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第8章 鈴蘭の接吻

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 盛況のうちに石高祭は閉幕した。
 昨年の終幕の、嵐のような出来事もなく、至極平和に後夜祭を迎えられたことに、真実は安堵した。

 もちろん最後まで気を抜けないが、少なくとも関係者の安全は現在確保されている。
 回復した加奈は、今は隣で英人と笑いあっている。後夜祭の屋内イベントには出席しないが、一緒に校外から花火を観ようと誘った。
 その後は英人が加奈と、一緒に俊と美矢も車で家まで送ってくれるという。
 珍しく健太が俊を送ると言わなかったが、そこにある意図に真実も気付いていたので、そっと見守ることにした。

 この機会に、英人が俊にきちんと謝罪するため、あえて二人の時間を作ったのだ。それは加奈も知っており、俊の意向を確認しながら、必要なら自分も同席できるように考えているという。

 加奈が拉致された時には、緊急事態で二人きりで、しかも隣り合って車に同乗することも厭わなかったが(結果的には政宗も同乗していた)、改めて二人きりになることを、俊がどのように感じるか、少し不安なのだと言う。今は克服したとはいえ、自身が強いストレス障害で英人と顔を合わせることに苦痛を感じていた経験があるからこそ、また一時は「シバ」の名を耳にしてパニックを起こしたことのある俊を慮ってのことだろう。

 俊と美矢が到着するまで、加奈と英人、そして真実と健太は、校門の外から校庭で上がる花火を鑑賞した。それほど規模は大きくないが、良く晴れた夜空に上がる火花は、一足早い夏の風情を思わせた。

「……なんか、いい香りがする」
 花火が終わり、あたりに火薬の臭いが立ち込めていた。それを避けるように風上に移動する。校門から少し外れた花壇を見て、健太がつぶやいた。辺りは薄暗くなっていたが、街灯の淡い光を受けて、小さな白い花が浮かび上がる。
「ああ、鈴蘭ね。まだ咲いていたんだ」
 ついこの間まではびっしりと、まさに鈴なりに咲き誇っていたが、時期も外れた今は、草むらに埋もれるように、ひっそりと咲いていた。

「鈴蘭って、こんな香り、するんだな」
「夜のせいかな。何か、盛りの時は殺虫剤っぽい青臭い感じがしていたけど」
「鈴蘭――ミュゲはローズ、ジャスミンに並ぶ、世界三大フローラルの一つだからね。名の知れた香水も多いし。まあ、生花の匂いはかなり好みが分かれるけど。でも、これは香りが強いな。品種が違うのかな?」
 スタイリッシュな英人らしく、香水にまで詳しいらしい。
 先ほどまでの煙の嫌な臭いのあとのせいだからなのか、少し青臭い匂いが、今はすっきりと感じられる。
 
「でも、花自体は可愛いわよね。清楚で」
「うん、花が盛りの時にも見たかったな。でも、これはこれで……」
 健太がショルダーバッグからカメラを取り出し、鈴蘭の写真を撮った。先程も花火も写真を撮っていたので、あとでデータで貰いたいな、と考えて。

「あ、そう言えば、英人さん、ちゃんと加奈に写真貰うように頼んだ?」
「写真? 何のこと?」

 真実には貰えなかった時の保険、なんて言っておいて、英人は加奈に執事姿の写真を貰う交渉をしていなかったらしい。

「いや、あの、チャンスがなくて……まあ、別に後でも……」
 途端、しどろもどろになった英人を尻目に、真実は加奈に「執事コスの写真が欲しいんだって」と耳打ちした。

「ヤダ、どこで聞いたのよ?! 真実ちゃん、言ったの?」
「私じゃないよ。健太だよ。それに和矢君や斎君も話しそうだし。いいじゃない、超可愛かったよ」
「どうせなら、真実ちゃんみたいな店員さんがよかったのに。あっちの方が可愛かった」
「そう言えば、斎はよく、あの格好したよな」

 ピンクの三角巾とエプロン姿の斎の姿を回想して、健太はちょっと気の毒そうにため息をついた。

「え? お揃いにしようって、斎君が選んだんだよ? 普通に白や青のもあったのに。世の中はジェンダーフリーなんだから男性がピンクを避けるのは間違っている、とか何とか言って」
「……主張は正しいけど、斎が言うと、単にお揃いにしたかっただけに聞こえるな」
「だな」

 英人が言外に斎の執着について仄めかし、健太も同意する。真実に手痛いしっぺ返しを食らったのに、未だ諦めきれていないらしい。さすがに、最近は真実もそれを感じるが、一応約束を守ってくれている以上、そこまで斎を避けるわけにもいかない。

「お待たせしました」

 美矢と俊が到着した。挨拶もそこそこに、二人は英人と加奈について行き。

 残された真実と健太も歩き出す。健太のアパートはセキコーから徒歩圏内なので、アパートの駐車場まで歩き、健太の車に乗せてもらうことになっている。

 まだ校庭からはガヤガヤと声が聞こえていたが、やがてその声も遠くなった。薄暗い小路の手前で、健太は立ち止まった。

「……そう言えば、ここにコスモスが咲いていたよな」
「ん? あ、そうね。まだ季節は早いけど。健太知ってるの?」
「うん。去年の秋、ここで俊と英人に会ったんだ」
「そうなの?」
「英人が俊を捕まえようとしていて、俊はすごく怯えていて……今の姿からは考えられないけど。でも、よかった」

 全てのいきさつを承知しているわけではないけれど、健太が俊と英人、それぞれを大切に思っていることは、真実にも伝わる。その大切な二人が今は和解できていることに一番安堵しているのも健太だろう。

「英人さんは、幼馴染なんだよね。でも、高天君は、ここで初めて出会ったんだ? 助けてくれた健太に高天君が懐くのは分かるけど。健太は、どうして?」
「……怯えていた俊が、なのに、俺に、逃げろって言ったんだ。自分が大変な状況なのに。その時に、絶対助けなくちゃ、守らなくちゃ、って思った」

「……健太って、人が好過ぎるよね。目の前で困っている人がいて、みんな助けていたら、キリがないのに」
「その言葉は、真実にお返しするよ。気に掛けた人間、どれだけ庇護下に抱え込むんだよ? だから斎みたいな厄介な人間も切り捨てられないし」
「別に、誰彼構わずってわけじゃないわよ。どうでもいい人もいるし。……確かに、ちょっと世話焼きが過ぎるかもって自覚はあるけど」

「……それが、真実のいいところでもあるし……そういうところに、俺は惚れちゃったんだしな。でも、時々は、俺だけを見てほしいな」
「見てるわよ。……私だって、英人さんや高天君を大切にする健太が、……好き、だけど。でも、たまに、ちょっと妬ける、し」
「真実……」
「だから、連休の時、逆に健太がヤキモチ妬いてくれて、ちょっと嬉しかった。そう考えると、斎君には、感謝しないと……」
「斎のことは言うなよ!」

 突然、健太は真実を抱きしめた。
「今日は、真実の口から、その名前は聞きたくない。迫られたんだろ? 本当に、大丈夫だったのか? ああ見えて、アイツは強いんだし……」
「まあ、うん、結構ヤバかったけど……私が健太を好きじゃなかったら、オトされていたかも」
「え?」
「だって、あんなに熱がこもった目で見つめられて、顎もガッチリ抑えられて」
「顎……こんな風に?」

 健太は、真実の左顎を自分の右掌で包むように持ち上げる。

「ちょっと違うけど……人差し指で顎を支えて、親指で下唇を引っ張って……」
 真実に言われるまま、健太は手のポジションを変える。
「こう?」
 下唇を親指で開かせると、真実は返答できない。返事の代わりに、瞳を閉じた。

 健太は、そっと唇を重ねる。軽く開いた下唇を甘咬みし、ついばむように軽く何度も口付けを繰り返す。その度に真実を抱きしめる腕に力がこもる。
 とろけるような快感に、真実は力が抜けそうになり、思わず両手で健太にしがみついた。

 その仕草を許諾と受け取ったのか、健太は唇を合わせたまま、今度は深く口内を探ってきた。

 ……これが、ディープキスなんだ……。

 まるで人ごとのように考えながら、真実は目がくらむような快感に身を任せた。

 やがて。

 どちらともなく、そっと身を離し。


 真実の手を引いて、健太は歩き出した。


「……なあ、もう少し、遅くなっても、いい?」
「……いいけど」

 答えながら、真実は少し身構える。これは……もしかして、あれ? よね?!

「そこの、ファミレスに行こう。お茶でも飲んで、ちょっとクールダウンしたい」
「え?」
「このままだと、真実を家まで無事に送っていけなくなりそうで……ああ、真実が心配しているようなことは、しないから。ちゃんと、待つ、から」
「いや、そん、そんな、心配、し、してないから! いいよ、ファミレス行こう! 私も喉乾いたし!!」

 変な心配と期待をしちゃって、恥ずかしい!!

 健太が真実をとても大切にしてくれているのが分かって嬉しい反面、心のどこかで大人の階段を昇る機会を失ったことを残念がる自分を見つけて、真実は赤面した。
 確かにクールダウンは、真実にも必要なようだ。

 でも。


 やっぱり、斎君じゃなくて、健太で、良かった。
 健太の顎クイの方が、何倍! もドキドキしたし!

 どこからか、先ほどと同じ、鈴蘭の香りがする。
 草むらのような少し青臭い、かすかな苦みと酸味を感じる中に漂う、ほのかな甘い香り。

 


 真実の胸に、健太からしてくれた初めてのキスの思い出と鈴蘭の可憐な白い花影が添えられた。
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