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万葉の季節
18 万葉集 最後の歌
しおりを挟む「ところで、『万葉集』の最後の歌って、知ってますか」
桐原の弟が尋ねた。
ものすごく真剣な目をしていた。
「知らない」
正直に俺は答えた。
家持の役割さえよく知らなかったのだ。どこにどの歌があるかなんて、知るわけがないではないか。
弟は笑い出した。
すぐにまじめな顔になって、暗唱した。
「新しき年の始の初春の今日振る雪のいや重け吉事」
(新しい年の初めの、初春の今日を降りしきる雪のように、いっそう重なれ、吉いことよ)
「家持、最後の歌です」
「死ぬ前に作った歌なの?」
「橘奈良麻呂の乱と、宿奈麻呂の乱の間に、この歌は詠まれました。家持は、不惑になったくらいの年齢です。彼は、60歳代中頃まで生きましたから……」
「残り四半世紀の間、歌を詠まなかったわけか」
家持が、歌を見限るなんて。
「この後の家持は、大伴家の重鎮として責任も重く、常に政界復帰を睨みながら、にも拘らず、相変わらず、安積親王の甥の乱に連座したりしています」
「家持の最後の歌が、『万葉集』の最後にあるのは、何か、意味があるのかな」
思わず俺は口にした。
意味があるとして、この歌を最後に配したのは、誰の意思か。
家持?
それとも、彼の死後、『万葉集』をまとめ上げた誰か……?
「これは、呪だと思うのです」
そういう桐原の弟の声は暗く、どこか異界から届いているかのようだった。
「我々を恨んでくれるなよ。この日の本の国へ、災いをなしてくれるなよ。そういう願いを込めて、この歌は、『万葉集』の巻末に置かれたのではないでしょうか。いわば、家持の棺の上に置かれた重しのようなものです」
「いやしけよごと」
俺はつぶやいた。妙に印象的な言葉だ。
桐原の弟が目を上げた。
「ええ。永遠の寿の言葉です」
「寿ぎ? 呪じゃなかったのか?」
桐原の弟は、まっすぐに、俺の目を見据えた。
「言葉には魔力があります。でも、いやしけよごと。これは、家持自身の言葉です。しかも、平和を寿ぐ言葉だ。それゆえこの歌は、家持自身の怨念を封じる役割を果たしている」
「『呪い』と『祝う』は、似ているね。字が」
思いついたことを、僕は言ってみた。たいして意味もない。情報量が多すぎて、それくらいしか反応ができなかったのだ。
桐原の弟は目を丸くした。
ややあって、彼はつぶやいた。
「さっき吉塚さんは、家持は、残りの人生を、歌を詠まないで過ごしたといいました。でも、僕は違うと思います」
「違う?」
思わず俺は鸚鵡返した。
桐原の弟は頷く。
「家持ほど饒舌に言葉を操る人が、言葉と無縁に生きていけるわけがない。いいえ。家持は、生涯に亘って、歌を詠み続けたはずです。ただしそれは、後世まで伝わっていない」
「……消されたのか? 後の為政者に」
安積皇子や彼の姉君達のように。
「家持の最後の歌は、豊葦原の瑞穂の国を賀するものでなければならない。決して、反逆思想や謀反の気持ちをこめたものであってはならない。そう考えた人がいたということです」
家持、後半生の歌は消され、残された歌は、恣意的に利用された。
軍歌に。
そして、日本の青年達を大勢、死へと導いた。
今、冥界で、家持は、何を思っているだろうか。
それとも、「いやしけよごと」の歌が重すぎて、身動き一つ、できないでいるのだろうか……。
☆――――――――
*巻二〇 4516(現代語訳も)
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