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第二話 彼女の物語

4、私が生まれて初めて目にした

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『やあ、今日も健康そうでなにより』

 と、今日も彼は言った。ここ最近ではそのあいさつは定型文のように毎日彼の口から聞かされている。とはいえ、昨日の声の調子と違って、今日は明るいような気がする、今日は暗いような気がする、なんて自分で勝手に解釈を付け加えたりしているので、飽きはしない。

 ただ、その日の彼のそのあいさつは、いつもとまったく違うものだった。いや、あいさつ自体はいつもと変わらないものだ。けれどもいつもと違ったのは、そのあいさつをした彼のその後の表情だった。

 その声を聞いて振り返った私は、いつものように彼に微笑みかけた。その次の瞬間、私は息を飲んだ。

 ――彼が、笑っている。

 口角が上がり、目を細めるその表情は、紛れもなく笑顔だった。

 それは、私が生まれて初めて目にした、自分以外の人間の笑顔だった。生まれて初めて自分に向けられた笑顔。

 それを見て、私の中のなにかが弾けて、溢れ出した。

 人に笑顔を向けられるということが、こんなにも嬉しいことなのか。いや、それともこれは彼が見せた笑顔だから、こんなにも心動かされたのか。きっと、その両方だ。初めて自分に向けられた笑顔。その相手が彼だったからこそ、私はこんなにも感動してしまっている。

 自然と涙が溢れ、頬を伝う。

 悲しくなんてないのに。寂しくなんてないのに。苦しくなんてないのに。それでも頬を伝うこの涙は、私の今の心情を表すのにきっとふさわしい涙だ。

 彼は私の涙を見て、小さく首を傾げた。きっと、彼はどうして私が涙を流したのかわからないのだろう。なんだかその仕草が少し可笑しくて、思わず口元が緩んでしまう。

『キミはどうして泣いているんだ?』

 と、彼は訊ねる。

「貴方の笑顔が嬉しくて」

 当然、私の声は向こうには届かない。

『ああ、そうだったね。キミの声はこちらには聞こえないんだった』

 けれども、彼はそんなことも失念してしまっていたらしい。それだけ私の涙に驚いた、ということなのだろう。

「ごめんなさい。貴方を驚かせるつもりはなかったの。むしろ、驚いたのは私のほうなんだから。貴方が急に笑ってみせるから、私は動揺して……」

『なにも言わなくていい。キミの声は届かない。だから、僕が一方的に話すだけだ』

 そんな私の声を遮るようにして、彼は言う。別に、構わない。彼との会話はいつもこんな感じだ。もう慣れた。そもそも、私の声は彼には届いていないのだから、お互いの言葉がぶつかってしまうのは仕方がない。

「……ええ、そうね。いつも通り貴方が話す言葉を私が聞いて、私は届かない言葉を話すだけ。それでもいいのです。きっと、貴方が笑ったのは、私の思いが届いたからなのでしょう? なら、私はこれからもこうして貴方に語りかけ続けます」

 彼が笑ったきっかけがなんなのかはわからない。けれども、彼が愛を見失った側の人類ならば、普通に生活していれば絶対にこんなふうに笑わなかったはずだ。それは、私が見てきた他の愛を見失った人たちを知っているから、断言できる。彼らは、絶対に彼のようには笑わない。彼はきっと、少しづつ変わりつつあるのだ。

 彼の変化を見て、私は確信する。この先、私たちはもっと理解し合えるようになるはずだ、と。
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