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第12章 不知火の夏空

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 アストラ師から和矢の父、真矢の生存をほのめかされ、健太の心は波立っていた。
 思えば、ここ数年、その死を知らされ、和矢と美矢の行方を求めてインドを放浪し、思いがけず帰国した日本で和矢と邂逅した。
 真矢の妹で和矢たちの叔母の弓子から『世界神聖学会』や『黄昏の薔薇』の存在を聞かされ、結果的にその死の謎を追求することを断念していた。
 心の奥底で燻ぶっていたものの、諦めにも似た気持ちで棚上げしていた問題を、まさか当の『世界神聖学会』幹部候補で、幼い頃に心を寄せたフォー――アストラ師の口から聞くことになるとは思いもしなかった。
 もちろん、英人に言われるまでその存在を思い出しもしなかった健太ではあったが、記憶の糸口を示され、蘇った記憶の真矢の傍らにいた年上の少年に懐かしさがこみあげていた。
 けれど。

「和矢んちに行けば、話してくれるのか?」
 続きは遠野家で話す、というアストラ師に、今すぐにでも押しかけそうな勢いで健太は問うた。
「ええ。でも、今すぐ、というわけにもいかないでしょう。よそ様のお宅にいきなり押しかけるのは、礼を失する行為ですし」
 アストラ師本人は有無言わせず遠野家に居候を決めて逗留しているくせに、至極常識的なセリフを口にする。
 アストラ師の行為はさておき、世間並みに常識的な行動を心がける健太は、その言葉に納得せざるを得ない。夕方のこんな時間に、少なくとも英人と二人で押しかけるのは、家長の弓子にも迷惑だろう。
 鷹揚な弓子はおそらく気にもしないだろうが、だからと言って強引にことを進めるべきではない。少なくとも、そのことでアストラ師に揚げ足を取られるようなことは避けたかった。
 幼い日の思い出に懐かしさは覚えるものの、現在の彼の言動には、引っかかりを覚える。どこか計略にはまっているような、人を食った雰囲気を感じる。

 そっか、アイツに似てるんだ。

 何もかも分かっているくせに中々真実を明かさない、どこか人を小馬鹿にして一段高いところから見下ろされていると感じてしまう、あの、唐沢斎を髣髴とさせるのだ。

 わけも言わず、アキラ=ケネス・香月と共にイギリスに渡ってしまった斎。日本を離れてから、すでに半月近くなるというのに、今もどこかで見られているような存在感を残している。
 唐沢宗家の警護が継続していることも関係するのかもしれないが、側にいてもいなくても、良くも悪くも影響が大きい。
 
「そうですね。まずは日を改めましょうか。そろそろ夕暮れです。日は長いとはいえ、お嬢さん方は帰宅したほうがよろしいでしょう」
 言葉に詰まっている健太から視線をはずし、アストラ師は、様子を静かに見守っていた真実や加奈を見る。

「……ああ、そうだな」
 大丈夫、というように目で否定する真実に視線で微笑み返し、ひとまず健太は要求をひっこめた。
 英人もうなづき、ひとまず話を中断し、それぞれ帰途に着くことにする。
「健太……」
 労わるように俊が声をかけてくる。言葉足らずな少年は、何と言葉を掛ければいいか迷いながら心配そうに眉をひそめている。
「大丈夫、色々、驚いただけだから。それよりも……」
 俊の隣で泣きそうな顔をしている美矢に、健太は視線を送る。
「……私も、驚いただけ、だから……」
 同じ言葉でごまかそうとするが、死んだと聞かされていた父親が生きていたと知ったのだ。顔も覚えていないとは言っていたが、平静でいられるわけでもないだろう。
「美矢ちゃん、今日、うちに来る? お泊りしない? 真実ちゃんも」
「そうだね。良かったら英語教えてよ。後輩に頼むのはどうかと思うけど、美矢ちゃん英語ペラペラだし」

 加奈と真実が美矢を泊りに誘う。
 自宅に帰れば、否応なしにアストラ師と顔を合わせてしまう。それを気遣っての言葉だと分かる。
「ありがとうございます。でも、兄さんを……」
 和矢を一人にしておけない、そう言いたいのだろう、言葉を濁すが、その意図は伝わった。本当なら和矢も連れ出したいところだが、そうなると遠野家には弓子が残ることになる。弓子とアストラ師と二人きりにしたくない和矢は、それを甘受できないだろう。
 さっさと場をあとにしたアストラ師を追って一足早く帰った和矢も、おそらく動揺しているはずだ。その兄を思って、美矢は加奈と真実に感謝しつつ、帰宅すると告げた。
「じゃあ、またいつでも来てね。本当に、いつでもいいから」
 美矢を思いやり、加奈は念を押した。笑顔だが、その目には戸惑いにも似た悲哀の色が浮かんでいる。美矢と同調しやすい加奈は、今もその心の叫びを受け取っているのかもしれない。
 泣きそうな顔で無理に笑顔をつくり、美矢は大きくうなづく。
 その手をそっと握りしめ、俊は美矢を遠野家に送っていった。もはやアストラ師と出会ってしまったので、遠野家に近付かない、という和矢の警告は有耶無耶になってしまったに等しい。
 健太と英人も、それぞれ愛しい少女を家に送り届けるため、別れの挨拶を交わした。

「……ごめん、状況がよく分かってなくて。上手く、言えないんだけど」
 ショッピングセンターの駐車場に停めた車に乗りこむと、助手席で、真実が小さくつぶやいた。
 エンジンをかけて、エアコンを回す。その音にかき消されないよう、少し声を強めて、真実は言葉を続けた。

「私にできること、ある?」
「……大丈夫、だよ」

 正直、自分でもどうしていいか分からない。
 美矢や和矢と同じように、健太自身、かなり動揺していた。本当は、今すぐ遠野家に押しかけてアストラ師と話したい。きっと、英人も同じだろう。
 その思いを何とかなだめているのは、自分がしっかりしなくては、という年長者としての自負だった。

「健太」
 
 シートベルトを締めようと真実の方に軽く体を向けると、呼びかけと同時に、視界が覆われた。
 真実が身を乗り出して、健太の唇を塞いでいた、自分のそれで。
 そっと顔を離し、今度は健太の胸に顔をうずめる。
「年下の私が言うのはどうかと思うけど……でも、二人きりの時は、甘えてほしい。他の誰にも、健太はきっと泣き言を言わないから……でも、おねがい。泣きたいなら、泣いて。顔を見られたくないなら……見ないから」
 健太の胸にしがみつくようにして、うつむきながら、そう訴える。
「……ありがとう」
 健太は真実を抱きしめる。同時に、ポロリと涙がこぼれた。
 
 嬉しいのか悲しいのか、よく分からない涙だった。
 生きていてくれて嬉しい、でも、姿を隠されていたことは、悲しいし、悔しい。
 フォーには、アストラ師にはその存在を知らせていたくせに、どうして自分には知らせてくれなかったのか。
 知らせなかったのか、知らせることが出来なかったのか。
 ぐちゃぐちゃの感情のまま、健太は泣いた。気が付いたら、静かに嗚咽も漏らしていた。
 真実はじっとうつむいたまま、健太の背中に手をまわし、そっと撫でていた。
 
 気が付いたら、真実も泣いていた。その顔を上向かせ、涙にぬれた頬に、そっとキスをした。
 この優しくて愛おしい存在を、決して手放さないと、健太は改めて心に誓った。
 
 

 数日後、健太と英人は遠野家を訪問した。
 すぐにでも日程を組みたかったのだが、アストラ師自身に所用があると言われ、何日も待たされることになった。
 昼下がりもだいぶ過ぎ、約束した時間に訪れると、弓子が出迎えてくれた。
 リビングに通されると、ソファーに座ったアストラ師と和矢がいた。
「美矢ちゃんは?」
「落ち着かないから、あとで僕から聞くって。出かけている」

 自らの動揺が和矢や弓子に影響することを危惧したのかもしれない。元々アストラ師を警戒している美矢は、彼に対峙する和矢の心理的負担を考慮したのだろう。
 健太ほどは警戒心を持っていない、というよりも幼い日の思い出に囚われてしまっている英人も、今日の話の内容次第では不安定になる恐れはある。フォローすべき人間が少ない方が助かることは事実だ。

「それで、真矢は、本当に?」
 席に着くや否や、健太は問いただす。

「ええ。ご存命ですよ。現在は最上大師ヴィハーンと名乗られております」
 苦笑しながら、アストラ師は答えた。その名が、健太の脳内で変換され、意味を持つ。

「『夜明けヴィハーン』?」
「ええ。ただし、その存在は、その名と共に、教団でも最機密事項トップシークレットです。どうか、他では口にされませぬように」

 笑顔だが、その目は冷たく輝く。淡い空色に似つかわしくない鋭い光は、幼い日のフォーを思い出させた。今は不機嫌でなく笑顔な分、その冷徹さがより際立つ。
 
「まさか……本当に兄さんが、生きていたの?」
「はい。『黄昏の薔薇』の襲撃を受け、重傷を負われました。おそらくその現場を見た人間は、もはや助かるまいと思うほどの。教団に運び込まれた我が主……シンヤさまを見て、私も同様の思いを抱きました。必死の救命が身を結び、瀕死を脱したシンヤさまでしたが、意識は朦朧としており、時折明瞭になる時に、わずかな指示を伝えられました。私の名や、和矢さま、美矢さまの守護、『研究所』の子供達の行く末……けれど、その時間はごく短く、やがて深い眠りに入られました」

 そう語ると、アストラ師は言葉を切る。その瞳は悲しみを湛え、その時の様子を思い返しているようだった。しばらく沈黙が続き、そして再び語り出す。

「お言葉をいただくことも叶わなくなり、回復が絶望視されました。けれど奇跡的に、シンヤさまは目覚められたのです。そのことを寿ぎ、誰ともなく『ヴィハーン』とお呼びするようになりました」
 
 幼い日のように『シンヤ』とは呼ばず『さま』をつけて語るアストラ師は、その目を恍惚とさせ、歓喜に染めた。

「でも、だったらどうして、僕達に知らせてくれなかったんですか? あなたは、ずっと知っていたんでしょう? そして、教団で僕達に一番多く関わるのも、あなただった」
「それが、あの方の望みであったからです。自分の存在を知らせることなく、あなたが自分の力で成長されることを望まれたのです。依代を父に持ち、またご本人も神の依代であるという、二重の責は、余りにも重いと」
「……やはり、奥に隠された依代が存在したんですね。そして、それが」
「ええ。恐れ多くも、調和神ヴィシュヌの依代であらせられます」

 予想はしていたが、事も無げに告げられ、その言葉に妙に現実感がなかった。

「けれど、今はあなたの帰還を望んでおられます。自らの意思を持って行動される力を育まれたあなたを」

 にこやかに、アストラ師は微笑む。

「ご帰還くださいませ、和矢さま。あなたに再びお会いする日を、我が主は待ち望まれております」

 その言葉を聞いて和矢の顔に浮かんだのは、再会を望む父への思慕だった。その思いが、健太にも痛いほど分かる。事情はどうあれ、再び真矢に会えるというなら、すぐにでも駆け付けたい。

 けれど、和矢は、その思いを振り切るように、表情を改める。
「ずいぶん虫のいい話ですね。それが、どこまで本当なのか、あなたのお話だけでは信じられません。僕の帰還を促す、都合の良い作り話だという可能性もありますよね」
「ええ。きっとそうおっしゃると思いました。けれど、証左となるものが、正直ございません。あまりにも幼い頃別れられて、あなたがどこまで覚えておられるのかも不確かですし……ああ、そう言えば」
 困ったようにしばらく悩み、不意に健太に視線を送る。
「ムルガン、と名付けてもらったのでしたね、あなたは」
「それは、『研究所』にいた時だから、フォー……あなたも知っていることだ」
 あえて昔の名前で呼びかけると、アストラ師は嫌そうに顔を歪めた。
「ええ。そして、今は健太と。スカンダにちなんで、日本名をいただいたのですね」
 それも、ムルガンから十分連想できる名付けである。言を弄して信用させようというのか、健太は警戒した、が。

「『いつか、本当にムルが守るべき人が、本当に苦しくて困っていたら、また守ってあげてほしい。でも、それまでは、自分を一番大切にしてほしい。約束だよ』」

 それは、真矢と交わした、最後の言葉……そして、約束。

「あなたもまた、我が主に託されたのですね。そして、その『守るべき人』とは、巡り逢えたのでしょうか?」

「……真矢……本当に、生きて?」

 それは、二人だけのやり取り。一言一句違わぬその言葉を、他の人間が知る可能性は、きわめて低い。

「あなたや英人のことも、とても心配されていましたよ。あまり望ましくない養い親に縁付けてしまったことを、大変後悔されていました。あなた方も、一緒に……」

 言葉巧みに、アストラ師は誘惑してくる。その言葉に抗いがたい魅力を感じる。

 真矢に、会える? 本当に?


 思わずうなづきかけた、その時。

 健太の心に助けを求める叫びが響く。

 聞こえるはずのない、声。
 ここにいないはずの……真実と、俊の、声。

「真実?! 俊?!」

 そう呼ばわると同時に、健太の姿は、その場からかき消えた。




「二人に、何か?!」
 消えた健太よりも、その名を叫ばれた俊と真実の安否を気遣い、英人はすぐに加奈に電話を入れる。気が付けば夕方近い。もう、講義は終わっているはずだ。
 けれど、加奈は応答しない。
 そう言えば、今日は追加の講義があると言っていた。それを思い出し、英人は舌打ちした。
 和矢も、待ち合わせしているはずの美矢に連絡を入れようとスマホを操作する。

 慌てふためく二人を尻目に、目の前で起きた超常現象に、弓子は息を飲んでいた。健太にそのような力があることは伝え聞いてはいたが、実際に目にして、やはり驚きを禁じ得ない。

「……素晴らしい。やはり、まごうことなき、神の力……」
 健太の力を目の当たりにして、アストラ師は驚愕以上に喜びに震えてつぶやいた。

 その空色の眼差しに宿る狂喜とも狂気とも感じる青い炎に、弓子は背筋が凍りついた。
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