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第8章 鈴蘭の接吻

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 夏の夜道を青いSUVが走り抜ける。
 二十一時を過ぎ、また日曜日の夜とあって、道はかなり空いている。

「じゃあ、また明日」

 今日は石高祭で学校周辺の駐車場は満杯になることを予測し、英人は車を学校近くの遠野家に置かせて貰っていた。と言っても、和矢との関係が微妙な英人が自ら交渉したわけはなく、健太に「知り合いに頼んであるから」と誘導されたという。

 徒歩で美矢を送りがてら、弓子に謝意を述べて、遠野家の駐車場――もともと事務所だった遠野家の建物に付属した、五台程度駐車できる広いスペースだった――に向かい、加奈と俊を乗せた。
 俊と加奈の家はセキコーを挟んで反対方向なので、てっきり自分を先に送るのかと思ったが、英人から「もう遅いし、加奈が先でいいか?」と言われた。夜遅くに女性である加奈を優先することを、俊が厭うはずもなく、快く了承した。というか、まだ電車の時間はあるし、車を引き揚げがてら美矢を送るついでとはいえ、俊まで送迎してもらうのは逆に申し訳なく感じていた。

 それに。

「……よかったら、隣に乗らないか?」
 玄関のドアの向こうに消えた加奈を見送るため車外に出ていた英人が運転席に戻る。エンジンをかけながら、不意に英人はそうつぶやいた。
「え?」
 小さな声とエンジン音が相まって、きちんと聞き取れなかった俊は、思わず聞き返す。

「隣に乗ってくれ。そこだと……話しづらいから」
 後部座席の俊に向かって、今度はきちんと顔を向けて、英人は言った。
「あ、うん」
 
 うなづいて、俊は車外に出て、助手席のドアを開ける。ためらいもなく助手席に乗り込む俊を見て、英人が少し驚いたように目を見開いた。

「平気、なんだな?」
「何が?」

 感情が読み取りづらい俊だが、逆に、表情も声のトーンも、普段と変わらない。むしろ英人が何を驚いているのか分からない、というまなざしを向ける。
「いや、その……僕と二人きりは、嫌なんじゃないか、と」
「別に、初めてじゃないし。前にも、乗せてもらったろ?」
「あの時は、緊急事態だったから。夢中で、色々考える余裕もなかったし……お互い……」
「まあ、そうだけど。でも、今だって、平気だし」

 こういう流れになることを想定し、健太は俊に「演技しろとは言わないし、嫌なことは嫌って言っていいけど、OKなこともちゃんと伝えてやってほしい」と頼んでいた。
 言葉足らずで表情が見分けづらい俊の心の動きを長年一緒にいる正彦並みに読み解ける健太とはいえ、それが他人には伝わりづらいことはよく分かっている。
 繊細なくせに、いや繊細なゆえに、見えにくい心の機微よりも目に見える相手の反応に過敏になりがちな英人には、きちんと伝わることが必要だという健太の配慮でもあった。

「……少し、寄り道していいか?」
 しばらく俊の家に向かって車を走らせたあと、英人は目についたコンビニの駐車場に車を滑り込ませた。「ちょっと待ってて」と言ってコンビニに入り、透明なカップに入ったアイスコーヒーを手に戻ってくる。
「ほら、ブラックでいいんだよな」
「あ、ああ。……ありがとう」

 黒々としたアイスコーヒーを受け取る。水滴のついたカップからひんやりした冷気が伝わる。シャラン、と氷の音が耳に心地いい。
「よく、知っていたね」
「ん? ああ、俊はブラックだって、健太が言っていたから」
 そういう英人は、淡い褐色のカフェラテを飲んでいる。
「和矢もそうだけど、みんなミルク入りが好きだよな」
「ああ、そう言えば割とそうだな。健太はどっちもイケるみたいだけど、選べるならミルク入りがいいって言っていたし」

「みんな甘いものも平気みたいだし、俺、変わってるのかな?」
「好みの問題だろ? 苦手なヤツは結構いるし……それに、僕と健太の甘いもの好きは、多分、飢えがあるからだし」
「飢え?」
「俊だって、小さい頃は甘いもの、食べていただろう? ケーキとかキャンディーとか」

 俊は少し考えて、確かに幼い頃はバースデイケーキを喜んで食べていた記憶を思い返す。いつのころからか、べったり甘いものは苦手になったけれど。

「僕達は、一応食事は与えられていたけれど、そう言った嗜好品は貰えなかった。糖分が、っていう話じゃなくて。栄養補給という意味では与えられていたと思うけど。僕達が甘いもの――菓子が貰えるのは、何かしらの成果を上げた時で。それも目の前で見せびらかされて、取り上げられることの方が多かったし。運良く貰えた時も、味わう暇もなく、奪われる前に必死で口に詰め込んで。イエットと……健太とよく話していた。ここから逃げだしたら、ヨーロッパに行きたいな、きっと『ヘンゼルとグレーテル』みたいな、お菓子の家があるに違いない、って。平凡な、例えば特別なイベントの時だけであっても、甘いものを味わって食べる、当たり前の『幸せ』っていうものに飢えていた、その頃の反動もあると思う」

「それは……研究所ラボの頃の?」
「ああ、僕はツラくなると、しょっちゅう健太のベッドに忍び込んで、おとぎ話みたいな夢想をして。泣いている僕を、健太がいつも慰めてくれて、優しい笑顔で。……本当は、健太の方がもっとつらい仕打ちを受けていたのに」
「健太らしいね。昔からそうだったんだ。どんなことも、何でもないような顔で受け止めてくれて……いつでも、笑顔で」

「ああ、そうだな。あいつは変わらない、今も。だから嬉しかったし……憎かった」

「え?」
「どんな試練も、あいつを変えることはないんだって……自分を変えていかなければ耐えられなかった僕と違って。その魂の輝きが、高潔さが、憎かった」
「……今は、違うんだよな? 『憎かった』って、過去形だし」
「羨む気持ちは、あるけどな。あと、あの笑顔をやたら振りまくのは、ちょっと不快だ」

「でも、やっぱり英人は、健太の『特別』なんだって、感じるよ。いつも、なんだかんだ言っても、英人をかばっていることが多いし」
「僕は、それは俊だって思うけどな。いざとなったら、最後まで守ろうとするのは、俊だと思うし」

「それは……ムルガンとしてだ。将としての、武人としてのさがが、主君を守ろうとしているに過ぎない。お前は、守られるのではなく共に立つべきなのだ」

「俊? 今? なんて?」

 唐突に、俊の声のトーンが変わったことに英人は戸惑う。ぶっきらぼうだけれど、少年らしいぞんざいな言葉から、重みのある固い口調。

「……今、俺、何って言った? 急に、頭の奥から、声がして……」
「シヴァ神が助言してくれたらしい。いつまでも健太に……ムルガンに甘えるなって。そうだな。もう、ちゃんと一人で歩くべきなんだ。Eightだって、少しは成長している。僕も、甘えているわけには、いかないよな」

 コトン、とカフェラテのカップをドリンクホルダーに置き、英人は俊に向き直る。

「今まで、すまなかった。去年の文化祭のことも、秋のことも。謝って赦してもらえることじゃないのに、何も言わずに、俊は、僕を受けいれてくれて。でも、それじゃいけないんだ。きちんと、俊が気の済むように、僕を罰してほしい。僕にできることなら、どんなことをしても、償う、から」

「……どんなことをしても? どんなことでも?」
「……それを、俊が望むなら」

「例えば、もう、健太や三上さんに、近付くなって、言ったら?」

 途端、英人は目を見開き、逡巡する。そして、息を大きく吸い、固く目を閉じて。

「それを、俊が望むなら」

 声を震わせながら、それでもはっきりと答える、決意を籠めて。

「俺が望むなら、って、ずるいよ。望むわけないじゃないか。そんなことしたら、健太や三上さんまで悲しむ」
 おまけに、そんな泣きそうな顔で。試すような言葉を選んだことに、俊は後悔した。

「……だったら」
「あの二人を、悲しませないこと。それが、俺の望みだ。あと、もう少し、和矢と仲良くしてほしい。和矢だって、つらい思いをしてきたことは、同じだろう?」

「……俊自身への償いは、入ってないじゃないか」
「俺は……今は思いつかないから、いいよ。みんなが悲しまなければ、もう、誰かが傷つくようなことが起きなければ、それで、いいよ」

「……分かった。僕は、僕も、いざとなったら、俊を守るから。何があっても」
「いや、それは……できれば、三上さんを守ってほしい。それができるのは、英人だけだって、信じているから」

「……俊、お前、加奈のこと、どう考えている?」
「え? 友達だけど」
「そうじゃなくて……ああ、恋とかって話じゃなくて。お前にとって、どんな存在なんだ?」

「……守りたいって思う。愛しいって思う。ああ、これも、女の子としてっていう意味じゃなくて……心の奥深くで、つながりを感じる。彼女が、英人の隣で笑っていると……嬉しい」

「……分かった。加奈は、僕が、必ず守る」
「ああ、頼む」

 露わな左目を細めて、英人が笑顔になる。それは、どこか健太に似通った笑みで。

「英人と健太って、顔立ちは違うのに、笑う顔は似てるんだな。ずっと健太といたから? 健太は、英人が生まれた時から守ってくれていた、からとか?」

「いや、それはさすがに無理だ。健太は……どういうわけか、年上ってことになっているけど……本当は、僕と同じ年だよ。というか、同じ日に同じ産院で産まれた、はず」

「え?!」
「昔のこと思い出したって言ってたけど、細かいことはやっぱり覚えていないみたいで……何となく、訂正の機会がなくて」


 後日、健太に確認すると「何だって!? じゃあ、俺はずっと一学年上の勉強させられてきたのかよ? チビだって言われたのも、当たり前じゃないか! 損した!」と憤っていた。
 戸籍上の誕生日は十月になっていたが、英人と同じ七月だと分かり、「もう! 誕プレの準備が間に合わない!」と真実まで憤っていたが。

 

 英人が健太の『特別』だと自分で言っておきながら、二人が同じ年の同じ日に産まれたという運命というより宿命のような絆を感じて、俊は少しだけ嫉妬めいた気持ちを感じた……ことは、美矢にも内緒である。
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