地球の愛

綿柾澄香

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2、幽玄

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 少女は両腕を後ろに組み、笑みを浮かべて、俺の驚いた顔を覗き込んでくる。

 その容姿はとても特徴的なものだった。

 俺の顔を覗き込むその瞳の虹彩は、深い深い緑色だ。真夏の青々と繁る森林のように豊かな緑色をしている。髪は肩にはかからない程度の長さで、いわゆるボブといわれる髪型だ。その色は青色がメインで、白のメッシュが所々に入っている。青が重なったところは群青色のように濃い青色だし、白のメッシュと混じり合った青の部分は水色っぽく見える。まるで、表情をころころと変える波打ち際の海のようだ。肌の色は褐色で、誰も足を踏み入れていない砂漠の表層みたいにキメが細かく、少し厚めの唇は溶岩のように赤く、とても艶やかで、生命力に満ちて見える。

「……キミは人間か?」

 それが、俺の彼女に対するファーストインプレッションだった。

 その容姿は、たしかに人間ではあったものの、その配色はどうしたって人間らしくはない。もちろん、瞳の色が緑色だというのはべつに非現実的なものではないし、髪の色だって染めてしまえば、どんな色にだってできる。

 けれども、彼女のそれはとても自然なものに見えたのだ。
 調和がとれている、というべきか。

 髪の色も、瞳の色も、肌の色も、そのすべてのバランスが美しく見えた。まるで、人間離れした美しさ。

「ふむ、なかなか勘が良いようじゃな」そう言って、少女は人さし指を俺に向ける。「たしかに、わしは人間ではない」

 彼女のその言葉に、息を飲む。

 人間ではないのではないか、と訊ねたのはたしかに俺だ。けれども、それは本気で口にしたものではない。あくまでそう思った、というだけのことだった。

 けれども、彼女は自身を人間ではないという。
 ならばなんだというのだろう。

 幽霊、精霊、妖精、女神、天使、悪魔、UMA、それともアンドロイドか?

 彼女の答えは、そのいずれでもなかった。

「わしは地球じゃ」

「……は?」

 べつに、その声が聞こえなかったわけじゃない。ただ、彼女のその言葉の意味がうまく理解できなかっただけだ。彼女は自らを地球だと言ったか。それはいったい、どういう意味なのだろう。それとも、なんらかの比喩なのだろうか。

「えっと、地球っていうのはどういう……」

「どういうもこういうも、言葉の通り、それ以上でも以下でもないわ。わしは、この地球じゃよ」

 そう言って、ぱしぱしと足で地を叩く。

「つまり、その、この地球?」

 俺は地面に人差し指を向ける。

「この地球じゃ」

「へえ、そう……地球、か。なるほど」

 やはり、彼女のその言葉の意味はうまく理解できない。

「……信じておらぬな」

「いや、そんなことは……ない、ですよ」

「いや、めっちゃ目が泳いでるんじゃが……」

 少女はじっと、アホを見るような呆れた目をむけてくる。

「信じていないわけじゃなくて、うまく現状を把握できていないんだよ。地球っていうのはつまり、この惑星ほしの意思を宿した化身のようなもの、っていうことなのか?」

「なんじゃ、やはりわかっておるではないか。そういうことじゃ。わしはまさしくこの地球の意思、精神を具現化した存在じゃ。魂を人型にして鋳造ちゅうぞうし、ここに顕現けんげんしたこの惑星ほしの化身じゃよ」

 少女は少し、誇らしげに胸を張る。
 地球の化身。

 それが事実ならば、これは人類にとって、とてつもない邂逅かいこうと言えるだろう。

 ――事実ならば。

 今はまだ、彼女が言っていることが本当かどうかはわからない。客観的な事実だけを述べるのならば、俺の目の前に突如として、特徴的な外見の変わった少女が現れたというだけにすぎない。自らを地球の化身と名乗る変人が現れただけのこと、と考えるのが自然だろう。

 けれども、彼女がそれを信じるに足るだけの証拠を提示したのならば……

「……なら、キミがこの惑星ほしそのものなのだと証明できるようなものはあるのかな?」

「ま、そうじゃな、おぬしが一発でわしのことを信じるには、やはりなんらかの証拠を示すのが一番じゃろうな」

 そう言うと、彼女は小さく咳払いして指を鳴らす。
 パチン、と乾いた音が響いたと同時に、少し眩暈めまいがした。

 ――いや、これは。

 眩暈ではない。頭がぐわんぐわんと揺れているような気がしたけれども、揺れているのは僕の目でも頭でもなかった。足元から、僕の全身を揺らしているのは、この建物そのもの、つまりは地が揺れているのだろう。

 地震だ。

 大きな揺れではない。けれども、たしかに揺れている。

 これは、彼女が起こした地震なのだろうか。タイミング的にはこれ以上ないタイミングだろう。指を鳴らす、ただそれだけで地震を起こしてしまえるのならば。たしかに彼女が地球の化身である、という信憑性は高まる。

 小さく息を飲む。

 ――本当に、彼女は……

「どうじゃ、信じたかのう?」

 得意げな笑みを浮かべて、彼女は両手を腰に当てる。
 まるで、褒められたい子供が、自らの功績を見せびらかすかのように。

 いや、地震を起こしてしまう、というのはあまり褒められたものではないと思うのだけれど。でもまあ、その効果はゼロではない。俺はたしかに、彼女の言葉を信じ始めている。

「……少しは、ね」

 俺のその言葉に、彼女はうむうむと満足げに頷いた。

 信じたのは少しだけだと言ったのだけれど、少しだけでもいいのだろうか。

 けれどもまあ、満足げな彼女のその顔は、本当に純粋な喜びに満ちて見えた。本人が嬉しいと思っているのならばそれでもいいか、と俺も納得して無粋な言葉はわざわざ口にしないようにする。

「でも、その地球の化身であるキミがどうしてここに?」

 なぜ、そんな大それた存在である彼女が俺なんかの目の前に現れたのだろうか。本当に、全く心当たりがなくて、困惑してしまっている、というのが現状だ。俺なんて、この地球にとって重要な存在でもなんでもないだろう。むしろ、この惑星を捨てて出て行こうとしていたというのに。

 俺の問いに、彼女はつまらなさそうに口を開く。表情がころころと変わって、忙しい子だな、と思う。

「おぬしが地球わしから出ようとしているからじゃよ」

「俺が?」

「そう。知っておるか? 人類はもう長い間、宇宙への打ち上げに失敗して続けておる」

 そんなことをわざわざ彼女が心配して出張ってきたのだろうか。それはなんというか、お人好しすぎやしないだろうか。

「……もちろん、知ってるよ。最後の打ち上げ失敗はもう六十年くらい前のことらしいね。最後の失敗以前には百二十三回連続で打ち上げに失敗している」

 人類がいよいよ本格的に宇宙進出を果たそうか、という段階ステージに入ったときのことだ。月面に都市を建設し、それを足掛かりに火星に都市を建設する計画が本格的に始動した。そして、そのための資材を月面都市に運ぼうとして打ち上げたロケットが突如として吹いた突風にあおられて、墜落したのだ。

 その出来事を皮切りに、以降の打ち上げはすべて失敗に終わった。奇妙だったのは、それによる死者数はゼロだったことだ。それが、人々の不安をより掻き立てる結果となった。

 つまり、人類が宇宙へと向かえなくなったのは、神の意志なのではないか、という思想が広まっていったのだ。これまで当たり前のようにできていたことが、こんなにもできなくなるだなんて、ただごとではない、と。人類が進歩を続け、傲慢にも生まれ育った地球を捨てていこうとする行為が神の逆鱗げきりんに触れたのだ、と。

 最期の打ち上げが失敗した日、ロケットが空中で分解した瞬間に、街中には歓声が響いたという。

「もはや宇宙ロケットの技術は喪失ロストしておるというのに、それでも電子の海ネットの奥深くに沈み込んだ情報をサルベージして、宇宙そとを目指す。それはなぜじゃ? そこまでして地球わしから出て行く理由を知りたいのじゃ。それを訊きたくて、わしはここに来た」

「…………」

 俺が宇宙を目指す理由は、ひどく個人的な話だ。できることならば、誰かになんて話したくはないのだけれど。

「なぜ出て行きたいんじゃ?」

 彼女は再び問う。少し、寂しそうに。

 俺なんて、この地球上に存在する百億もの人類の中のたったひとりに過ぎない。そんなちっぽけな存在がいなくなったところで、地球彼女に及ぼす影響なんて微塵みじんもないはずだ。それなのに、なぜ彼女は俺が出て行こうとすることをこんなにも気にするのだろうか。

「教えない」

 けれどもまあ、やはり初対面の相手に話すようなことではない。
 それがたとえ、地球の化身が相手なのだとしても。

「むう、なぜじゃ?」

「だって、俺たちは初対面だ」

「じゃから?」

「だから、だよ。普通、初対面の人間は、こんなに踏み入った話はしないんだよ」

「じゃあ、どうなったらおぬしはそういう話をするようになるのじゃ?」

「そりゃあ……友達になったら、じゃないのかな」

「ふむ、じゃあわしらはどうすれば友になれるのじゃ?」

 とてもシンプルで真っ直ぐな質問。
 けれども、その問いに対する答えを、俺は持ち合わせていなかった。

 だって、そもそも俺にはこれまでの人生の中で友人というものを持ったことなんてなかったからだ。

「わからない」

「はぁ?」

 不機嫌そうに顔をしかめる少女。

「俺、これまでに友達なんていたことがなかったからね」

「じゃあおぬしは初めっからわしに理由を話す気なんてないということではないか」

「ま、そうかもね」

 そんな回答に、彼女はじっと睨みつけるように俺の顔を見つめてくる。

 数秒の沈黙。

 それからなにかを思いついたかのようにふと表情を揺るめる。そこには悪戯っ子のような笑みが浮かんでいる。

「なるほど、わかった。ならば、わしがおぬしの最初の友になればよいのじゃな」

「え?」

「おぬしの友になるための努力をわしは惜しまんぞ」なぜかそんなふうにやる気満々になっている。

「で、友の定義とはなんじゃ?」

 そう問われて考えてみるけれども、そもそも自分にいままで友人がいたことがないのだから、わかるはずもない。でも、世間一般の人たちを見て感じる友人の在り方、というものはなんとなくわかる。

「まあ、よく一緒にいて無駄な話をしても苦痛じゃない相手、っていうのが友達なんじゃないのかな」

「なるほど、ならばまずはわしらに必要なのは互いを理解するために対話を重ねること、かのう。相手を知らねば無駄なことも話せんじゃろ」

「それは……まあ、そうか」

「よし、ではまずなにから話す?」

 なんて、彼女は勝手に話を進めていく。

「いや、ちょっと待ってよ。俺はキミと友達になる気は……」

「わしにはある」

 俺の話なんて聞いちゃいない。

 けれども、彼女は地球だ。さっき起こした地震の揺れもまだ体に感覚として残っている。その力はおそらく人ひとりの力でどうこう出来るようなものではないほどに強大なものなのだろう。ならば、あまり彼女の機嫌を損なうのは得策ではないのかもしれない。

 ……まあ、適当に誤魔化しながら聞き流せばいいか。

「わかったよ。キミのそのやる気は買う。でも、俺には俺の作業がある。その手を動かしながらの会話でもいいかい?」

「うむ、よかろう。その手を止めることができれば、わしとおぬしは友と呼んで差し支えない仲だと言えるな」

「まあ、それだけキミとの会話に夢中になれるのなら、もう友達なんだろうな」

「よしよし。それじゃあ、わしが……」

「あ、いや、ちょっと待って」意気揚々と話し始めようとした彼女の言葉をさっそく遮ってしまって申し訳ないが、彼女と対話を重ねる前に俺がまず知らなければいけないことがある。「キミの名前は? 俺はキミをなんて呼べばいいんだ?」

「名前、はそんなに重要なものなのか?」

 そう言われて、ふと考えてしまう。

 たしかに、今この場には俺と彼女しかいない。この地球上に人類はたくさん存在していて、それぞれを認識、識別するために名前がつけられているけれども、たったふたりしか存在しない場所、空間で名前なんかに意味はあるのだろうか。ここでは『あなた』と『わたし』だけで会話は成立するだろう。

 でも。

「いや、まあ重要ってほどでもないかもしれないけど……友達同士っていうのは、大抵名前やあだ名を呼び合うものなんじゃないかな。キミが俺と友達になるつもりじゃないのなら、べつに名前は呼ばなくてもいいかも知れないけど」

 俺はべつにそんなのはどうだっていいのだけれど。

「なるほど、それはたしかに重要じゃな」納得したのか、彼女は深く頷く。「おぬしの名は?」

「俺は……へり富良西ふらにし縁だ」

「フラニシヘリ……? 言いにくいのう」

「縁でいいよ」

「うむ、わかった。ヘリ、じゃな」

「で、俺はキミのことはなんて呼べばいい?」

 べつに、難しいことを聞いたつもりはなかった。けれども、僕のその質問に彼女はピタリと動きを止めた。彼女の顔はまっすぐ僕の顔の前にある。だというのに、その目は僕と彼女の間にある虚空を見つめていた。

 そうしてほんの一呼吸分くらいの静謐せいひつの後に、彼女は口を開いた。

「わしには多くの呼び名があるからのう……地球、アース、テラ、テルース、ガイア、太陽系第三惑星、母なる大地、奇跡の惑星。なんでも好きに呼ぶがよい」

「じゃあ、ポチ」

「わしゃ犬か!」

「気に入らない?」

「当然じゃろ!」

「ふむ、それじゃあ……」

 もちろん、ポチというのは冗談のつもりだった。なにせ、彼女は地球の化身という、神にも等しい存在(仮)だ。そんなものをどう呼べばいいのかなんて、わからない。俺が決めてしまっていいのだろうか、と腰が引けてしまう。

 考えながら、彼女を見る。改めて、彼女のその容貌を観察する。

 深緑の虹彩、青と白の髪、褐色の肌。

 たしかに、よく見れば見るほどにその容姿の美しさは、まさに地球という惑星そのものを体現しているように見える。

 宇宙から撮られた地球の写真を思い出す。
 誰だって、一度は見たことのあるものだろう。

 漆黒の中にぽっかりと浮かぶ鮮烈な青い穴。その青のふちは微かに滲んでいて、淡い輝きを纏っている。無音の真空の中に浮かぶ紺碧こんぺきの宝石。

 それは、間違いなく美しいものだ。
 息をのむほどに。

 その美しさを言葉に表すのならば、どう言えばいいのか。

 荘厳さと優雅さ、麗らかさと力強さ、それらすべてを包括しながら、奇跡的なバランスで存在するその輝きは。

「……幽玄ゆうげん

 ふと口を突いて出たのは、そんな言葉だった。

「ユーゲン……?」

 聞き慣れない言葉だったのか、彼女は首を傾げている。

「ああ、いや。これはべつに……」

 キミの名前のつもりで言ったんじゃない。といいかけたところで、彼女はぱっと弾けるような笑みを浮かべた。

「いいのう、それ」

「え?」

「ユーゲン。気に入った。これからはわしのことをそう呼ぶがよい」

「いや、でもこれは人の名前に使うような言葉じゃないんだけど」

「わしは人間ではない」

「あ……」

「じゃから、わしに人の名をつける必要性は無いのじゃ」

 もう、なんだってよかった。

 嬉しそうに話す彼女の顔を見れば、直さなくてもいいことをわざわざ治してしまうのなんて、無粋に思えた。彼女がそれでいいと言っているのだから、それでいいじゃないか。

「わかったよ。これからキミを幽玄と呼ぼう」

 こうして俺が彼女の呼び名を決めたとき、世界の行方は決定付けられたのだろう。

 それは、世界の終わりの始まりだった。
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