上 下
47 / 50
第3章

思い出

しおりを挟む

       ◯



 気がつくと、すぐ目の前に桜の木があった。
 視界の全てを桃色で覆い尽くすほどの、一本の大きな木。

 その圧倒的なまでに咲き誇る花たちを、羽丘は一人ぼんやりと見上げていた。

 一体いつからそうしていたのかわからない。
 緩やかに吹く風が頬を撫でる度、花びらは音もなく頭上から舞い降りてくる。

(私、さっきまで何をしてたんだっけ?)

 何も思い出せない。

 ほんの一瞬前までの記憶がない。

 けれど、不思議と不安はなかった。
 むしろ、心はこれ以上にないくらいにいでいた。

 こんなにも心穏やかな日には、ついあの歌を歌いたくなってしまう。

 レミー・バトラーの『マザー』。
 両親がよく聴いていた、洋楽のバラード。
 母が子を思う愛情を綴った歌詞と、子守唄のような優しげなメロディ。

 この歌を歌っている時間が、羽丘は何よりも好きだった。

 一度深呼吸してから歌い始めてみると、声の調子は想像以上に良かった。
 こんなにも気持ち良く声を出せたのは、なんだかとても久しぶりのような気がする。

「雲雀は本当に歌が上手ね」

 と、不意に後ろから声を掛けられて、羽丘はハッとした。

 いつのまにか、背後に人がいたらしい。

 顔を見なくてもわかる。
 この声は──、

「お母さん、お父さん!」

 すぐ後ろに、両親がいる。
 そう思って、羽丘は笑顔で振り返った。

 しかし、

「……あれっ?」

 振り返った先には誰もいなかった。
 不思議に思って辺りを見渡してみても、人らしきものは見当たらない。

 と、今度はまたどこからか別の声が聞こえた。

「綺麗な声だね。小鳥がさえずってるみたい」

 落ち着いた、少年の声。

 それを耳にした瞬間、羽丘は思わず胸を高鳴らせた。

「……翔くん!」

 その名を噛み締めながら、今度こそ期待を膨らませて、羽丘は後ろを振り返った。

 しかし、視線の先には誰もおらず、ただ桜の花びらがはらはらと落ちてくるだけだった。

「翔くん……?」

 まるで狐につままれたようだった。

 皆、一体どこへ行ってしまったのだろう?

「ひばりちゃん! あーそーぼっ」

 と、今度はやけに幼く甲高い声が届いた。

 反射的に、「うげっ」と唸りそうになった。
 また面倒なのが来た、と思った。

 けれど、どうせ振り返ったところで誰もいないのだろうと、恐る恐る後ろを確認してみると。

 そこには幼稚園児くらいの小さな女の子が一人、にこにこと満面の笑みを浮かべて立っていた。
 まごうことなき、幼い頃の飛鳥だった。

「って、なんであなたはここにいるのよ!」

 思わずツッコんでいた。

 当の飛鳥はマイペースにえへへ、と笑って小首を傾げている。

「……ほんとに、なんでよりにもよって、飛鳥だけがここにいるのよ。今までも散々、私の邪魔ばっかりしてきたくせに」

 神様のイタズラか、と羽丘は頭を抱えた。

 今までの人生を振り返ってみても、飛鳥はどんな場面にも無遠慮に足を突っ込んでくる。

「でも、まあ……そうよね。私なんかに何年も付き纏うような物好きは、あなたぐらいだものね」

 小さく溜息を吐きながらも、羽丘はその場にしゃがんで、飛鳥の目線に自分のそれを合わせた。

 思えば彼女との思い出も、全部が全部悪いものだったわけじゃない。
 特に、去年まで一緒に二人でやっていたネット配信は、それなりに楽しめていたような気がする。

 それに、飛鳥がよく泣いているのを慰めた後、幸せそうな顔で「大好き」と言ってくれるのは、あまり悪い気はしなかった。

「いいわ、少しだけなら相手してあげる。何して遊びたいの?」

 羽丘がそう折れると、飛鳥は嬉しそうに、ぱあっと顔を輝かせた。

「あのね! あすかね、これからもずっと、ずーっとひばりちゃんといっしょに……──」

 そこで急激に、意識が遠くなった。

(あれ?)

 目の前が真っ暗になって、飛鳥の姿が見えなくなる。
 声も聞こえない。

 なんだかふわふわとする。
 まるで水の中にいるような心地だった。

 やがて暗闇の中で、何も聞こえないはずなのに、誰かが自分を呼んでいるような気がした。

 それに導かれるようにして、ゆるゆるとまぶたを上げてみると、白い照明の光に包まれた視界に、見覚えのある天井が映った。
 真っ白で清潔感のあるそれは、病室の天井で間違いなかった。

 この場所を、羽丘は知っている。
 けれど、なぜ病院のベッドなんかで自分は横になっているのだろう?

 考えているうちに、そこへさらに一人の少女の顔が視界に飛び込んできた。

 飛鳥だった。

 先ほどの幼い姿とは打って変わって、ずいぶんと背が伸びている。
 いつのまにかこちらの背丈も追い抜いてしまったその身体は、今や誰もが羨むようなモデル体型だった。

 にも関わらず、その中身は相変わらずの泣き虫だ。
 現に今もこうして、ぼろぼろと大粒の涙を零しながら、必死でこちらに何かを訴えている。

(また怪我でもしたのかしら)

 見ると、彼女の鼻の頭には新しい擦り傷が出来ていた。
 きっとまた何もない所で躓いて転んだりでもしたのだろう。

 仕方ないなあ、と羽丘は彼女に手を伸ばそうとした。
 しかし、右手は飛鳥の両手でがっちりと掴まれていて動かない。

 代わりに、残った左手を伸ばす。
 思ったより腕が重い。
 まるで重石おもしでも付いているかのようだった。

 指先を震わせながらも、なんとか飛鳥の頭の上へ、ぽん、と手のひらを乗せられたと思った瞬間。

 また、意識が遠くなった。
 これは、深い眠りに落ちるときの感覚だ。

 飛鳥は泣き止まない。
 いつもならこうすればすぐに泣き止んで、明るい笑顔で「大好き」と言ってくれるのに。

 今はなぜか、彼女はどこか驚いたような顔をして、ただ溢れ出る涙を流し続けるだけだった。





       ◯





「……雲雀……ちゃん」

 今しがた頭を撫でてくれていた羽丘の左手を、飛鳥は強く、両手で握りしめた。

 その手はすでに冷たくなっており、瞳を閉じたまま動かない羽丘は、もう二度と返事をすることはない。

「なんで……最後にそんなことするの……?」

 弱々しく呟いた飛鳥の声と、嗚咽を掻き消すように、心電図のモニターが平坦な連続音を発していた。
 無機質に鳴り響くその音が、耐え難い現実を突きつけてくる。

 やがてその場に駆けつけた医者が一通りの確認を終えた後。


 この日、午後一時をもって、羽丘雲雀の臨終が告げられた。

 
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

神楽囃子の夜

紫音@キャラ文芸大賞参加中!
ライト文芸
※第6回ライト文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。 【あらすじ】  地元の夏祭りを訪れていた少年・狭野笙悟(さのしょうご)は、そこで見かけた幽霊の少女に一目惚れしてしまう。彼女が現れるのは年に一度、祭りの夜だけであり、その姿を見ることができるのは狭野ただ一人だけだった。  年を重ねるごとに想いを募らせていく狭野は、やがて彼女に秘められた意外な真実にたどり着く……。  四人の男女の半生を描く、時を越えた現代ファンタジー。  

あやかし警察おとり捜査課

紫音@キャラ文芸大賞参加中!
キャラ文芸
※第7回キャラ文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。 【あらすじ】  二十三歳にして童顔・低身長で小中学生に見間違われる青年・栗丘みつきは、出世の見込みのない落ちこぼれ警察官。  しかしその小さな身に秘められた身体能力と、この世ならざるもの(=あやかし)を認知する霊視能力を買われた彼は、あやかし退治を主とする部署・特例災害対策室に任命され、あやかしを誘き寄せるための囮捜査に挑む。  反りが合わない年下エリートの相棒と、狐面を被った怪しい上司と共に繰り広げる退魔ファンタジー。  

僕《わたし》は誰でしょう

紫音@キャラ文芸大賞参加中!
青春
※第7回ライト文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。 【あらすじ】  交通事故の後遺症で記憶喪失になってしまった女子高生・比良坂すずは、自分が女であることに違和感を抱く。 「自分はもともと男ではなかったか?」  事故後から男性寄りの思考になり、周囲とのギャップに悩む彼女は、次第に身に覚えのないはずの記憶を思い出し始める。まるで別人のものとしか思えないその記憶は、一体どこから来たのだろうか。  見知らぬ思い出をめぐる青春SF。 ※表紙イラスト=ミカスケ様

あばらやカフェの魔法使い

紫音@キャラ文芸大賞参加中!
キャラ文芸
ある雨の日、幼馴染とケンカをした女子高生・絵馬(えま)は、ひとり泣いていたところを美しい青年に助けられる。暗い森の奥でボロボロのカフェを営んでいるという彼の正体は、実は魔法使いだった。彼の魔法と優しさに助けられ、少しずつ元気を取り戻していく絵馬。しかし、魔法の力を使うには代償が必要で……?ほんのり切ない現代ファンタジー。

黒地蔵

紫音@キャラ文芸大賞参加中!
児童書・童話
友人と肝試しにやってきた中学一年生の少女・ましろは、誤って転倒した際に頭を打ち、人知れず幽体離脱してしまう。元に戻る方法もわからず孤独に怯える彼女のもとへ、たったひとり救いの手を差し伸べたのは、自らを『黒地蔵』と名乗る不思議な少年だった。黒地蔵というのは地元で有名な『呪いの地蔵』なのだが、果たしてこの少年を信じても良いのだろうか……。目には見えない真実をめぐる現代ファンタジー。 ※表紙イラスト=ミカスケ様

白雪姫症候群~スノーホワイト・シンドローム~

紫音@キャラ文芸大賞参加中!
恋愛
 幼馴染に失恋した傷心の男子高校生・旭(あさひ)の前に、謎の美少女が現れる。内気なその少女は恥ずかしがりながらも、いきなり「キスをしてほしい」などと言って旭に迫る。彼女は『白雪姫症候群(スノーホワイト・シンドローム)』という都市伝説的な病に侵されており、数時間ごとに異性とキスをしなければ高熱を出して倒れてしまうのだった。

日本語しか話せないけどオーストラリアへ留学します!

紫音@キャラ文芸大賞参加中!
ライト文芸
「留学とか一度はしてみたいよねー」なんて冗談で言ったのが運の尽き。あれよあれよと言う間に本当に留学することになってしまった女子大生・美咲(みさき)は、英語が大の苦手。不本意のままオーストラリアへ行くことになってしまった彼女は、言葉の通じないイケメン外国人に絡まれて……? 恋も言語も勉強あるのみ!異文化交流ラブコメディ。

処理中です...