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第二章 白神桂
ドッペルゲンガー
しおりを挟む道の先には、一人の人間が立っているのが見えました。
その人はぼんやりと霧のかかる向こう側から、じっとこちらを見つめています。
もしや桜さんではないかと、私は足を踏み出してその人に近付きました。
ですが、やっと顔が見える位置まで来たところで、私は自分の間違いに気付きました。
道の先で待っていたのは男性でした。
痩せた身体に着流しを纏い、羽織を肩から掛けています。
「……!」
その顔は、見間違えるはずがありません。
怪しい微笑を浮かべたその顔は、紛れもなく、私自身のものでした。
驚きのあまり、私はぽかんと口を開けたまま放心していました。
まるで鏡を見ているかのようでした。
俗に言うドッペルゲンガーでしょう。
私がこの現象を体験するのは生まれて初めてのことでした。
「危ないッ!!」
と、そのとき。
誰かの叫び声が聞こえたかと思うと、私は胸の辺りに衝撃を受け、そのまま視界がぐるりと後ろへ回転しました。
直後。
いつのまにか迫っていた電車の側面が、私の視界を埋め尽くし、そして一瞬にして通り過ぎて行きました。
「っ……」
背中を強く打ち付けて、私は仰向けに倒れました。
「何ボーッとしてんのよ、このバカ!」
降りしきる雨の音に紛れて、聞き慣れた声がしました。
ハッとして見ると、すぐ目の前に、私の求めて止まなかった少女の顔がありました。
ほんのりと化粧を施した、まだ幼さの残る顔。
片方だけ結った明るい髪は雨に濡れて、桃色の頬に張り付いています。
その表情は今にも泣き出してしまいそうな、悲痛な色を浮かべていました。
「家でおとなしくしてろって言ったでしょ!? なんでっ……なんでこんな危ない所に突っ立ってんのよ! あんた、もう少しで死ぬところだったのよ! わかってんの!?」
私を押し倒すような形で、桜さんは私を見下ろしていました。
そのすぐ隣では、電車の接近音を鳴らし終えた踏切が、安全バーを畳むところでした。
どうやら、私はいつのまにか線路内に立ち入っていたようでした。
そうして電車に轢かれそうになったところを、桜さんが助けてくれたのです。
「ほんとに……何やってんのよ。あんたまでいなくなったら、あたし……っ」
そこで彼女の声は途切れました。
くしゃりと歪められた目尻から、幾筋もの水滴が流れ落ちていきます。
雨か、涙か、その判別は付きませんでした。
「……私がいなくなると、あなたは悲しいのですか?」
私が恐る恐る聞くと、彼女は「当たり前でしょ!」と怒ったような声を上げました。
「あたしの家族は、あんたしかいないんだから……!」
その訴えに、私は申し訳ない気持ちになりました。
「ごめんなさい、桜さん。でも……今日は、十月二十九日です。祟りによって、私かあなたか、どちらかが死んでしまうのです。私はあなた無しでは生きていけませんから……私が死んで、あなたが生きるのが最善の──」
「ふざけたこと言ってんじゃないわよ!」
今度こそ本気で怒ったらしく、彼女は顔を真っ赤にして怒鳴りました。
「なんであんたは、そんなにも後ろ向きなのよ! あんたには、二人一緒に生き延びるって選択肢はないの!?」
その発言に、私は水を浴びせられたような感じがしました。
「一緒に、生きる?」
もはや死ぬことしか頭になかった私は、二人同時に生き延びるという欲張りな選択肢など考えもしませんでした。
「そんな……そんな虫のいい話が、まかり通るはずはありません。私の家族は皆、祟りに遭って命を落としたのですから」
「だから、あんたも死ぬって言うの? まだ生きられるかもしれないのに、それを否定するの?」
まだ生きられるかもしれない──そんな期待が私の冷え切った心に侵食し始め、私は堪らず耳を塞ぎました。
「やめてください。そんなことを言われると、私は」
叶わぬ夢だとわかっているのに、
「まだ生きていたいと……思ってしまうじゃないですか」
忘れかけていた感情が舞い戻るのを、私は怖れました。
この期に及んで、まだ死にたくないなどと。
希望を抱けばその分だけ、後で裏切られて辛い思いをするのです。
きっと、後悔することになるのです。
わかっているのに。
それでも私は。
本当は──。
生きていたい。
できるならこれから先も、桜さんとともに生きていたいと思ったのです。
★
家に帰り着いたとき、雨はまだ降り続いていました。
空は夕暮れ時のように暗く、時間の感覚を狂わせます。
「身体が冷えているでしょう。今、お風呂を沸かしますね」
そう言って風呂場に向かおうとした私を、桜さんが玄関の方から呼び止めました。
「待って。そっちの方、何かヘンな音がしない?」
「音?」
私は暗い廊下の途中で立ち止まりました。
左右に並ぶ襖は全て閉め切られています。
その場で耳を澄ませてみると、遠くで雷の唸る声が聞こえました。
「遠雷でしょう。怖がることはありませんよ」
そう言って私が振り返ったとき。
桜さんの姿を映し出そうとした視界が、唐突にやってきた『あるもの』によって遮られました。
「――……!」
その『あるもの』は、右側の襖を突き破って、私の目の前に静止しました。
刀でした。
恐ろしい切れ味を持った刃が、襖から垂直に生えています。
少しでも位置がずれていれば、私の脳は真一文字に貫かれていたことでしょう。
その事実を理解したとき、私は凍りつきました。
足は動きませんでした。
「おかえり、桂」
襖の向こう側から、幼い声が聞こえました。
刀は向こう側へと引き抜かれ、やがてゆっくりと襖が開きました。
白い少女が、そこに立っていました。
金髪碧眼の幼子。
触れれば折れてしまいそうなその華奢な手には、かつて祖父を殺した日本刀が握られています。
「さっきはごめんね。今度は、ちゃんと殺してあげるからね」
ハーベストはそう言って、音もなく、ふわりとその場に浮き上がりました。
そうして刀の切っ先がちょうど私の首の辺りまで持ち上がると、そこで止まりました。
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