上 下
20 / 51
第5章 手毬花の迷路

しおりを挟む
 六月に入り、すぐに梅雨入りした。例年より早い梅雨入りに、テレビの気象情報では、異常気象だと声高に叫んでいたが。
 陰鬱な空模様は、まるで今の美術部の面々を表しているようで、俊はひそかにため息をつく。

 もともと決してにぎやかな雰囲気であったわけではない。どちらかと言えば、黙々と作業することが主で、たまにおしゃべりする時も、皆でワイワイガヤガヤ、という風ではなく、話している誰かを皆で微笑ましく見守る、という程度だった。だから、外から見たら、大した変化はない、と感じるかもしれないが。

「というわけで、今年の文化祭も、美術部は二階の教室を二つ使用できます。交代で当番を決めるので、クラスや生徒会の役割がある人は、早めに教えてください」

 今日は、来月初めに行われる文化祭について文化祭実行委員会で取り決めた内容や、当日の予定について部長から伝達されている。

 部長――加奈から。

「一年生は何か分からないことがあったら、私でも他の上級生にでもいいから、遠慮せず訊いてね」
 加奈が笑顔で言うと、一年生の優茉や絵梨は「はい!」と元気よく返事をし、政宗も無言ながら、しっかりうなづく。
 いつも通りの、風景。朗らかに明るく、はきはきとした、加奈。

 、の。

 それが、逆に痛々しい。

 美術部に翳りが差したのは、ここ半月……厳密には、五月の土曜日授業のあと。

 あの忌まわしい出来事から、だった。

 英人によく似たアキラに加奈が拉致され、あわやその身を汚される、という、すんでのところで加奈は英人の手に取り戻された。衣類は裂けていたが、その身には、大きな傷はなく、俊は安堵したが。

 けれど、加奈の心は、そうではなかった。

 事情を知る部員は、顔には出さないように注意しながら、加奈を見守ることしかできない。真実から「今は静かに自分と向き合っている時だから、そうっとしておいて」と厳命されている。

 実務対処能力に優れた加奈は、美術部の役割の他、生徒会でも保健委員会の副委員長をしている。他の生徒会役員に比べればそこまで多くの責務はないからと押し付けられた形だが、なんにでも一生懸命な加奈が手を抜くわけはない。

「任せればできちゃうから、みんな加奈にやらせたがるし、加奈も嫌がらず引き受けちゃうから。ホント、損な性分よね」と真実も言っていたし、俊もそう思う。今までは、そんな加奈をただ感心して見ていただけだったが。

 あんなことがあっても、加奈は変わらず、明るく振舞っている。むしろ、いつもより忙しく動き回り、声をかけ、笑顔で。



「いっそ、何が起きたか忘れてしまっているなら、いいんですけどね」
「忘れては、いないんだよね?」
 帰宅時。雨の中、俊は回り道をして、美矢を自宅まで送る。電車通学の俊が駅と逆方向の美矢と一緒に帰宅するには、この方法しかない。
 たまに和矢が一緒に帰ることもあるが、今日は斎と約束があるからと別行動だ。まあ、和矢が俊に気をつかっての言い訳という感じもするが。

 俊の問いかけに、美矢はうなづき「時々、真実先輩には話しているみたいです」と答える。

「私、今でも思い出すんです。あの人……スガヤが、加奈先輩の手を押さえつけて……あの目が、怖い。それに……」

 ブルっと美矢が身を震わせる。その肩に手を差し伸べたくて、けれど俊は躊躇する。
 それぞれが傘を差しているので、二人はいつもより離れて歩いている。その距離が、今はありがたい。先日、同じような会話をした時に、思わず美矢の肩に触れたら、悲鳴を上げられてしまった。美矢は気が付いて、すぐに謝ってくれたが。

 加奈の身に起きたことを、美矢は自分の体験としてとらえている。想像して、という意味ではない。リアルタイムに、美矢は加奈の体験を、自分の身で感じ取った。

 どうやら加奈と美矢には、シンクロしやすい何かがある、とあの出来事の後聞かされた。美矢だけでなく、それは俊との間にも起きていたらしい。

 1年前の俊の暴行事件の時、加奈は俊の危機を感じ取って、意識を失っていたという。その時、加奈から聞こえた言葉で、美矢はそれを知った。他の誰にも話していないし、加奈自身も覚えていない様子だという。

 今回は、その時以上に、明確に加奈と美矢は同調シンクロした。加奈の目と体を通して、美矢は何が起きたのか、知ることができた。その、心の痛みさえも。

 何でもないように振舞っているが、それが表向きのことであることを、美矢は知っている。そして、今や加奈の一番の親友となった真実は、加奈の微妙な変化を感じ取り、今はひたすら加奈をガードしている。

 クラスは違うが、同じ文系選択で授業がかぶるため、実際はクラスメートの俊よりも一緒にいる時間が長い。その上、昼休みはもちろん、保健委員の当番や文化祭実行員会にもむりやりついて行って(本来は副部長の斎の役割なのだが)、加奈を決して一人にはしない。

 帰宅時もわざわざ加奈の家まで送り届けている。真実と加奈は降りる駅は違うが方向は一緒なので、それほど負担ではないと本人は言うが。むしろ周りが(主に健太と斎が)心配して、加奈を送り届けた真実を迎えにいく、という状況になっている。

 例外として、どうしても真実が一緒にいられないクラス活動では、俊が周りににらみを利かせるように言われている。ここまで真実が気を張って加奈をガードする理由が、俊にも痛いほど分かるので、クラス内では俊も目を配らせている。

「……あの人が、アキラが、英人さんでないのは分かるんです。別人だって。でも……怖いんです。スガヤとは別の……あの、冷たい目が。まるで、モノのように、ただ、傷つけることだけの目的で、私を……加奈先輩を見下ろしていた、あの顔が。英人さんじゃないのに……」

 その恐怖は、英人だけでなく、男性全般に感じている。
 あれほど親しく言葉を交わしていた美術部の男子とも、真実は近しく接触させない。加奈は普通に振舞っているが、極度の緊張に襲われているという。

 そしてそれは、美矢も同様なのだ。俊とも、こうして一緒に歩いてくれているが、時折怯える様子がある。その心の傷を痛ましいと思う一方で、かすかな苛立ちも感じる。相反する心の波立ちを何とか抑え込もうすればするほど、俊は自己嫌悪に悩まされる。

「英人も……ツラいだろうな」
 英人は今、加奈と直接会うのを控えている。一番加奈についていたいだろうに。

 英人の顔を見ると、加奈はさすがに落ち着きがなくなるらしい。電話やメールは大丈夫だし、顔を見て悲鳴を上げるまではいかないが、明らかに顔色が変わる。

 加奈を送り届けた真実を迎え行く健太に、必ずと言っていいほど、英人は同行している。会いはしないが、せめて遠くからでも見守ろうとする英人の思いも、また俊の心を痛める。

「……そうかもしれませんが。でも、元は言えば、英人さんが……『シバ』が、原因なんだもの」
「それは、そうだけど。でも、アキラが言ったような事実は、英人にはないんだよ?」
「先輩が、それを信じるのは構いません。私も、さすがにそれはないと思います。加奈先輩をあんなに大事にしてる英人さんが、他の女性に、何かしたなんて、でも」

「スガヤを、あんな風にしたのは、俺なんだよ」
「先輩?」

「はっきりとは覚えていない。でも、思い出せることがある。一年前のあの夜、最後に見たのは、スガヤの、引きつった顔。恐怖に満ちた……あの破壊された壁の内側で、同じ顔をしたスガヤがいた。スガヤの心を壊した原因が『シバ』なら、直接手を下したのは、俺だ」

「違います! 先輩は、ただ、傷つけられていただけで!」
「何が起きたのか、俺にも分からないけど。でも、俺が、何かを……」

 突然、美矢が傘を放り出して、俊の胸に縋りつく。
 いきなりの行動に、俊は硬直する、が。

「……先輩は、悪くないです。だから、私も、こうして触っても、平気です」

 言葉とは裏腹に、美矢は震えている。うつむいていて、くぐもっているが、必死なその声も震えているのが分かる。

「だから、そんなこと、言わないでください……」

 俊の胸にしがみついて震えるその肩を抱きしめたい。
 美矢の肩に手を伸ばし、けれど俊は動きを止める。

「遠野さん……肩に、触っていい?」
 しばらくの沈黙のあと、美矢は小さくうなづいた。

 恐る恐る、俊は美矢の肩に左手をまわし、腕全体で美矢の身体を包み込む。
 一瞬びくりと震えたが、そのまま美矢は俊に抱きしめられていた。

「……ほら、平気ですよ」
 くぐもった声が、少し湿っているような気がした。

「うん、ありがとう」
 怯えながらも、こうして俊に寄りってくれる美矢の思いが、胸を打つ。
 
 目の前の空のように、いまだ晴れない加奈の心にも、いつか日差しが戻る日がくるといい。

 ……アイツの、心にも。

 英人ではない、もう一人の気がかり。


『何で、兄さん』
『お前が』

 憎しみに満ちた、政宗の声。


 美矢の身体を抱きしめながら、俊はあの夜のことを思い出していた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

親戚のおじさんに犯された!嫌がる私の姿を見ながら胸を揉み・・・

マッキーの世界
大衆娯楽
親戚のおじさんの家に住み、大学に通うことになった。 「おじさん、卒業するまで、どうぞよろしくお願いします」 「ああ、たっぷりとかわいがってあげるよ・・・」 「・・・?は、はい」 いやらしく私の目を見ながらニヤつく・・・ その夜。

英雄になった夫が妻子と帰還するそうです

白野佑奈
恋愛
初夜もなく戦場へ向かった夫。それから5年。 愛する彼の為に必死に留守を守ってきたけれど、戦場で『英雄』になった彼には、すでに妻子がいて、王命により離婚することに。 好きだからこそ王命に従うしかない。大人しく離縁して、実家の領地で暮らすことになったのに。 今、目の前にいる人は誰なのだろう? ヤンデレ激愛系ヒーローと、周囲に翻弄される流され系ヒロインです。 珍しくもちょっとだけ切ない系を目指してみました(恥) ざまぁが少々キツイので、※がついています。苦手な方はご注意下さい。

体育教師に目を付けられ、理不尽な体罰を受ける女の子

恩知らずなわんこ
現代文学
入学したばかりの女の子が体育の先生から理不尽な体罰をされてしまうお話です。

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

ロリっ子がおじさんに種付けされる話

オニオン太郎
大衆娯楽
なろうにも投稿した奴です

女の子にされちゃう!?「……男の子やめる?」彼女は優しく撫でた。

広田こお
恋愛
少子解消のため日本は一夫多妻制に。が、若い女性が足りない……。独身男は女性化だ! 待て?僕、結婚相手いないけど、女の子にさせられてしまうの? 「安心して、いい夫なら離婚しないで、あ・げ・る。女の子になるのはイヤでしょ?」 国の決めた結婚相手となんとか結婚して女性化はなんとか免れた。どうなる僕の結婚生活。

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

処理中です...