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万葉の季節
15 安積皇子の姉
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「橘奈良麻呂の乱以降、21年間、家持には、昇進はありませんでした。しかし、光仁天皇の御代になると、彼は、順調に復権していきます」
「光仁天皇?」
「安積皇子の姉上、井上内親王の、ご夫君です」
「ああ……」
また、安積皇子だ。
17歳で死んだ、家持の「吾王」……。
「確か、安積親王は、お姉さんの為に、写経をしたのだったね」(「11 松の枝に結ぶ願い」)
「覚えててくれたんですか!」
桐原の弟は、顔を輝かせた。
「ええ、その姉君です。長らく伊勢の斎王であられましたが、任果てて後、天智系の白壁王(後の光仁天皇)に嫁がれたのです」
「天智系?」
天武系の世にあって、天智系は、傍流と成り下がっていた筈だ。
「異母妹であられる、孝謙天皇(重祚して、称徳天皇)の邪魔にならない為です」
俺の戸惑いを、桐原の弟は、簡単に説明してのけた。
「この結婚は、初めのうちは、幸せなものでした。そう、思います。彼女は、夫・光仁帝との間に、二人の子どもを儲けます。うち、一人は、男の子でした……」
*
宮廷の、主流から外れた、穏やかな生活。
白壁王は、権力の外にいることに満足していた。累が及ばぬよう、故意に暗愚を装っていた節もある。
しかし、聖武帝の娘、称徳天皇が没した時、運命は変わった。
天武系の皇子は、払底していた。そして、称徳天皇は、子を残さなかった。
一方、白壁王は、聖武帝のもう一人の娘、井上内親王を妻として迎えていた。
かつて、彼女の同母弟、安積皇子は、卑母の産んだ子という理由で、皇位継承者から外された。
しかし、この場合は、そうはいかなかった。
天智系の白壁王は、天武系の妻をもつがゆえに、即位を迫られた。彼は、光仁天皇として、即位した。
光仁帝の即位を、別な目で見つめている男がいた。
帝が若かった頃に儲けた長子、山部親王だ。
山部は、光仁帝と、渡来系の女性の間に生まれた子だ。
降って湧いたような即位だった。今や、山部の父は、この国の帝だ。
だが、父の座は、彼には回ってこない。
彼は、側室腹だ。しかも、渡来系の。
井上皇后と、彼女が産んだ他戸親王がいる限り、山部に、即位の可能性はない。
ある晩。戯れに、帝が皇后と賭けをした。
勝負は、皇后の勝ちだった。
「畏れ多くも皇后陛下が、私に夜伽を命じるのです」
それからしばらくして、山部は父帝に打ち明けた。
「ああ、それ、」
父帝は鷹揚に笑った。
「賭けをしたのじゃ。朕が勝ったら、美しい女を得ることができる、と。結果、皇后が勝ってしまっての。美女は手に入れられなんだ」
博奕(賭博)といえば聞こえは悪いが、夫婦で囲碁や双六をして遊ぶような、仲の良さが垣間見えた。
妻が、義理の息子に声を掛けたのは、自分への意趣返しだろうと、帝は思っているようだった。
ことさらに、山部は、首を横に振った。
「もったいなくも、皇后陛下は、わたくしの義母上です。それなのに、枕を交わすよう、迫るのです。ありうべからざることです」
気にも留めない帝に、しつこく、山部は繰り返した。
「義母上は、女盛りを、伊勢の神宮で、清らかに過ごされた身の上です*。常人の感覚では、計り知れないところがあるのやもしれませぬ」
光仁帝は、取り合わなかった。
ただ、この話を漏れ聞いた人々から、井上皇后は、淫乱である、という噂だけが広がっていった。
やがて、帝の同母姉、難波内親王が亡くなった。
井上皇后の呪詛によるものだと、疑いがかけられた。
今度ばかりは、光仁帝も、皇后をかばいきれなかった。
これが、皇位争いに根差していたからだ。山部には、母方の渡来系氏族の他に、有力貴族の味方がついていた。
光仁帝自身を帝位に就けた、藤原式家百川だ。百川は、山部親王に心酔していた。彼を帝位に就けるために、手段を選ばなかった。
井上皇后は、息子の他戸皇子とともに、身分を剥奪され、山科の没官*宅に幽閉された。
そこから出ることなく、母と息子は、同じ日に、亡くなった。
6年後。
光仁天皇は、山部親王に譲位した。山部は、桓武天皇となった。
光仁天皇は、その年のうちに亡くなった。
☆――――――――
*井上内親王は、父の聖武帝の斎王だった。斎王は未婚のまま伊勢神宮で暮らし、俗界との交わりを許されない
**刑を受け、没収された者の家
「光仁天皇?」
「安積皇子の姉上、井上内親王の、ご夫君です」
「ああ……」
また、安積皇子だ。
17歳で死んだ、家持の「吾王」……。
「確か、安積親王は、お姉さんの為に、写経をしたのだったね」(「11 松の枝に結ぶ願い」)
「覚えててくれたんですか!」
桐原の弟は、顔を輝かせた。
「ええ、その姉君です。長らく伊勢の斎王であられましたが、任果てて後、天智系の白壁王(後の光仁天皇)に嫁がれたのです」
「天智系?」
天武系の世にあって、天智系は、傍流と成り下がっていた筈だ。
「異母妹であられる、孝謙天皇(重祚して、称徳天皇)の邪魔にならない為です」
俺の戸惑いを、桐原の弟は、簡単に説明してのけた。
「この結婚は、初めのうちは、幸せなものでした。そう、思います。彼女は、夫・光仁帝との間に、二人の子どもを儲けます。うち、一人は、男の子でした……」
*
宮廷の、主流から外れた、穏やかな生活。
白壁王は、権力の外にいることに満足していた。累が及ばぬよう、故意に暗愚を装っていた節もある。
しかし、聖武帝の娘、称徳天皇が没した時、運命は変わった。
天武系の皇子は、払底していた。そして、称徳天皇は、子を残さなかった。
一方、白壁王は、聖武帝のもう一人の娘、井上内親王を妻として迎えていた。
かつて、彼女の同母弟、安積皇子は、卑母の産んだ子という理由で、皇位継承者から外された。
しかし、この場合は、そうはいかなかった。
天智系の白壁王は、天武系の妻をもつがゆえに、即位を迫られた。彼は、光仁天皇として、即位した。
光仁帝の即位を、別な目で見つめている男がいた。
帝が若かった頃に儲けた長子、山部親王だ。
山部は、光仁帝と、渡来系の女性の間に生まれた子だ。
降って湧いたような即位だった。今や、山部の父は、この国の帝だ。
だが、父の座は、彼には回ってこない。
彼は、側室腹だ。しかも、渡来系の。
井上皇后と、彼女が産んだ他戸親王がいる限り、山部に、即位の可能性はない。
ある晩。戯れに、帝が皇后と賭けをした。
勝負は、皇后の勝ちだった。
「畏れ多くも皇后陛下が、私に夜伽を命じるのです」
それからしばらくして、山部は父帝に打ち明けた。
「ああ、それ、」
父帝は鷹揚に笑った。
「賭けをしたのじゃ。朕が勝ったら、美しい女を得ることができる、と。結果、皇后が勝ってしまっての。美女は手に入れられなんだ」
博奕(賭博)といえば聞こえは悪いが、夫婦で囲碁や双六をして遊ぶような、仲の良さが垣間見えた。
妻が、義理の息子に声を掛けたのは、自分への意趣返しだろうと、帝は思っているようだった。
ことさらに、山部は、首を横に振った。
「もったいなくも、皇后陛下は、わたくしの義母上です。それなのに、枕を交わすよう、迫るのです。ありうべからざることです」
気にも留めない帝に、しつこく、山部は繰り返した。
「義母上は、女盛りを、伊勢の神宮で、清らかに過ごされた身の上です*。常人の感覚では、計り知れないところがあるのやもしれませぬ」
光仁帝は、取り合わなかった。
ただ、この話を漏れ聞いた人々から、井上皇后は、淫乱である、という噂だけが広がっていった。
やがて、帝の同母姉、難波内親王が亡くなった。
井上皇后の呪詛によるものだと、疑いがかけられた。
今度ばかりは、光仁帝も、皇后をかばいきれなかった。
これが、皇位争いに根差していたからだ。山部には、母方の渡来系氏族の他に、有力貴族の味方がついていた。
光仁帝自身を帝位に就けた、藤原式家百川だ。百川は、山部親王に心酔していた。彼を帝位に就けるために、手段を選ばなかった。
井上皇后は、息子の他戸皇子とともに、身分を剥奪され、山科の没官*宅に幽閉された。
そこから出ることなく、母と息子は、同じ日に、亡くなった。
6年後。
光仁天皇は、山部親王に譲位した。山部は、桓武天皇となった。
光仁天皇は、その年のうちに亡くなった。
☆――――――――
*井上内親王は、父の聖武帝の斎王だった。斎王は未婚のまま伊勢神宮で暮らし、俗界との交わりを許されない
**刑を受け、没収された者の家
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