくない、立派な人間に育てることです」
毅然としてモンテスキュー伯爵夫人は言い放った。
「私の下には、若いマムやナニーをたくさんつけてもらいましたよ。貴女よりずっと若い、ね。ご存知ないかもしれないけど、年を経たからこそ得られる、知識教養というものもあるんですよ」
じろりとモンテベッロ公爵夫人を見やった。
「皇妃は絵画や歌やピアノ、ハープなどをよくされ、とても深い教養をお持ちの方です。あなたが女官長では、さぞ、物足りない思いをされているでしょうね」
モンテベッロ公爵夫人の顔が、面白いように赤らんだ。彼女は、ただの牽制のつもりだった。公爵夫人の身分を持つ自分が、伯爵位の女に、まさか反撃されるとは、思ってもいなかったようだ。口をぱくぱくさせ、返す言葉もない。
別に、やりたくて引き受けた仕事ではない。向こうから押し付けてきたことだ。これ以上の名誉も欲しくないから、クビになってもいっこうに構わない。
高らかに笑いながら、モンテスキュー伯爵夫人は、控えの間を後にした。
・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
「伯爵夫人」「公爵夫人」なのに、「バロネス(男爵夫人)」とは? というご質問を、カクヨムさんで多く頂きました。
私が読んだ英訳の資料本では、モンテスキュー伯爵夫人、モンテベッロ公爵夫人ともに、"baroness" の称号で呼ばれていました。書籍全体の文意の流れから、「バロネス」は、女性に与えられる身分のことで、夫にではなく、彼女たち自身に与えられた身分だと解釈しました。皇妃につけられた女官長(モンテベッロ公爵夫人)、ローマ王の養育係長(モンテスキュー伯爵夫人)というのが、二人の職責です。
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