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第3章
母として
しおりを挟む「こういう時、母親なら支えてあげるべきでしょう? 翔が落ち込んでるの、わかってるのに……」
羽丘のことで何か力になれることはないかと、彼女なりに色々と考えていたらしい。
しかし結局は何も見つけられなかったことを申し訳なく思っているのだ。
「別に謝るようなことじゃないでしょ。親だから支えるべきだとか、そんな決まりなんてないし……」
「私がそうしてあげたかったのよ」
いつになく食い気味で鳴子が言う。
その勢いに、わずかに烏丸が目を丸くさせたのを見て、彼女はハッと口元に手を当て、失言をしてしまったというような顔をした。
「……ごめんなさい。やっぱりだめね、私。あなたに母親らしいこと、何もしてあげられてない」
母親、母親と、何度も同じ単語を口にされると、段々とそれが何なのかわからなくなってくる。
母親とは果たして、技能がなければ認められないような、難しい資格か何かだっただろうか。
「……重いよ、そんなの」
わざわざ自分自身に枷を嵌めるような真似なんてしなくていいのに。
「……ごめんね」
そう言って疲れたように笑う彼女の顔が、烏丸は苦手だった。
どうせ笑うなら、もっと明るく笑えばいいのに──そう思いつつも、実際にそんな顔をさせているのは他でもない自分であることを、烏丸は自覚していた。
この家に引き取られることが決まった当初から、烏丸は鳴子とその夫に対して懐疑的だった。
なぜ自分のような何の繋がりもない、天涯孤独の人間を引き取るのか。
どうせ偽善か独善か、ロクでもない理由なのだろうと、そんなことばかり考えていた。
彼らには子どもがいない。
加えて夫は単身赴任で家を離れることが多く、必然的に鳴子は一人でいる時間が多くなる。
その孤独を埋めたいがためだけに養子を取ったのではないかと、烏丸は邪推していた。
しかし今、彼女は必死で母親になろうとしている。
ただのお飾りではない、中身を伴った本物の母親に。
(母親って、一体何なんだろうな……)
烏丸は実の母のことを何も知らない。
生まれた時に確かに見たであろうその顔も、全く覚えていない。
だから、母親というものが一体どんなものであるのかなんて、想像することすら難しかった。
ただ、過去に一度だけ、身近に本物の『母親』という存在を感じたことがある。
まだ児童養護施設にいた頃に見た、鷹取の母親のことだ。
──明日になったら、母さんに会えるんだ。昼ごろに迎えにきてくれるんだって。
そう嬉しそうに言っていた、五年前の鷹取の顔を思い出す。
あの時はまだ小学五年生だった彼は、いずれ自分を引き取りに来るであろう母の姿を心待ちにしていた。
けれど、待てど暮らせど、その母は鷹取の前に現れなかった。
急用ができて予定が合わなかったのか、はたまた本人が引き取るのを躊躇ったのかはわからない。
──大人って、みんな平気でウソをつくんだぜ。
再会の日が延期される度に、鷹取の言動は腐っていった。
母も、その周りの人間も、みんな聞こえの良いことばかり言って、こちらを納得させようとする。
それが一層、鷹取の心を苛立たせた。
日に日に険しい顔つきになっていく彼を見て、烏丸は彼が母親のことを嫌いになったのだと思った。
いつまで経っても迎えに来ない母親のことなんて、待つだけ無駄だとさえ思っていた。
けれど、それから数日経ったある日のこと。
施設のグラウンドから見える外の景色を見て、鷹取は叫んだ。
──お母さん!
グラウンドで遊んでいた子どもたち全員が、一斉に目を向けるほどの大きな声だった。
鷹取のいつになく熱い視線の先には、一人の女性の姿があった。
こちらに背を向けて、施設の前にある道をまっすぐに歩き去っていく。
声は届いているはずなのに、足を止めることも、後ろを振り返ろうとする素振りもない。
それこそが鷹取の母だった。
たまたまそこを通りがかったのか、何か目的があってその場所へ近づいたのかはわからない。
ただ何も語ろうとしない背中だけがそこにあり、鷹取はそれに縋るように走り出した。
勢いのあまり転びそうになりながら、敷地を囲むフェンスに半ば激突するようにしてたどり着く。
そうして行手を阻む金網を両手で握り締めながら、またしても叫んだ。
──お母さん! お母さん!
喉が破れるのではないかと思うほどの、悲痛な叫びだった。
あんなにも必死になる鷹取の姿を見たのは、後にも先にもその時だけだった。
彼にとって、母親という存在がどれほどの意味を持っているのかはわからない。
だが、あのとき確かに、烏丸は『母親』という存在の大きさを目の当たりにした。
たとえ振り向いてはくれないとわかっていても、呼び止めたい。
手を伸ばしたい。
そんな存在こそが母親なのだろうかと、幼き日の烏丸は、鷹取の寂しげな背中を見て思った。
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