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第12章 不知火の夏空

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 皆の胸に様々なしこりを残しながら、俊たち高校3年生最後の夏休みは始まった。

「斎がいないのって、何となく変な感じだな」

 夏季講習5日目、コースは違うが、同じ予備校の夏期講習を受講している正彦と一緒に、建物の最上階にある昼食場所のラウンジに向かう為、階段を昇っている時に、正彦がつぶやいた。

 受講するコースによって講義室は3階から5階にバラバラに割り振られている。6階にあるラウンジに向かうのに、2基あるエレベーターも使用可能であり、特に低階の講義室を使う生徒は階段が億劫なのか、昼休みの今も、それほど歩行者は多くない。

 ちなみに国立理系コースの俊は3階の講義室である。4階の正彦と踊り場で待ち合わせし、一緒に階段を昇る。同じ文系コースの加奈が、先にラウンジに上がって場所取りをしてくれていることを伝え。午前中の講義内容などを話題にし、「斎の方が教え方が上手だったな」と懐かしむように正彦は言った。

 「そうだな。何だか、最近は休みの日でも、斎と会う機会が多かったし。……でも、良く考えたら、ここ半年くらいのことなのに」
「それだけ、存在感があったと言うか、キャラが強烈だったというか……次の日にはもう、イギリスに行っちゃったんだって?」
「みたいだな。和矢から聞いて、巽にも確認したけど、本当に翌日の午前中のうちにいなくなっていたって。巽にも言わずに」

 部室での情報交換の時点で、すでに最寄りの国際空港に移動し、出国していたという。

「そうか。まあ、身勝手なのはアイツらしいって言えばそうなんだけど。何も、こんな風に逃げ出すようにいなくならなくてもいいのにな。決まりが悪くて顔も合わせられない、なんてこと……ないか。それこそ、アイツらしくないな」

 ひどい言いようだが、正彦の声音にどこか労わるような響きが宿っているのを感じた。

「あのさ、斎と、森本さんって、何かあったのかな?」
「え?」
「斎がアキラについて行った、って聞いた時、森本さんが『私のせいかな』って、言ってたんだ。健太は『そんなことない』って慰めていたけど」
「……ゴメン。何となく分かるけど、言えない」

 事情を知っているらしい正彦が、けれどはっきり黙秘を宣言する。

「いや、大丈夫。こんなこと訊いて、すまない」

 何かあったことは肯定しつつも、おそらく詳細はプライバシーに関わるのだろう。自分が正彦に比べて男女の機微や恋愛ごとに疎い自覚がある俊だったが、二人の間にそういった面での溝が生じていることは知っていた。と言っても、それこそ正彦に気付かされたあと、俊自身最近までそんなこと――いわゆる斎が真実に横恋慕している事実をすっかり忘れていたのだが。

「そういえば、その斎のイギリス行きのことを教えたっていうお客、ずっと和矢んちにいるんだって?」
「ああ。教団のお偉いさんらしい。なるべく顔を出すなって美矢経由で言われた」

 そして、俊経由で健太と英人にもしばらくは遠野家に近づかないようにという警告を伝えてある。

「美矢にもなるべく外出するようにって」
「だから、毎日お迎えデートってわけか。お前らにとってはケガの功名かもな」

 からかうような正彦の口調に俊は思わず顔を赤らめる。
 予期せぬ賓客の対応で、おちおち読書もしていられない、と青息吐息らしい和矢には申し訳ないが、夏休み中でも毎日美矢に会えるのは……正直嬉しい。

 日中は珠美と共に学校の図書室に行ったり、閉校日は珠美の家にお邪魔したりしながら過ごし、夕方は予備校近くのショッピングセンターで待ち合わせ、イートインスペースで自販機で買ったドリンクを飲みながら短時間だが一緒に過ごす。

 遠野家には行けないので、駅前で分かれる。それだけは寂しくてしょうがない。
 せめて家の見えるくらいの場所までは送っていきたいと思っているが。

「なら、今日は英人が迎えに来てくれるから、家の近くまで送ろうか? 車からなら、そんなに目立たないだろうし。真実ちゃんは健太さんが送ってくれるから二人とも乗れるよ」

 ラウンジで一緒に昼食を摂っていると、加奈がそう提案してくれた。

「健太、帰ってきてるんだ?」

 ありがとう、と謝意を述べつつ、真実に確認する。
 どうしても外せない仕事があり、週末から上京していると聞いていた。

「……送るなら、健太に頼むよ。高天君、会いたくてたまらないって顔している」
 俊の内心を察して、真実が苦笑する。
「どうせ英人も同じだから、今日は駅前で落ち合おうか? それから決めたら?」

 俊に劣らず健太が大好きな英人の言動を予測して、加奈が折衷案を出す。
 英人や健太に手間をかけさせる申し訳なさもあったが、会えるのは嬉しい。俊は素直にうなづいた。
「あ、俺は今日は寄りたいところがあるから。よろしく言っておいて」
 俊が目線で正彦を誘うが、声を出す前にそれを察して正彦は答えた。
 自分とは逆に、健太と仲睦まじい真実の姿を目にするのが正彦にはつらい、ということがいまだに伝わっていない俊は、言葉のまま受け取り「ああ、伝えておく」と返した。
 真実も同様で、そんな三人のやり取りを、加奈は少しだけ複雑そうに眺めていた。





 その日の講義がすべて終了し、予備校の玄関ホールで合流した。正彦は顔だけ合わせて、「じゃ、また明日な」と駅とは反対方向に去っていった。

「吉村君、どこに行くんだろうね?」
 
 このあたりの商業施設は駅前に集中しているので、買い物はたいていそこで賄える。
「公園で走ってくる、って言っていたよ。体がなまってしょうがないって」

 文系コースの講義の合間に言っていた、と加奈が答える。
 もっとも、それが体のいい方便であることも加奈は承知していたが、そこには触れない。
 こと、自分の恋愛関係にだけは察しの悪い真実と、同じく恋愛ごとに疎い俊。
 加奈も人のことは言えないが、最近一緒に過ごす時間が増えて、正彦の思いに気が付いた。ほとんど顔を合わせていない健太ですら、正彦の横恋慕には気が付いている様子だが、斎と違って害がないと放置しているらしい。と、これは英人の所感であるが。

「部活引退しておわってからも、結構走り込みとかしているんだって」

 そういえば、高校受験の時も、気分転換って言いながらよく走っていたな、と思い返しながら、俊は加奈の言葉にうなづいた。

「へえ、すごいね。私、余分には走りたくないよ」
 しきりに感心しながら、真実はスマホを操作する。

「あ、健太と英人さん、合流したみたい。早く美矢ちゃんピックアップして行こう」

 メッセージを確認し、二人を促す。待ち合わせしているショッピングセンターのイートインスペースに移動すると、美矢が手を振って皆を迎えた。
 真実に言われて昼休みに連絡しておいたので、今日は加奈や真実が一緒であることを承知している。俊とはほぼ毎日顔を合わせているが、加奈や真実とは久しぶりなので、嬉しそうに挨拶を交わす。

「久しぶりだし、ここでお茶する? どっか移動する?」
 リーズナブルで高校生のお財布に優しいイートインスペースだが、大人数で占有するのは憚られる。
「今日は少し涼しいし、テラスのベンチに行こうか? あそこなら、多少長い時間おしゃべりしても迷惑じゃないし」
 加奈は真実にそう答えて、それから俊と美矢にも「どう?」と尋ねた。二人も賛意を示す。
 健太と英人が連れ立って現れ、合流した三組のカップルはショッピングセンターの中庭に設けられたテラスに移動した。夕方になり、日中に比べれば日差しも弱まっているが、まだ暑さは残っている。けれど心地よい風が吹き、一日冷房で冷えた体にぬくもりを与える。

「仕事、忙しかったんじゃ?」
「ああ、今回は打ち合わせというか、契約の手続きだけだったから」
「上手くいったんだ? よかったね」
 仕事内容を聞いているのだろう、詳細は口にせず、いたわりの言葉だけを真実は健太に伝えた。

 日本に帰国して1年の間に、健太のカメラマンとしての仕事は増えている。真実と過ごすためにこの地に居住しているが、大きな仕事では上京が必要になることも多い。電話やメールで済ませることが出来ることばかりではないので、今回のように数日不在になることもある。新幹線で2時間かからないので、日帰りも可能ではあるが、接待のために夜に及ぶこともあるし、なるべくまとめて仕事を済ませてこようという意図もあるので、泊りがけになることも多い。
 斎の行動が不明瞭な今現在、真実のそばから長期間離れることに不安を抱いている様子だ。なので、夏期講習で毎日俊や加奈と過ごしていることに少し安心しているという。

「そういえば、例の人、まだいるんだ?」

 例の人、と言葉を濁しつつ、健太は美矢に尋ねた。

「どうしても兄さんを連れて帰るつもりみたいです」
 うなづきながら、美矢はため息をつく。
 はっきりと明言されたわけではないが、「日本は涼しいですね。避暑として過ごすならよいですね」などと会話の端々に匂わせてくるらしい。
 
 美矢もよく知っている相手なのだろう、その言葉の影に、かすかな嫌悪感というか、忌避感を漂わせる。

「和矢の家庭教師していた人だって? でも、まだ若いんだろ?」
「若い、と思います。教団きっての神童だったって聞きました」
「だった?」
「頭はいいけど、学問だけで政治力はないって……でも、ホントかなって思いますけど。いつも笑顔で人当たりがよくて、怒ったところを見たことがありません。だけど、底知れない感じがします。笑顔の裏で、何を考えているか、分からない……」

「おや、そんなこと考えていたのですね? いささか劣るとはいえ、やはり和矢様の妹だ」

 背後から突然、ハスキーだが艶やかな声が闖入する。

「茫洋としているように見せて、案外したたかだったようですね。美矢様」
「アストラ師!」

 白のベースボールキャップに薄い青のサングラス、グレーのノースリーブTシャツに薄青の細身のダメージジーンズと濃紺のスポーツサンダル、というカジュアルな装いの男性。小麦色の肌は健康的で、スリムだが虚弱な感じは受けない。どこにでもいそうな、けれどその秀麗な美貌は、あとを追いかけてきた和矢に勝るとも劣らない。

「もう追いついてこられたんですか? こっそり出てきたのに」
「外出する時は、一緒にって言いましたよね?! 何勝手に人の服着て出かけているんですか?!」
「目立たないように、と考えてみましたが、いかがですか?」
「……よくお似合いですよ。そのサングラスは?」
「ああ、そこの雑貨屋で見つけました。目の色を隠すのにちょうどよいと思って」
 
 そう言って、薄青のサングラスを外すと、下から同じようにやや薄い青の瞳が現れる。

 アジア系の顔立ちに青い瞳は神秘的で、確かに人目を引く。
 和矢や英人の美貌に見慣れている加奈や真実ですら、思わずため息をついてしまう麗しさだった。

「……フォー?」

 ふと、英人がつぶやく。その形良い、少し薄めの唇が、つぶやいた形のまま、開かれて硬直している。
「英人?」
 かすかに青ざめている恋人の顔を、加奈は不安げに見上げた。

「ええ。お久しぶりです。エイト。それに、イエットも」



 少しだけはにかむようにして、真夏の濃い空の色よりは幾分薄い瞳をきらめかせ、青年は満面の笑顔でうなづいた。
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