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第7章 遡及の茉莉花

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 ようやく梅雨が明け、本格的な夏の日差しが照り付けるようになってきた。七月に入り、日中の気温は上昇傾向である。今日は午前中に通り雨があったので、余計に蒸し暑い。こんな日はエアコンの効いた室内でのんびり過ごしていたいものだが、そうはいかない。

 高梁たかはし未那みなは、肌にまとわりつくような熱気を吹き飛ばすように、携帯用の扇子で顔を仰ぐ。一応屋根の下とはいえ、外気を遮るもののない駅の改札口は、日向よりマシ、という程度。平日で人もまばらなのがまだ救いだ。

 予定通り新幹線が到着したらしいアナウンスが響いてくる。時間差で、ホームにつながるエスカレーターから吐き出されるように乗客が出てくる。その集団に目を凝らし。

「久しぶり! 元気だった?」

 自動改札を通り抜け、足早に未那に駆け寄る旧友の言葉を聴いて、懐かしさに気持ち暑さが和らいだように感じた。本当に、久しぶりだ。

「びっくりしたよ。急にこっちに来るなんて。空港からそのまま来たの?」
「まさか。一応、研究室と実家には寄ってきたわよ。さすがに素通りはできないって」
「だよね。でも、その割には、荷物多いんじゃない?」

 スーツケースとそこに載せたボストンバッグに加え、肩にも小さめのボストンバッグを担いでいる。それとは別に斜め掛けの大きめのポシェットと手提げの紙袋。

「あ、これは預かりもの。あと、これはお土産。はい」
 ひょいっと、手にしていた紙袋を未那に手渡す。誰でも知っている、有名店の東京土産の紙袋には、その店の菓子折りが入っている。

「……イギリスみやげじゃなく? まあ、これ好きだから嬉しいけど」
「がっかりした? ふふ。他にも買ってきてあるよ。それは、未那のお仲間用。スーツケースに入っているから、あとで渡すね。未那が欲しがっていたリップバームだよ」
「ホント?! 嬉しい!」
「相変わらず正直だな、未那は」
「ホントに嬉しいもん。あ、どっかでお茶飲んでく? 疲れたでしょ? あ、そっちの荷物持つよ」
 そう言いながら、返答も待たず未那は友人の肩にかかったボストンバッグを引き受ける。

「サンキュ。そうだね。ちょっと喉も乾いたし。未那のおすすめのカフェとかで一休みしたいけど……早く大学に行って様子を確認しろって、言われてるんだよね」
「例の、友達? だって、今イギリス、何時よ? まだ早朝でしょ?」
 じきに正午になるこちらはともかく、連絡を入れるにも相手は地球の裏側だ。

「時差は八時間だから、だいたい朝の四時くらいかな。寝てると思うけどね。でも、メールはしておかないと。時間、分かるし」
「はあ、大した執着ぶりだね。でも、まあ、分かるかな。あの人相手なら」
「でしょ? 本人が来たがって大変だったけど、里帰りついでに会ってくるからって、宥めたんだよ。まあ、その代わり、旅費も過分に出してもらっちゃったけどね。親御さんに」
「教授のお嬢さんじゃ、無下にはできないもんね。お守、大変ね?」
「別に、本人はいい子だよ? 世話焼きだし。ちょっと我儘なところもあるけど、可愛いもんよ。というか、実物も超可愛いし」
「エマ、昔っから美形に弱いもんね。じゃあ、大学について、用事が済んでからお茶しよう。ランチも。カフェがあるのよ、構内に。生協だけどね。コーヒー、久しぶり?」
「そんなことないよ。普通に飲んでるよ」
「そうなんだ。紅茶しか飲まないと思ってた」
「全然。むしろ、紅茶より良く飲んでいるよ」

 おしゃべりしながら、未那はエマを連れて、駅前の駐車場に移動する。
 送迎用の無料パーキングは屋根がなく、わずかの間に車内はかなり高温になっていた。荷物を入れる前にエンジンをかけてエアコンを回すと、むわっと熱い空気があふれ出したが、じきに冷風に変わった。

「何だか高原って、涼しいってイメージあったけど、やっぱりどこも昼間は暑いのね」
「でも、朝夕は涼しいよ。夜中なんて寒い時あるもん。冬場はさらに大変だけどね」

 未那もエマは都内の高校に在籍していた元同級生である。高原のキャンパスに憧れた未那はこの地の国立大学に進学した。一方エマ――寿々木すずき恵麻えまは都内の国立大学に進学した。二人とも大学院に進み、研究者の道を歩んでいる。
 高校時代から飛びぬけて優秀だった恵麻は、公費留学生に選ばれて、一年前イギリスの大学に留学した。今回の帰国は、籍を置く大学院の研究室への報告と、次年度も引き続き援助を受けるための関係各所へ挨拶も兼ねていた。それなりの研究成果と現地での評価を得られたため、留学期間の延長はすでに決定しているが、それでは済まないのが学閥での人間関係である。権威とプライドを逆なでしないように振舞いにも注意が必要である。今回も留学先の大学の有力な教授(のお嬢さん)からの依頼がなければ、研究室に顔を出しただけですぐに他県に移動することなどできなかった。
 
「でも、あの若さで講師待遇なんて、さすがイギリス屈指の工科大学よね。恵麻もすごいと思ったけど、あんな人材が、イギリスにはうじゃうじゃいるの?」
「まあ、優秀な人は沢山いるわよ。でも、ケニーは別格よ。未来のノーベル賞候補だもの。未那には悪いけど、留学先にこんな田舎の大学選んだのが不思議なくらい。まあ、精密機器に関しては、確かに全国でもトップクラスだと思うけど。分子工学は、どうなのって感じ」
「確かにね。でも、素材開発は頑張ってるんじゃない? うちとも提携してるけど、廃材の金属様加工とか、ストレス軽減の特殊繊維の開発とか、目先の変わったことしていたし。まあ、変わり者も多いけどね。ともかくも、彩りの少ない理工学部門が華やいでいて、嬉しい限りよ」
「まあ、あれだけの美形は、そうはいないもんね。金髪碧眼の王子様じゃないけど、逆にオリエンタルで目に優しいし」
「……それが、そうでもないんだよね」
「へ? あんまり人気ない?」
「じゃなくて。唯一無二でないっていうか。実は、もう一人、すごい人がいて。人文部門の学生なんで、めったに顔見られないけど」
「へえ? 未那が言うなら、相当?」
「というか、そっくりなのよ。アキラ先生と。ハーフじゃなくて、日本人に生まれていたら、こんな感じ? っていう色彩が違うだけで、パーツはそっくりなの。究極の美形って、似るもんなのかしら」
「マジ? え、ちょっと並べて眺めたい!」
「難しいけどね。アキラ先生は、研究室に籠っていて、特別講義以外ではめったに出てこないし。もう一人は同じ大学構内でも、別の建物にいるし、サークルとかにも入ってないですぐ帰っちゃうみたいだし」
「って言うか、アキラ先生って呼んでるの? まあ、ケニーより、日本だとその方がなじみがいいのか……」
「本人が『アキラって呼んでください』って言うから。さすがに日本じゃ講師に向かって呼び捨てはできないし。あっちじゃホントに『ケニー』って呼ぶんだ?」
「ある程度親しくなればね。さすがに公の場では『ミスター・カヅキ』よ。でも、そうか、研究室に籠っているんだ? それならシアも安心するかな」

「……だと、いいけど」

「何? なんかあったの?」
「いや、単なる噂、というか。アキラ先生が、その、さっきのもう一人の美形男子と、女の子を巡って争っていた、っていう……ホントにただの噂よ? 美形二人に触発されたそっち系のマニアックな子たちが、妄想しているだけ、だと思うんだけど。最終的には、その女の子そっちのけで、禁断の愛を育んじゃってるし」
「何それ?!」
「だから、いわゆる、あれよ? 恵麻が、昔ハマってた、例の」
「……見たい! その言い方だと、出てるんでしょ? 本」
「まあ、ね。って言うか、相変わらずなのね。いいの? 友達のフィアンセなんでしょ?」
「美しいものを愛でるのに理由はいらないわ! それに、彼女も……お仲間だもの。まあ、さすがに、本人出演のは、マズいかもしれないけど」
「あ、だったら、その後輩達が作ってる、高校バージョンにもちらっと出てるのがあるのよ。なかなか百花繚乱よ? しかもBGTのラブ揃い踏みだし」
「え? 見たい! どうせ研究室に置いてあるんでしょ? 見せて! 早く大学に!」
「まあ、そうだけど。……ほら、着いたよ」

 大学関係者用の駐車場に車を入れる。慌ただしく荷物を出すと、恵麻は足早に構内に向かい。
「で? 未那の部屋は?」
「……先に、アキラ先生に会うんでしょ? 報告しなくちゃって言ってたじゃない?」
「そうだった……つい、三次元本人より二次元作品を優先しちゃった」
「ホント、ぶれないわねぇ。お楽しみは、あとからじっくり、でしょ? あ、何なら、今週末、その後輩達の高校の文化祭があるのよ。スケジュール調整リスケして行ってみる?」
「行く!」

 スケジュール確認もせずに、即答する恵麻に、未那は苦笑した。まあ、確認しなくても、恵麻の脳内の別タスクではすでに調整済みなのだろう。そのとびぬけた優秀さも相変わらずの様子である。

「ケニーの研究室って、あっち?」
 前方で一際目を引く白亜のビルを指差して、恵麻は返事も待たずそちらへ歩き出そうとするが。

「違う違う! あれは産学センター。研究室はこっち」
 未那は反対方向のやや古びた建物を指差す。

「ふーん。やっぱり、企業が入ると建物もきれいね。中見られるの?」
「後で案内するよ。一部工事中だけどね。壁が崩れちゃって補修中」
「まだ新しそうなのに?」
「事故でね。中で爆発が起きたって。何か危ない実験でもしてたみたいだけど……あ、オフレコで! 一応、ガスの配管トラブルってことになってるから」

 理工学部門の関係者は、そんなはずはないと分かっているが、研究者の過失による事故では体面が悪いと承知している。なので、上層部に言われた通りに、口裏を合わせている、一応は。
 公然の秘密なので、極秘というほどのこともないが、外部の人間である恵麻には念のため口止めをしておく必要がある。
 恵麻もそういった研究部門の闇を知らないわけではないので、素直に承諾する。表向き、というか、提携企業に不信感を持たれないような配慮は重要だ。研究には、とにかくお金がかかる。
 
 恵まれた環境と才能だけでそんな魔窟に入り込んでしまったまだ若いケニーも、いずれはそんな闇に染まる時が訪れるのだろうか。あの天使のような天真爛漫さが失われるのは、ちょっと嫌だな。
 

 アキラ=ケネス・香月の清らかな美しい笑顔を思い出して、恵麻は心の中でため息をつく。



 彼女もまた、無垢な天使の笑顔に隠された、アキラの素顔には、まだ気付いていなかった。
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