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アルゴスの献身 5
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「休暇が明けた後のことは、心配するな。皇帝はライヒシュタット公への君の献身を、高く評価されている。スイスでゆっくりしている間に、フェルディナンド大公の式部官のポストが空くはずだから、そしたら、モル、お前の出番だ」
訪ねてきた上官、ハルトマンが、自信満々に太鼓判を捺した。
「ところで、前にお前と二人で、報告書をまとめたろ? プリンスの人柄とか、軍務での様子とか、マルモン元帥との付き合いとか」
それは、プリンスが亡くなって、すぐのことだった。提出を求められた書状には、メッテルニヒの優雅な字で、補佐官たちへの質問事項が書き連ねられていた。
特に、マルモン元帥との交友について、詳しい報告が求められていた。マルモンは、ナポレオンを裏切った元帥だ。七月革命で国を追われた彼は、保護を求めて、ウィーンへ来ていた。メッテルニヒは、ナポレオンの悪い面を教えるという条件で、マルモン元帥とプリンスの接触を許した。
そういう経緯があった。
他にも、メッテルニヒからの質問は、多岐に及んでいた。公用語のフランス語に根を上げたハルトマンは、モルに助けを求めた。モルは、辞書と首っ引きで、大変な時間をかけて、報告書を書きあげた。
「あの報告書は、モントベール伯爵に渡されたらしい。彼は、メッテルニヒの依頼で、プリンスの伝記を書くんだと」
「モントベール伯爵ですって!」
驚いてモルは叫んだ。
「全く、なんて選択だ!」
モントベールは、ブルボン復古王朝の、シャルル十世の大臣だった。彼もまた、七月革命でフランスを追われ、オーストリアに亡命していた。
メッテルニヒは、よりによって、ナポレオンの敵に、プリンスの伝記を書くよう、依頼したことになる。
したり顔で、ハルトマンは頷いた。
「俺もそう思うよ。そんなのに、協力したくないじゃないか。ブルボンの臣下に、殿下の情報を漏らしたくないからな!」
ハルトマンの鼻息は荒い。
「だから、宰相に呼ばれて、『プリンスは誰を最も愛していたか』って聞かれた時、自分の名を上げなかったんだ」
「『プリンスは誰を最も愛していたか』ですって?」
モルの声が裏返った。
「それで、あなたは、誰の名前を挙げたんです?」
「そりゃ、皇族方だと答えたよ。皇帝とか皇妃とか、あと、叔父君のフランツ・カール大公とか。あ、プリンスの母君の、マリー・ルイーゼ陛下もね。そしたら、皇族の他にも、との仰せだったから、子どもの頃から彼を知っているディートリヒシュタイン伯爵ら三人の家庭教師と、ついでに、プロケシュ少佐の名も上げておいた」
「プロケシュ少佐?」
「だって、公私ともが認める、『親友』だろ、少佐は」
「……」
「ディートリヒシュタイン先生だって、そう言ってたし」
「……」
「プロケシュ少佐が来ると、殿下は、それはそれは嬉しそうだったじゃないか」
プロケシュ=オースティンは、プリンスが初めて得た、軍人の友である。
中東外交で堅実な成果を上げた彼は、一方で、ナポレオンの研究者でもあった。
プロケシュは、ナポレオンを擁護する本を出版した。全く売れなかったが、ドイツ語で書かれたこの本を、二ヶ国語に翻訳してしまうくらい、熟読した者がいた。ナポレオンの息子、ライヒシュタット公だった。
ギリシアでの任務が終わり、母国へ帰ってきたプロケシュを、プリンスの家庭教師、ディートリヒシュタイン伯爵が、教え子に引き会わせた。たちまち二人は意気投合し、16歳年上のプロケシュは、プリンスの「親友」となった。
モルたちが配属になる、3ヶ月前のことである。間もなくプロケシュは、教皇領へ転属となったが、その後、一時帰国して、ウィーンに4ヶ月半ほど滞在している。それで、モルも、彼を知っていた。
「……」
「モル?」
ようやくハルトマンは、モルの沈黙に気が付いた。にわかに、うろたえた。
「ごめんよ、モル。お前の名前は、出さなかった」
……『プリンスは誰を最も愛していたか』。
……畜生!
思わずモルは、心の中で毒づいた。
……プロケシュ少佐だと?
言うまでもなく、モルは、自分より二歳年上の、この如才ない男が嫌いだった。
部下の態度から、何かを察したのか。ハルトマンは、慌てて弁解を始めた。
「いやだって、お前が一人きりで、モントベールと話すわけにはいかないだろ? どうしたって俺の付き添いが必要になる。おれはな、モル。愛情を垂れ流すような真似はできないんだ。常に誠実でありたいと思っている。だから、宰相の前で、自分の名を出すわけにはいかなかったんだ」
ブルボンの遺臣に協力したくなかったと言った先刻と、違う理由を口走る。
「……」
押し黙ったままの部下に、ハルトマンは、さらに焦った。
「もちろん、俺は知っている。俺だけじゃない。プリンスの従者たちはみんな、知っている。病床のプリンスが、最も信頼していたのは、お前だって」
「……」
「お前はプリンスに忠誠を尽くした。あのような献身は、滅多にできることじゃない」
「……」
「俺の責任だ!」
モルの沈黙を前に、遂にハルトマンは、謝罪を始めた。
「自分が誠実であろうとしたばかりに、自分ばかりか、お前の名前まで出さなかったのは、まさしくこの俺の手抜かりだ! 俺は、この責任を問われるべきだ!」
「いいんですよ。ハルトマン将軍」
強張った笑みを、モルは浮かべた。
「私がプリンスの愛情を得ていてもいなくても、この先、私の名前は、彼なしに語られることはないでしょう。それに、彼は、私を完全に正当に評価してくれていました」
死の間際、彼がつぶやいた感謝の言葉を、モルは、永遠に忘れない。
「いずれ、私は死ぬでしょう。死んだ後、私の名前は、プリンスの名とともに、人々の記憶に刻印されることになる。それが、私への最大の褒美です」
「うん。なんといったって、殿下は、ナポレオンの息子だものな。彼に最後まで忠誠を尽くしたお前の名前は、永遠に残るとも。俺とスタンの名もな」
ほっとしたように、そして抜け目なく、ハルトマンは付け加えた。
訪ねてきた上官、ハルトマンが、自信満々に太鼓判を捺した。
「ところで、前にお前と二人で、報告書をまとめたろ? プリンスの人柄とか、軍務での様子とか、マルモン元帥との付き合いとか」
それは、プリンスが亡くなって、すぐのことだった。提出を求められた書状には、メッテルニヒの優雅な字で、補佐官たちへの質問事項が書き連ねられていた。
特に、マルモン元帥との交友について、詳しい報告が求められていた。マルモンは、ナポレオンを裏切った元帥だ。七月革命で国を追われた彼は、保護を求めて、ウィーンへ来ていた。メッテルニヒは、ナポレオンの悪い面を教えるという条件で、マルモン元帥とプリンスの接触を許した。
そういう経緯があった。
他にも、メッテルニヒからの質問は、多岐に及んでいた。公用語のフランス語に根を上げたハルトマンは、モルに助けを求めた。モルは、辞書と首っ引きで、大変な時間をかけて、報告書を書きあげた。
「あの報告書は、モントベール伯爵に渡されたらしい。彼は、メッテルニヒの依頼で、プリンスの伝記を書くんだと」
「モントベール伯爵ですって!」
驚いてモルは叫んだ。
「全く、なんて選択だ!」
モントベールは、ブルボン復古王朝の、シャルル十世の大臣だった。彼もまた、七月革命でフランスを追われ、オーストリアに亡命していた。
メッテルニヒは、よりによって、ナポレオンの敵に、プリンスの伝記を書くよう、依頼したことになる。
したり顔で、ハルトマンは頷いた。
「俺もそう思うよ。そんなのに、協力したくないじゃないか。ブルボンの臣下に、殿下の情報を漏らしたくないからな!」
ハルトマンの鼻息は荒い。
「だから、宰相に呼ばれて、『プリンスは誰を最も愛していたか』って聞かれた時、自分の名を上げなかったんだ」
「『プリンスは誰を最も愛していたか』ですって?」
モルの声が裏返った。
「それで、あなたは、誰の名前を挙げたんです?」
「そりゃ、皇族方だと答えたよ。皇帝とか皇妃とか、あと、叔父君のフランツ・カール大公とか。あ、プリンスの母君の、マリー・ルイーゼ陛下もね。そしたら、皇族の他にも、との仰せだったから、子どもの頃から彼を知っているディートリヒシュタイン伯爵ら三人の家庭教師と、ついでに、プロケシュ少佐の名も上げておいた」
「プロケシュ少佐?」
「だって、公私ともが認める、『親友』だろ、少佐は」
「……」
「ディートリヒシュタイン先生だって、そう言ってたし」
「……」
「プロケシュ少佐が来ると、殿下は、それはそれは嬉しそうだったじゃないか」
プロケシュ=オースティンは、プリンスが初めて得た、軍人の友である。
中東外交で堅実な成果を上げた彼は、一方で、ナポレオンの研究者でもあった。
プロケシュは、ナポレオンを擁護する本を出版した。全く売れなかったが、ドイツ語で書かれたこの本を、二ヶ国語に翻訳してしまうくらい、熟読した者がいた。ナポレオンの息子、ライヒシュタット公だった。
ギリシアでの任務が終わり、母国へ帰ってきたプロケシュを、プリンスの家庭教師、ディートリヒシュタイン伯爵が、教え子に引き会わせた。たちまち二人は意気投合し、16歳年上のプロケシュは、プリンスの「親友」となった。
モルたちが配属になる、3ヶ月前のことである。間もなくプロケシュは、教皇領へ転属となったが、その後、一時帰国して、ウィーンに4ヶ月半ほど滞在している。それで、モルも、彼を知っていた。
「……」
「モル?」
ようやくハルトマンは、モルの沈黙に気が付いた。にわかに、うろたえた。
「ごめんよ、モル。お前の名前は、出さなかった」
……『プリンスは誰を最も愛していたか』。
……畜生!
思わずモルは、心の中で毒づいた。
……プロケシュ少佐だと?
言うまでもなく、モルは、自分より二歳年上の、この如才ない男が嫌いだった。
部下の態度から、何かを察したのか。ハルトマンは、慌てて弁解を始めた。
「いやだって、お前が一人きりで、モントベールと話すわけにはいかないだろ? どうしたって俺の付き添いが必要になる。おれはな、モル。愛情を垂れ流すような真似はできないんだ。常に誠実でありたいと思っている。だから、宰相の前で、自分の名を出すわけにはいかなかったんだ」
ブルボンの遺臣に協力したくなかったと言った先刻と、違う理由を口走る。
「……」
押し黙ったままの部下に、ハルトマンは、さらに焦った。
「もちろん、俺は知っている。俺だけじゃない。プリンスの従者たちはみんな、知っている。病床のプリンスが、最も信頼していたのは、お前だって」
「……」
「お前はプリンスに忠誠を尽くした。あのような献身は、滅多にできることじゃない」
「……」
「俺の責任だ!」
モルの沈黙を前に、遂にハルトマンは、謝罪を始めた。
「自分が誠実であろうとしたばかりに、自分ばかりか、お前の名前まで出さなかったのは、まさしくこの俺の手抜かりだ! 俺は、この責任を問われるべきだ!」
「いいんですよ。ハルトマン将軍」
強張った笑みを、モルは浮かべた。
「私がプリンスの愛情を得ていてもいなくても、この先、私の名前は、彼なしに語られることはないでしょう。それに、彼は、私を完全に正当に評価してくれていました」
死の間際、彼がつぶやいた感謝の言葉を、モルは、永遠に忘れない。
「いずれ、私は死ぬでしょう。死んだ後、私の名前は、プリンスの名とともに、人々の記憶に刻印されることになる。それが、私への最大の褒美です」
「うん。なんといったって、殿下は、ナポレオンの息子だものな。彼に最後まで忠誠を尽くしたお前の名前は、永遠に残るとも。俺とスタンの名もな」
ほっとしたように、そして抜け目なく、ハルトマンは付け加えた。
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