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第11章 謀略の蜃気楼

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 美矢が意識を取り戻した後、30分ほどで英人が加奈と珠美と共に遠野家に到着した。

『……斎先輩が、裏切ったわ』

 目覚めた時の美矢の言葉は俊以外にも聞こえていたが、それ以降美矢が口をつぐんでしまったため、誰もそれ以上追求しなかった。

 斎に連絡を取ろうか俊は悩んだが、和矢が「英人が来てから、状況を確認しよう」と何も言わないうちに制止した。

 確かに、状況を把握できない中で斎を問いただしても、のらりくらり躱されるか、一方的に遮断されるだけだろう。
 そのすぐ後に、英人から『今から向かう』と言うメッセージが届いたが、到着までの時間がとても長く感じた。

 いつもは饒舌な真実も、美矢を俊に託した後、健太の隣で押し黙っている。眉をひそめて思い悩んでいる様子だった。

「……私の、せいかな?」

 周囲をはばかるようにして、か細い声で健太にそうささやいているのが耳に届いた。
 そんなことない、と言う風に、健太の口が動いたのが見えた。
 俊の知らないところで、斎と何かあったらしい。

 沈鬱な空気の中、英人の到着を待っていると、和矢が無言でキッチンに行き、10分ほどで戻ってきてリビングのテーブルに人数分のマグカップを並べた。

 一度キッチンに戻り、持ってきたのはティーポットではなくミルクパンで、そこから茶こしを通してミルクを注ぐ。ほんのりセピア色のミルクから、ミントとまではいかないが、何だか少しツンとする香りがした。

「砂糖は入れていないから、飲んでみなよ」

 そう言って、和矢は俊の目の前にマグカップを置いた。
 一緒に皿に盛られた500円玉くらいの大きさのクッキーも置かれた。美矢がハッとして睨み付けるが、和矢は平気な顔で微笑み返す。
 皿に乗っているのは、先ほど美矢が焼いていたクッキーだろう。焼き立てで、まだホカホカと湯気が立っていた。

「……兄さん特製の、チャイよ。スパイス入りのミルクティ。よかったら、クッキーも。甘さ控えめにしてあるから」

 戸惑っている俊を見て、美矢が口を開いた。
 そして、まるで毒見をしてみせるかのように、クッキーをつまんで口にしたあと、自分の分のマグカップに口をつける。

「……おいしい。ありがとう、兄さん」

 和矢に礼を言いつつ、美矢はチラリと俊に視線を送る。
 それに励まされるように、俊は温かいマグカップに口をつけた。
 思ったより甘くないが、濃厚なミルクの味わいが口の中に優しく広がる。
 紅茶の渋みはほとんどなく、代わりにほんのり刺激を舌に感じた。

 どこかで味わった記憶がある。日常に慣れ親しんだはずの味。

「生姜とシナモンと、あと今日はカルダモンも入れてあるのね」

「カルダモンはリラックス効果があるからね。少し気持ちを落ち着けようと思って」

 どうやら俊が感じていたのは生姜の辛味だったらしい。真夏の最中なのに、緊張してこわばっていた冷たい指先が外と中の両側から温まった気がする。ふと見れば、真実も表情も和らいでいた。

 美矢のお手製のクッキーもほど良い甘さで、それをつまみながら、ゆっくりとマグカップに口を運んでいるうちに、来客を知らせるチャイムが鳴った。

「お待たせ」

 出迎えた和矢と共に入ってきた英人の顔は、ひどくこわばっていた。加奈の表情も似たようなもので、ただ一人珠美だけがいつもと変わらぬ笑顔を湛えていた。

「お土産です。和菓子、たくさん! あと最高級の玉露です……あれ、何だかいい匂い」

 クンクンと鼻を鳴らす珠美に和矢が「チャイを入れたんだ。飲む?」と尋ね微笑む。

「いただきます! 噂の『和矢先輩特製チャイ』ですね?!」

 ウキウキとした調子で大喜びする珠美に応えて、和矢が再びキッチンに行く。先ほどよりは短時間で戻ってきたその手の盆の上には、マグカップが3個乗せられていた。

「……うまいな」

 無言で目の前に置かれたマグカップを手に取って、英人は一口すすり、呟いた。

「メイプルシロップもあるけど、使うなら……」

 和矢はぶっきらぼうに、はい、と英人の前にガラス瓶とティースプーンを立てたガラス容器を置いた。
 英人は少し目を見開いて、「ありがとう」と小さくつぶやくと、ガラス瓶から透きとおった茶色の液体をティースプーンに2杯ほど注ぎ、かきまぜた。

「……別に」

 照れ隠しのように目線を反らして、ちょっと拗ねたような返答を返す和矢に、英人は微笑みを返した。

「甘いものが欲しかったんだ。……ひどく、疲れてしまって」
「……何が、あったんだ?」

 言葉の通り、英人の疲労感に満ちた左側の瞳は、いつもの輝きが無いように見えた。
 俊の問いかけに、英人は軽くため息をついて、話し始める。

「……晃=ケネス・香月に、会った」
「アキラ……って、あの、アキラ?」
「ああ。どこから話せばいいのか……」

 そう言いながらも、英人は丁寧に、状況を説明してくれた。

「……じゃあ、真矢の命を奪ったのは、『黄昏の薔薇』ってことなのか? 和矢の所属する教団じゃない、てこと、なんだな?」

 健太が少しホッとしたように聞き返した。教団は和矢の父、真矢の命を奪い、和矢と美矢を連れ去った、と聞いていた。その教団に育てられ、今そこに所属していることに和矢が複雑な感情を抱いていることを知っていたので、それが事実なら、ほんの少しだけでも和矢の心が軽くなるかもしれない。そんな期待を抱いて俊は和矢を見やったが、和矢の表情に変化はなかった。

「……アキラの言葉を、すべて信じていいのかは、判断がつきかねるね」
「そのとおりだ。けれど、まるっきり嘘でもない気がする。少なくとも、斎は、そこに疑義を挟まなかった」

 疑う和矢に対し、英人は斎を引き合いに出す。その名を聞いて、場に緊張が走った。

「……で、斎は? 一緒にいたんだろう?」
「ああ。……もう、伝わっているみたいだな」

 疑問と言うより確認に近い健太の問いに、英人は状況を察する。

「アキラが面白いと、そう言って。僕の代わりに行動を共にする、と」
「……裏切ったわけじゃないんだよな?」
「そうは、言っていない……けれど」

「言ったわ! 高天君を手に入れるために必要なら、和矢君と敵対するかもしれないって!」

 言葉を濁す英人にかぶせるように、加奈が叫んだ。

「……敵対するかもしれない、ってことは、敵対しないかもしれない、ってことだよ。斎が何を考えているのかなんて、本当のところは分からないけど、少なくともいきなり姿を消して敵対するなんて、考えにくい」

 名指しで「敵対する」とまで言われたのに、和矢はあっけらかんと言った。

「でも……」

「あの斎だよ? 敵対するにしても、もっと場面設定して、みんなの驚いた顔を堪能してから動くと思うな。こんな風に英人や三上さんから知らされて、一番の衝撃の場面を見逃すなんて、もったいないって言うに違いない」

「……確かに、自分が非難される場面すら、あいつの遊びの範疇だしな」

 和矢の言葉にうんうんと健太がうなづく。

 そう言われると、俊もそんな気がしてくる。ちょっとひどい言われようだが、俊が斎にからかわれる時も、そんな物言いをしていた。

「だけど、クベーラの件は? あれは、本当なの?」
「クベーラ?」
 加奈の口から出た名詞に、和矢が反応する。

「……自分は、クベーラだって、そう斎君が」

 そのまま、加奈は口ごもった。うまく説明できず困った様子の加奈とアイコンタクトして、英人が代わりに説明する。

 「ヘルメス・トリスメギストス、か。確かに錬金術に深く関わる神だけど」
「だけど、それが本当に斎だっていうのか?」

 クベーラ、という神が、欧州ではヘルメス……なんとやらになるらしい。さすがに、そこまで行くと俊には内容が把握できない。健太も困ったような顔をしている。

「さてね。確かに策謀と知識、なんてそれっぽいけど。それだけじゃ、ね」
「そもそも、インドの神が、なんでイギリスで?」

「ヘルメスは、ギリシャ神話の神だよ。伝令神で旅人の守護者。そしてエジプト神話の知恵の神トートと合わさって、ヘルメス=トートとなり、錬金術の始祖となったと言われる。それが、ヘルメス・トリスメギストス。ちなみにクベーラは中国の道教では托塔天王たくとうてんのう、仏教では毘沙門天びしゃもんてんとなる」

「毘沙門天? それは、聞いたことがある」

「まあ、日本では有名で人気のある神様だからね。そんなわけで、地域が違うと違う名前で呼ばれることもある。特に有名で力の強い神はね。例えば、シヴァはギリシャ神話ではディオニュソスという神と同一視されている。逆に、複数の神が混同されてる場合もある。さっきのヘルメスは、クベーラとしての側面と共に、ムルガンの側面も持っている。盗賊の守護者、というね。ヴィシュヌはギリシャ神話では化身の多いゼウスに近いけれど、雷神であることを考えるとインドラとも同一視できる。信仰や神話なんて、人間の文明の変化や民族移動、征服と共に習合し変遷しているから、どこまで本当かなんて、実は僕らにも分からないのさ。だって、記憶はないんだから」

 にこやかに、和矢は開き直る。

「え? ……まあ、確かに、そうなんだけど……」

 俊自身、シヴァとしての思念を受け取ることはあっても、神としての記憶があるわけではない。

 ただ、腑に落ちる、というか、健太の言葉を借りるならば、「そういうものなんだ」と受け入れてしまっている。

「……和矢の言うように、僕もインドラとしての記憶があるわけじゃない。でも、斎は……クベーラであることを自覚していたし、ヘルメス・トリスメギストスである時の記憶を持っている様子だった。これは、いったい?」

「まあ、考えられる可能性は3つあるね。斎が、もし神としての記憶を持つと言うのなら、そうなのかもしれない。理屈はよく分からないけれど、依代が絶対記憶を持たないって決まっているわけではないのかもしれないし、そもそも、ヘルメス・トリスメギストスは神と人との境目にある存在だ。クベーラとしてではなく、半神としての記憶ならあるのかもしれない。これが、一つ目の可能性」

「半神としての記憶……」

 和矢の言葉を反芻して、英人は考え込む。

  

「二つ目は、それが虚言である可能性。あの斎だよ? 故事由来、世界各地の神話伝承の類はきっちり頭に入っているだろうね。それを論理的に組み立てて、いかにもそれらしく語ることなんて、お手のものだろうね」

「確かに、アキラに神としての力の発現がないことを問いただされた時に『策謀と知恵が何よりの証左』と言い切っていたが。あまりにも堂々としていて、うっかり信じそうになったけど」

「目に浮かぶようだね。斎の性格が分かっている英人がそんな風なんだから、アキラも疑いつつも心のどこかで『もしかしたら』くらいは思ってしまっただろうね。で、三つ目だけど」

 斎と言う共通想定『敵役』がいるためなのか、先ほどまではどことなく微妙だった和矢と英人の関係性が、ずいぶん滑らかになっているのを俊は感じた。

 斎のおかげ、と言うのは語弊もある……ないかもしれないが、少しでも二人が歩み寄れたのならば幸いだ。

「斎が真実、クベーラの依代で、かつ、記憶があると虚言を弄している可能性」

「え?」

「正直、これが一番ありそうで嫌なんだけど。あのつかみどころなさといい、底知れない知識といい、唐沢宗家という特殊な環境で培われた、と言うだけでは説明できない闇を感じるんだよね」

「まあ、そうですね。唐沢宗家でも、斎先輩は別格ですから。ただし、傾向としては多い人種ですけど。なので、神を騙ることも、できてしまいそうですけどね」

 身内とは思えない辛辣さで、そう評する珠美は、気が付けばテーブルいっぱいに和菓子を並べていた。

「湯冷ましも準備しましたし、とりあえずお茶にしましょう? おいしい玉露をいれますから。じきに巽が来ますし、そこで状況確認をしましょう。色々言っていても、斎先輩がアキラについて行った事実は変わりません。それよりもまず、脳に糖分を入れて、先輩方は明日の試験を乗り切ってください」

 あまりにも現実的な事実を突きつけられて、皆は二の句が継げなくなった。

 確かに、どんな事情があろうとも、明日実力試験があるという現実は変わらない。


 ただ……山のような和菓子は、他のみんなで何とかしてもらいたいな。


 そんな斜め上なことを考えるだけの心の余裕が生まれたことは、珠美に感謝してもいいかもしれない。



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