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第10章 陽炎の乙女

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 その日、青年は一人、とある歓楽街の裏道にある店舗で開店準備をしていた。

 じきに開店一周年を迎えるが、そもそもひっそりとオープンしたこの店で、それを祝うようなこともなく、平常通り営業していた。

 この店の前身である別の歓楽街のバーを我が物顔で利用していた、自分とそう年の変わらない客が、実は実質的なオーナーだと知り、その情報と引き換えに、彼はこの店から離れることが不可能になった。

 もちろん、強い意志を持ってすれば物理的に可能なのかもしれないが、その場合、十中八九、この社会と、最悪の場合この世ともおさらばしなくてはならないことも分かっているので、そんな無謀な行動に出る気はなかった。

 それに、正直仕事内容に比べて破格の報酬を得られるし、そのオーナーの持つ影響力もあって無頼の輩に因縁をつけられることもない。こんな夜の街のさらに裏側にある店でおかしな表現ではあるが、実直に働いていれば生活に困ることも身の危険を感じることもない。

  

 昨年末頃から、オーナーの青年はほとんど顔を出すことがなくなり、この店も閑古鳥が鳴いている状態であったが、実質的な売り上げは期待していないようで、彼はマスターと交代でただのんびり店番をしていればよかった。

 時折店を訪れる客も在ったが、多くはたまたま入ってみただけの通りすがりの客で、当たり障りなくオーダーされた飲み物を提供するくらいだった。

 女性の影もなく、色気も素っ気もない、オーナーの好みでボトルの銘柄だけは豊富な(そしてマニアックな)バーを好んで常連となる客もいないではなかったが、適正な価格を要求するだけが取り柄のような、一切のサービス精神を放棄した愛想のない店員だけの店を好む客など、それほど多くはない。

  

 この日も、昼前といういささか早い時間ではあったが彼は開店準備と言う名目で、店内でくつろいでいた。

 猛暑とまではいかないが、真夏日が続くこの時期、日中も光熱費が使い放題のこの店内で涼を得ているのが一番体にも財布にも優しく、たいてい遅くも昼過ぎには出勤していることが多かった。

 最初のうちは、豊富な財力を誇示するかのように仕事を終えた後は、歓楽街の他の店に繰り出しては万札をばらまいたり、高級なボトルを開けたりと豪遊に興じてはいたが。

 一通り遊び尽くすと、それも面倒になってきた。

 まだやっと二十歳を超えたばかりの若者が、隠者のごとく裏道の片隅の店に引きこもることに、けれどそれを気に掛ける存在がいるわけでもない。

 自分の代わりに店番を引き受けてくれる彼に甘えて、マスターも気が向いた時に顔を出す程度になっていた。それでも給料が得られるのだから、本当にオーナーは太っ腹である。

  

『ああ、今、どこ?……もう店? よかったー』

 そんなのんびりした時間を、一本の電話が打ち切った。

「どうしたんです? 今日から海外にリゾートだって……」

『ああ、これから搭乗手続きなんだけどさ、オーナーから連絡入ってさ。今から店使うから、って』

  

 一応、名目上はマスターである男性のみ、オーナーと連絡をつけることができることになっている。

「へ? まだこんな時間なのに?」

『そうなんだよね。でさ、もう実質店はオカダくんが切り盛りしているようなもんじゃない? だから、これからは君に連絡してもらうように頼んだから。あ、手続き始まった! じゃあ、後頼むわ』

「え? マスター?! あとって……ええ?!」

  

 彼――岡田おかだ涼介りょうすけは慌ててマスターに呼びかけるが、すでに『ツーツー』という機械音が響くばかりだった。

 仕方なしに電話を切ると、その瞬間、着信が入る。

「はい?!」

 見覚えのない電話番号だったが、これまでの話の流れから、相手を想定する。

『オカダ?』

「はい、……シバさん」

  

 電話越しに聞こえてきた、甘いテノールの声。

 久しぶりに耳にしたが、相変わらずうっとりするような声音だった、が。

『えっと、今、店?』

「はい。もう、一応開店準備はできてます」

『ああ、そう、ありがとう』

  

 ……ありがとう?

 え?

 あのシバさんが、『ありがとう』だって?

  

 自分の知る『シバ』は、いつも高慢で居丈高で、それすら魅力的な、暴君で。

  

 なのに、『ありがとう』って……。

  

 ここ数カ月、ほとんど顔は合わせていない、けれど。

 いったい何があったんだ?

  

『あ、それで、鍵はボ……俺も持っているから、おつかいを頼む』

「……何でしょう?」

 まさか、ここにきて、危険な運び屋とか? 鉄砲玉? 急に優しくなったのは、そのためか?

  

『ええと、そこからだと、玉本屋が近いな。和菓子一通り、上生菓子中心になるべく見栄えがいいヤツと……あと、名林園で最高級玉露と、煎り立てのほうじ茶と、あと適当におすすめの茶葉を五種類くらい……代金は店にツケておいて。水はいつものミネラルウォーターがあるよね?』

「……水は、ちゃんと硬水、軟水ひとそろえ常備してありますが」

『じゃ、それで』

「あ、ちょっと待ってください!」

  

 電話を切ろうとするシバを、岡田は慌てて止める。

  

  

「……メモするんで、もう一度、買ってくるものを教えて下さい」

  

 

  

  

「……ったく、なんで僕の店を使うんだよ?」

  

『いいじゃないか。どうせ開店休業中みたいなもんだろう? こういう時に活用しなくちゃ』

  

 英人は岡田に電話した後、報告がてら斎に苦情を申し立てた。

 昨年の夏の騒動のあと、マリカと唐沢宗家の追及を逃れるために移転した店――英人が出資し、主にシバの悪だくみのために利用していた小さなバーは、冬の騒動の後、唐沢宗家の管理下に置かれながらも営業を続けていた。

 ただし、従業員はいくらか事情を知るマスターと、スガヤと親しい岡田と言う店員のみにしぼって。

 岡田を残したのは、スガヤの行方を追う為であり、逃れられないように破格の報酬と情報提供で精神的物質的両面からがんじがらめにして。

 小悪人らしく、損得を見極める目と卑屈さを持ち、なおかつ元体育会系のためか元来の性格なのか上の命令系統に素直に従うので使い勝手が良いとマスターからは聞いていたが。

  

「言われたものは準備してもらっているから。あんまり、お茶会にはふさわしいとは思えないけど」

『いいんだよ。耳目が遮られれば。こっちもお客さん連れていくから、そちらも丁重に案内を頼むよ』

「……言っておくけど、正直僕は冷静に対応できるか、分からないよ?」

『まあ、そうだろうね。でも、頼むね。三上さんをどうするかは、キミに任せるよ』

「いまさら? だったら初めから言っておいて欲しかったな。同席させるつもりだったろう? 最初から」

『どこにでも連れ歩く君の溺愛ぶりがいけないんだよ。まあ、彼女の性格からして、色々我慢しているだろうし、ここらで発散させておいた方がいいだろう?』

「……明日、試験だっていうのに」

『あ、偶然だね。僕もそうだよ。だから大丈夫』

  

 のほほんと言ってのける斎に、もはや反論する気も失せる英人だったが。

  

「……大丈夫? だいぶ消耗しているけど」

 見るからに憔悴している英人に、加奈が労わりの言葉をかける。

「うん。どちらかと言えば君の方が心配だけど。本当に、いいのか?」

「……せっかく、面と向かって報復できる機会を、逃す気はないわ」

 加奈には珍しい、剣呑な言葉を聞いて、英人はそっと手を握る。

「手、震えているよ。そんな荒っぽい言葉を使ってごまかそうとしちゃ、ダメだよ? 今、無理に向き合うことはないんだ。代わりに僕がめいっぱいやり返しておくから。アイツに……アキラに会う必要はないよ?」

「ダメ。それじゃ気が済まない。ひとこと言ってやらないと。アナタの取った手段は、決して許されないって。女性を……女をバカにしないで! って」

「……それが加奈の言う報復なんだ? なんだかんだ言っても、優しいと言うか、甘いと言うか。だから、彼女にも、あんなに親切にして」

「あの子は関係ないじゃない? 悪いのは……アキラだわ」

  

 これから、斎がアキラを連れてくる、そう聞いて、即座に自分も同席すると宣言した、加奈。

 極度のストレス障害は免れたものの、まだ油断できない。この対面がトリガーとなり、再び症状を招く恐れもある。できれば、加奈には知らせないで対処したかったのに、斎の方法は荒療治過ぎる。

 真実が聞いたら、怒髪冠を衝くに違いない。

 と言うか、本人がアキラに物申すために出張ってきそうだ。今日、別行動で、それだけはよかった。

 英人の店のことは、一応加奈にも話してあるとはいえ、できれば英人も存在を忘れたい場所だった。
 それに、シンシアの希望で和菓子と日本茶を揃えさせているが、本来は酒類を提供する夜の店である。
 高校生を連れて行きたい店ではないのだが。

 

「オマタセイタシマシタ」

 珠美と共に駅の土産物屋を見学に行っていたシンシアが戻ってきた。

 加奈の英語力を感じ取って、片言ながら日本語で声をかけてくる……根は悪い少女ではないと、英人も思うが。

「……英語でも大丈夫って、伝えて? その、ゆっくりなら」

 車に乗り込んだ後、助手席の加奈が英人に通訳を頼んだが、「自分で話してみたら?」と促す。

 加奈は一瞬たじろいで、それから意を決して、後部座席のシンシアに英語で話しかける。

 さっきまで迷いなくアキラに会う、と宣言していた同じ少女とは思えない。

 加奈の英語が通じて、シンシアはゆっくりと英語で話し、たどたどしいながらも加奈は答える。

 コミュニケーションの経験が少ないだけで、基礎的な英語力は身についているのを英人は知っている。斎のせいで加奈の試験勉強の時間が削られてしまったのだ。それを補ういい機会だと思うしかない。

 そうやって、気持ちを鎮めようと努力はしているが。

  

 アキラ=ケネス・香月。

  

 同じ大学構内にいることが分かっていながら、今までその身を捕らえることが叶わなかった、仇敵。

 英人が愛してやまない加奈の身を汚そうとし、心を深く傷つけた男。

 シンシアと出会った時、一瞬、同じ目に遭わせてやろうかと、昏い思考が脳裏をよぎった。

 それは、加奈が最も望まない報復であることも分かっていたので、即座に心に封じたが。

 

 けれど、本人に対しては。

 斎がどういう思惑で対面の場を用意したのか分からないが、その依願通りに自分を抑えられる自信はない。斎のことだ、英人が怒りのあまり暴走することも、ある程度想定しているには違いないが。

 歓楽街にほど近いコインパーキングに車を停める。

 まだ昼過ぎの今は、物寂しいだけの夜の街。

 なるべく表の商店街に近い小路を選んで、英人は店に案内する。

  

 店内は、岡田が整えてくれてあり、程よく空調も効いていた。

 照明を最大限にして、店内を明るくする。

  

 初めて訪れる夜の店に、加奈は不安げに目を泳がせている。

 一方のシンシアは(となぜか珠美も)、平然とバーカウンターの椅子に腰かけた。

  

『いい雰囲気のお店ね。日本でも、昼間からパブが開いているのね?』

 イギリスではパブ、日本でいう居酒屋に日中から家族連れで訪れる風習がある。

 まあ、最近では日本でも家族向けの居酒屋レストランが増えている。ただ、この歓楽街のような明らかに夜の店が並ぶ界隈では珍しいかもしれない。

 英人はカウンターの内側のキッチンに入り、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すとグラスに注ぎ、カウンターに並べた。

『いつもは閉めていますよ。これから特別スペシャルお客様ゲストもいらっしゃるので』
『まあ、それって……もしかして?』
『その予想は当たっているでしょうね』

 英人はシンシアには伝わらないように、皮肉を籠めて話した。単なる精神安定剤代わりだか、言葉にして少しスッキリする。
 自分の分のグラスを持って、ボックス席に座る。

 さて、本日のスペシャルゲストは、この状況に、一体どんな顔を見せるか?
 自分と良く似た美麗な顔が、苦悩するところを見たいという歪んだ思いに気付き、英人は苦笑した。

 そんな英人を目にして、加奈は不安げに視線を送るが、カウンターからは離れなかった。

 その瞳に浮かぶ悲しみとも迷いとも取れる揺らぎに、英人は目線でうなづき返す。

 加奈を苦しめるような輩は許さない。

 黒曜石の瞳に、そんな決意が浮かび。


 
 訪問客を知らせるドアのベルが、店内に鳴り響いた。
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