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第4章 急襲の五月闇

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 夕暮れにはまだ早い、昼下がり。
 雨雲が立ち込め、すでに薄暗い中、珠美は加奈を追った。

 今日はこのまま、美矢を見守りつつ巽と俊に合流する心づもりだった。加奈の身辺に不穏な影が見え隠れするものの、最優先は遠野兄妹の安全。なので、英人をうまく使って、とにかく一人にしないよう考えていたのに。
 斎が適当な時間に英人を呼び出して、そのまま俊と巽に英人を合流させるはずだったが、道向こうに英人が一人でいる姿を見て、何か行き違いが起きたことは分かった。

 ただ、加奈を一人にしない、という目的が達せられれば大きな問題はない、はずだった。

 もちろん、加奈の周辺には遠見が護衛についている。最低限屋外では加奈の身に危険が迫った場合も対応できる。けれど、珠美の勘が、尋常ならざる事態が起きていることを知らせた。ゆえに、美矢が俊に連絡を取って、英人がその場にいることを聞いた時、珠美は即時に動いた。
 
 英人が予定通り斎達に合流しているのであれば、あの「英人」は?!

 ――あの男!

 加奈に近付き誘惑しようとした、英人の大学の留学生。
 晃=ケネス・香月。イギリスのアイシス工科大学から短期留学してきたという。その名が示す通り、日本人の血を引いてはいるが、初めての来日だという。その容姿が英人に酷似していることも驚きだが、さらに驚いたのは。

(いくら欧米人は大人っぽく見えるとはいえ、十七歳ってのは、詐欺なんじゃないの!?)

 正確には今年で十八歳になるそうなので、学年に当てはめれば加奈達と同じ年になる。
その若さで、すでに大学を卒業し、大学院に進み、修士課程を終え、帰国すれば博士課程に進むのだという。飛び級、という海外の教育制度は知っているし、制度を適用していないだけで、実際は和矢も斎も、すでに高校卒業程度の学習を自己で終えているのを考えれば、決して特別なことではないのだろう。

 晃=ケネス・香月は、単なる留学生というよりも、講師招聘に近い形で、今は理工学部のある研究室に所属している。研究が中心の大学院で、比較的緩やかなスケジュールで留学生活を送っている……そう、報告を受けている。

(普段はほとんど大学の寮か研究室にこもっているって報告だったのに。出歩いていたなんて聞いていないけど!)

 先月、加奈達に接触した以降は目立った動きもなく、大学内で英人に関わっている様子もなかった。騒動が起きた当初はともかく、英人と違って絶えず監視がついているわけではない。そこまでの緊急性はない、という判断がされた。

(あの二人に近付かなければ放置、ということだったし)

 加奈にも、外出時は遠見が護衛についている。たとえ、晃=ケネスが何かを企んでいたとしても、未然に防ぐことは可能な、はず。

 けれど。

(……珠美、さま)
 加奈を追って入り込んだ路地裏で、声が届く。
(まかれたのか!?)
(申し訳ございません……三上加奈が、拉致されました。車種や逃走方向は確認しました。今、つなぎを送っています)
(顔は?)
(井川英人に酷似させておりました。我が目を疑うほどに)

(珠美)
 大通りから巽の声が聞こえた。

(ここよ)
(状況は聞いた。兄さんの予測だと、おそらく大学構内に向かっている。面倒だな)
(開放された密室、ってことね)
(ああ。構内に入られる前に身柄を押さえたいが。どうも妙なんだ)
(妙?)
(ああ。……お前も早く、治療に向かえ)
 巽は加奈を護衛していた遠見にむかって声をかける。
(失礼いたします)
 気配で、遠見が立ち去ったのが分かった。その他にも複数の気配がする。巽が連れてきた救護係のものだろう。

(目をやられたらしいな。機器なのか薬剤なのかまだ分からないが)
(工学の研究室にいるみたいだし、何か特殊なライトでも?)
(それは、おいおい判明するだろう。それよりも、伝手が分からない)
(今回の機動力の、ってこと?)
(ああ。晃=ケネスは、監視ポイントをすべて見事にすり抜けている。個人的には車も持っていない。運転免許はあるようだが)
(十七歳なのに? ああ、海外は取得できるのね)
(日本国内では許可されていないけどね。だから、今回も、幇助した者がいるはずだ。その存在が浮かんでこない)
(唐沢の情報網を潜り抜けるだなんて)

 もちろん、全ての情報を把握できるわけではない。日常生活レベルの些末事ほど取りこぼしが大きい。逆に、公的な出来事は裏も含めて把握しやすい。そういう意味で大学という公的機関の中の情報は取得しやすい。

(……美矢様と高天先輩が合流した。英人も一緒だ。どうする?)
(目的地が大学というなら、行くべきでしょう? もし、加奈先輩に何かあったら、英人がどんなふうに暴走するか分からないわ)
(そのとおりだな。こんな時に健太が不在なのは痛いな)
(仕事が順調なのも困りものね。しばらく地元以外の仕事は断ってもらいたいわ)
(そう言うなよ。どうせ斎兄さんが呼びつけて慌てて戻ってくるだろうけど)

 大通りに出ると、一台の乗用車が滑り込んできて停車する。
 巽と珠美は躊躇なく乗り込んだ。唐沢家で手配した車である。巽や珠美の体力であれば大学まで徒歩でも移動は可能だが、余力は残すべきだ。現代文明の利器は十分活用する。

 ……加奈先輩、どうか無事で。

 ただ英人の恋人というだけで苦難に巻き込まれてばかりの少女を思い浮かべ、珠美は祈った。今回の出来事も、英人に起因している気がしてならない。あの美貌の疫病神は、本人の意図しないところで騒動を引き寄せる。

 いっそ引き離した方がいいくらいだけど、反動が怖すぎるわ……。
 
 何よりも、加奈自身が、英人を深く愛している。自分の身に起きる不幸など気にも留めず、英人に添い遂げるだろう。

 
 ああ、どうか、加奈先輩を守って!



 誰にとも分からず、珠美は祈り続けた。
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