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第10章 陽炎の乙女

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 昼下がりのお茶会にはあまり似つかわしくはないバーの一角で、英人はアキラと対峙していた。
 怒気をはらみ、加奈を襲った理由を問い質す。同時に、どれほど加奈が傷ついたのかも訴え。

「だったら、僕の目的は一応達せられたわけだ。少なくとも、君の心も痛めつけることはできたわけだからね」
「……一体、何のために、あんなことをしたんだ? 僕の力が欲しいんだろう?」
「まあね。厳密にいうと、欲しいのは僕じゃないけれどね。まあ、君の力を図りたい上層部と、僕の意図が丁度符合したというか。まさか、あんな風に発現するとは思わなかったけどね。おかげでしばらくトキムネが使い物にならなかったよ」

 鉄骨の建物を破壊し脱出した加奈の姿は、それなりに衝撃を与えていたらしい。
 わずかでも報復できていたのなら、それはそれで胸が少しスッとする。ただし、あれは英人の――インドラの力ではない、と思うが。

 今この場にいない、不器用な少年の姿を思い浮かべる。目つきが悪いのと言葉足らずなせいで他人から敬遠されがちで、本人もそれを感じて無理に向き合うよりも避けて通るので、ますます他者との交流隔絶が起こる。けれど、内面は素直で自分より他人を優先してしまう、そんなところも損な性格で。
 英人自身も決して他人との交流が得意なわけではない。むしろ必要以上に関わりたくないとさえ思いながら過ごしてきた。関わりたくないと思いながら損得勘定で動く自分に比べ、困っている人間を見捨てられない俊。
 
 本当に不器用で損な性格で……けれど、知れば知るほど、愛すべき人柄で。

 記憶は不確かだが、昨冬に瀕死の加奈の命を救ったのは、おそらく俊の力だ。
 そして、この初夏の加奈の脱出劇も。

 破壊と再生を司る最高神、シヴァ。
 その依代として生まれた、苛烈な神にはあまり似つかわしくない、優しい少年。

 その力を狙って、蠢く様々な思惑から、彼を守りたい。
 
 何の裏心もなく、今は素直にそう思えることが、英人自身不思議な気分だ。
 そこには、健太の存在も大きいだろう。良くも悪くも人にまっすぐ向き合ってくる、大切な幼馴染み。無意識の人タラシすぎて、関わる人間をやたら魅了しまくって、そこはちょっと面白くないが。
 自分こそが、健太を一番に慕っていたのに、という子供じみた嫉妬を覚えるのは、別に幼年人格のEightのせいだけではないだろう。いや、もう幼いと言えない。健太に薫陶を受け目覚ましく精神年齢が成長しているEightは、もう中学生くらいの分別は身に着いている。
 最近は言葉遣いも大人びてきた、と加奈は言う。
 ほとんど表出しなくなっているが、加奈や健太には甘えたいのか、会話に割り込んでこようとする。TPOは考えているらしい。場の空気を読むようになったのも、成長のあかしなのかもしれない。

 そのEightが、今、アキラに向けて敵愾心を露わにしているのを感じた。今までだったら怯えて、シバの影に隠れようとしただろう。大切な加奈に卑劣な行いをしたアキラに、怒っているのだ。シバも巻き込んで自分の意識を乗っ取ろうとしかねないEightを、脳内で宥めつつ、英人はアキラとの会話を続けた。

「まず、言っておく。僕は、お前の、お前たちの組織に与する気は毛頭ない。それくらいだったら、和矢に、和矢の派閥に従う」
「君、『研究所ラボ』出身だよね? つらい目に遭ったんだろう? いいのかい?」
「ああ。『研究所』は嫌いだ。そして、その主力が、組織の中でも英国派閥――お前の属する『黄昏の薔薇トワイライトローズ』だったということも、知っている」
「……まあ、気付くよね。遠野真矢に勝手に改革されて、『依代候補ナンバーズ』は解放されてしまうし、有力候補のほとんどは『神聖学会』系列に引き抜かれて、『黄昏』は結局、ほとんど得るものがなく『研究所』の機能は瓦解してしまったけどね」
「……真矢が?」
「ああ、これは知らないんだ? 『研究所』から出奔した後も、遠野真矢はナンバーズを解放しようと画策していたんだよ。結果的に『黄昏』と敵対関係になって……命を狙われることになった」
「!」

息を飲む英人を見て、アキラは口元を歪めながら笑う。

「君、無駄なことしちゃったね。遠野真矢の仇を討ちたくて、遠野和矢と『神聖学会』に歯向かっていたのにね。見当違いだったんだよ。遠野真矢を襲撃したのは『黄昏の薔薇』だよ。『神聖学会』は、むしろ彼を守ろうとしていた」
「……ほ、んとうに?」
「ああ。まあ、子供ごと取り込もうとしていたのは間違いないけどね。そこまでしておいて、結局和矢は『神聖学会』に救出されるし、インドラやムルガンは取りこぼすし。何とか手に入れた『元依代候補ロストナンバーズ』は、依代じゃなかったからって、『時計塔の地階アンダーグラウンド』に下げ渡して」

 相変わらず歪んだ笑みで、けれど、妙に嬉しそうにアキラは話し続ける。

「ロストナンバーズ、の一人? ……まさか、お前も?」
「さすがの僕も、記憶はあやふやだけどね。なんたって、その頃2歳か3歳だ。でも、君のことは覚えているよ。きれいな顔の男の子。まだその頃は、ちゃんと両目も晒していたよね。初めて見た時から、その顔が心に焼き付いて離れなかった。とってもきれいなその顔を見て……憎しみが芽生えたからね」

『憎しみ』という言葉とは裏腹に、アキラは満面の笑みを浮かべる。

「ずっと不思議だったけど君がインドラらしいと分かって、ようやく合点がいったよ。同時に、僕の中に眠っていたもう一人の『僕』が、目を覚ました。そして、君を、滅茶苦茶に傷つけ、壊してやりたいと、切実に思った」
「……お前……いったい?」
「さてね。いくら何でも、これ以上はサービス過剰だ。おかげで君の驚く顔が見られたけどね。もっと知りたければ、僕の……『時計塔の地階』に来てもらわないと」
「『時計塔の地階』に……『黄昏』でなく?」
「ああ。僕は、今は『黄昏』に敵対する立場なんだ」
「……『黄昏』に、敵対……?」
 誤った認識で、和矢を逆恨みし、結果的に俊を傷つけてしまった事実に、英人は衝撃を受けていた。そして、アキラにつけば、真の敵と判明した『黄昏の薔薇』への報復が容易になるかもしれない……優秀過ぎる頭脳が一瞬で復讐のための最短経路を導き出す。衝撃による混乱した思考はその脳内演算を止めることなく、けれど判断力を奪っていた。

「僕の目の前で、あからさまな引き抜きは止めてほしいな」

 あきれたような斎のつぶやきに、英人の思考は引き戻される。その一瞬で、英人は冷静さを取り戻した。いつもはシンヤが担っている推察能力も、新しく知らされた事実で機能停止していたようだ。遠野真矢に最も影響を受けている人格なだけに、一番強く衝撃を受けたのだろう。

「残念ながら、英人は僕が欲しいんだよ。君にあげる気はないよ」
「そんなこと、君に言われる筋合いはないな」
「ずいぶん強気だね。もう、日本国内で君のバックアップする存在は制圧されたっていうのに。状況は解っているんだろう?」
「もちろん。でも、便利だから使っていただけだからね。使えなくなった道具を無理に使うのはケガのもとだから。道具がなければ、自力でなんとかするさ」
「君の大切な婚約者が人質でも?」
「人質? シアの身に危険がないのに? それは、彼女がそんなことさせないだろう?」

 アキラはカウンターで談笑するシンシアと加奈に視線を送る。
「今この場に一緒にいるんだ。いざとなれば、シアだけ取り戻せればいい。英人も一緒に手に入れるのが最適解だけどね」
「ふーん。色々企んでいた割には、執着しないんだ?」
「シアの安全さえ確保すれば、またチャンスはあるしね。君が『道具たち』を奪ってくれたおかげで僕自身は身軽になったから、逆にやりやすくなったよ。ありがとう」

 全く心のこもっていない感謝を口にされて、斎は苦笑する。

「うーん。困ったな。晃=ケネス・香月。君、面白いな」

 面白い――それは、斎の最大級の好意の表現。

「だったら、英人の代わりに僕はどうだい?」

「斎?!」

 突然の提案に、アキラでなく英人が反応する。

「へえ? 唐沢宗家が、僕についてくれるんだ?」
「いや。僕単体。唐沢宗家は、動かない」
「……それって、『時計塔の地階』にとっては、ほとんどメリットはないんだけど。ああ、唐沢宗家じゃなくて、『君の』英人がついてくる、とか?」
「それもねえ、確約できないなあ。君達、相性最悪っぽいし」
「当たり前だ! 僕は絶対協力しないからな!」

 一瞬心が動いていた事実から目を反らすように、英人は強い口調で断言した。
「というわけだ。なので、僕だけ、どう?」
「……個人的には、ちょっと惹かれる提案だけどね。でも、只の『唐沢斎』を手に入れても、うちの爺さんたちは納得しないだろうね」
「そっか。前は『人造人間ホムンクルス』を造るついでに、『賢者の石エリクサー』のヒントをあげたら、そっちに夢中になっちゃったから、飽きちゃったんだけどね。君がいるなら、今回はもう少し楽しめそうだとおもったんだけどねえ」

 残念だな、と、口先だけは悲し気に言葉を吐く斎に、アキラの顔から笑みが消える。

「……ヘルメス・トリスメギストス?」
「おお、さすがだね」
「……まさか? いや、それなら確かに……だけど」

 混乱した様子のアキラに、悔しいが英人も同じ心持ちだった。

 ヘルメス・トリスメギストス。
 
 錬金術の始祖と言われる。直訳は『三重に偉大なヘルメス』。
 本来は、ギリシャ神話の神ヘルメスと、エジプトの神トートが習合した神である。
 錬金術は、その妖しげな名称とは裏腹に、現代科学の基礎となる様々な発見をもたらしている。にもかかわらず、胡散臭さが漂うのは、その基本哲学が非常に魔術的であるからだ。その思想は、人間の手の内にあるフラスコの中で起きる物質変成、小宇宙ミクロ・コスモスと、実際の天体、宇宙を有機物と捉えた大宇宙マクロ・コスモスが影響しあうという理念で、占星術などにも発展している。その魔術的哲学を伝えたのが、ヘルメス・トリスメギストスであり、その錬金術的・魔術的哲学は『ヘルメス哲学』と呼ばれる。

「まあ、もう『人造人間』も飽きたし、だから『賢者の石』も作る気はないけどね。でも、僕の存在そのものが、権威が大好きな君のところのお偉方には受けるんじゃないのかな?」

「ヘルメスの策謀とトートの知識、か。……確かに、君そのものだね。確かに、反抗的な英人を連れていくよりは、楽だけど。でも、君が『本物』だって証拠はあるのかい? 今まで、何の網にもかからず、その能力が顕現した兆しもない」
「顕現しようがないじゃないか。今、君が言っただろう? 『策謀』と『知識』が『ヘルメス=トート』の力の本質。まあ、僕的には『クベーラ』と呼んでもらった方が馴染みがいいんだけどね」
「……ああ、そうだったな。道理で、嫌いになれないわけだ。君は、その毒舌や批判的な態度で、主神達すらやり込めていた。インドラもね。いいだろう、君を迎えよう」
「おい! ちょっと待てよ?! 斎、本気なのか?! 本気でそいつに、アキラに与するっていうのか?!」

 斎を責める英人の大声に、カウンターの少女たちも会話を止め、様子を窺う。

「まあ、面白そうだからね。もう夏休みだし、そろそろアキラ、君も帰国するんだろう? 僕もついて行くよ」
「斎! こいつは、こいつの組織は、俊や健太も狙っているんだぞ?!」
「別に、その点で言ったら、和矢のとこだって同じだろう? 正直どこだっていいんだよ、面白ければ。そして、今一番面白いのは……アキラのところだ」
「斎!!」

「……どういうこと? 斎君……?」

 いつの間にか、英人の背後に加奈が立っていた。
 その表情は、いつになく怒りに満ちている。

「アキラに、与するって? ……アキラの方が面白いって? それは、英人や高天君を、裏切るっていうこと?」

「別に、裏切るわけじゃないよ。英人も俊も、健太も。僕はちゃんと守るつもりだよ?」
「アキラに協力して?! この人が、どんなことをしたか、分かっているわよね?!」
「ああ、もちろん。でも、それで言ったら、英人のしたことは? 俊には許してもらったかもしれないけど、谷津マリカや須賀野時宗を操って、心を壊したのは、元をただせば英人だよ? 君は、それでも英人を許しているんだよね? そもそも、英人がいなければ、君はケガもしなかったし、貞操の危機に陥ることもなかったかもしれない。君だって英人の被害者だよ? でも君は、それを許したんだ。英人が好きだから。だったら、僕がアキラを気に入って、彼について行くのだって、許してくれてもいいんじゃないのかな?」
「それは……」

 矛盾を指摘され、加奈は言葉に詰まる。
「ああ、でもそうだね。場合によっては、和矢は敵に回すかもしれないね。どちらも絶対、俊のことは諦めないだろうし。本人は大人しいし、もし能力発現がなくて役には立たなくても、最高のお飾り人形にはなるよ、きっと」
「……今、なんて?」

 再び、加奈の目に怒りが宿る。

「ああ、聞こえなかった? たとえ眠っているだけの無能なシヴァ神の依代でも、いた方がマシだって話」

 ふふん、と斎は小馬鹿にしたように鼻で笑った。
 
「おい! 斎! 何てことを?!」
 
 普段から斎の毒舌には慣れているとはいえ、余りの言葉に英人は非難の声を上げる。

「……ルサナイ……」

 許さない。
 そう聞こえた。

 それが加奈から発せられた言葉だと即座に分からないほど、固く、厳しい声。
 
 そして。



 加奈の身体から、怒気に満ちた赤い靄が、陽炎のように揺らめき、立ち上った。

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