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第1章
口下手な僕ら
しおりを挟む間一髪。
こちらの力に引っ張られて、女性はがくんっ、と前のめりになって止まった。
その一瞬の後。
ものの一秒もしない内に、やってきた特急列車は彼女の鼻先数センチの所を通過した。
轟音がホームを駆け抜け、過ぎ去ると、すぐにまた元の静かな状態に戻る。
けれど、再び露わになった線路上には、あの美しい肉片はもうどこにも見当たらなかった。
きれいさっぱり、死体は消えている。
ということは、これで彼女の運命は変わったのだ。
僕が彼女を引き留めたことで、彼女の死は回避された。
それはつまり、僕の勝手な行動が、彼女の人生に影響を与えてしまったということだ。
「……どうして」
蚊の鳴くような小さな声で、彼女は言った。
「どうして止めたんですか」
声につられて、僕は改めて彼女を見下ろした。
それまで透明人間にしか見えなかった彼女の後姿は、いつのまにか、首と手足とが正常な位置に戻っていた。
先ほどまで線路上に転がっていたあの美しい右腕は、今は僕の手が掴んでいる。
小柄な彼女の頭は僕の胸の高さにあって、長い黒髪を持っていた。
「どうして……!」
責め立てるような声を上げながら、彼女は勢いよくこちらを振り返った。
その顔は、僕が思っていたよりも少しだけ幼かった。
大学生か、高校生か。
どちらとも取れるその顔は、大人びた子どものような、子どもっぽい大人のような、年齢不詳の雰囲気を醸し出していた。
平日のこの時間に私服でいるところを見ると、やはり大学生なのかもしれない。
白く美しい肌に、黒目がちでぱっちりとした瞳。
通った鼻筋に、控えめな口元。
長い黒髪は自然なストレートで、風が吹く度にさらりと音もなく揺れる。
思わず、可愛い、と口にしてしまいそうな麗しい容姿だった。
「どうして止めたんですかって、聞いているんです!」
再び彼女が声を上げたところで、僕はやっと我に返った。
「いや、その」
なぜ止めたのか、と聞かれて、僕は首を傾げた。
なぜ、止めたのだろう。
自分のことなのに、その答えがわからない。
「えっと……そのキーホルダー」
咄嗟に口にしたのは、例のキーホルダーだった。
「……これ、ですか?」
彼女は鞄にぶら下げていたキーホルダーを手に取った。
メダルのような、薄く丸い形をしたそれ。
表面にはオペラハウスの絵が描かれており、所々が剥げかかっている。
「それ、僕の母親も持ってたんだ。まったく同じものを」
そんな僕の返答を聞いて、彼女はきょとん、と目を丸くした。
「そんな理由で、私を止めたんですか?」
たぶん、びっくりしているのだろう。
正直、僕自身も驚いている。
まさかこの局面で、こんな珍回答をすることになるなんて。
「うん、まあ」
続けられる言葉はそれくらいしかなかった。
コミュニケーション能力の低さは前々から自覚していたものの、よもやここまでとは。
彼女――僕よりいくらか年下に見えるその少女は、暫く何かを考えてから、キッとこちらを睨んだかと思うと、次の瞬間には僕の腕を強めに振りほどいた。
そうして不機嫌そうに顔を背けてどこかへ立ち去ろうとする。
「怒ったの?」
火に油を注ぐ、とはこのことか。
デリカシーの欠片もない僕の言葉は、彼女の機嫌をさらに損ねたらしい。
「……わ、私っ!」
彼女は一度足を止めると、こちらを振り返らず、妙に引き攣った声で言った。
「私っ……これでも、覚悟を決めてきたんです。勇気を振り絞って、心を決めて……これでやっと終わらせられると思ったのに……。なのに、どうして、どうして……っ!」
切羽詰まったような、必死の叫びだった。
けれど、どこか言葉足らずな印象があった。
言いたいことはたくさんあるのに、的確な言葉が見つからなくて、感情だけが先走っているような。
「勇気って……。自殺するのに勇気が必要なの? それって、本当は死にたくないってことじゃない?」
僕はただ率直な意見を言ったつもりだったけれど、言ってしまってから、また後悔した。
まるで揚げ足取りのような僕の言葉に、彼女は今度こそこちらを振り返って僕を睨んだ。
やはり怒っているのだろう。
目尻にはほんのりと涙が滲んでいるが、その口元は悔しげにキュッと引き結ばれ、怒りの感情を露わにしている。
その仕草が妙に幼くて、僕は不覚にも可愛いと思ってしまった。
「し、失礼します!」
言い返す言葉が見つからなかったのか、彼女はそれだけ言って再び背を向けた。
そうして階段を降りていく彼女の背中を見送りながら、僕は胸の内で呟く。
きっと、彼女も僕と同じくらい口下手なんだろうな、と。
〇
どうして手を出してしまったのだろう――。
大学の正門へと続く道を歩きながら、僕はぼんやりと先ほどのことを思い出していた。
あのとき、自殺を図ろうとしていた女の子。
彼女は今日のために心の準備をして、やっとの思いで実行に移したのだ。
それを僕は妨害してしまった。
何の関係もない僕が。
彼女の事情も知らずに。
普段の僕なら、決してあんなことはしなかった。
もうじき死ぬことが確定している人間、特に自殺志願者は、僕のような第三者がいきなり介入してきたところでそう簡単に意思や行動を変えたりはしない。
おそらくはあの女の子も、これからまた別の場所、あるいは別の方法で自殺を図ろうとするだろう。
だから、僕が何をしようとしたところで結局は意味がないのだ。
むしろ彼女にとっては、僕のような存在は邪魔でしかない。
せっかく覚悟を決めていたのに、今回のように妨害されては、また改めて出直さなければならなくなる。
それがわかっているから、普段の僕なら決して関わろうとはしなかったのに。
「ちょっと、危ないでしょ!」
そこへ後方から、何か争っているような声が届いた。
振り返って見ると、僕と同じように道を歩いていた数人の女子グループが、横を通り過ぎたバイクに向かって文句を言っているのが目に入った。
バイクは明らかに一人乗り用のものだったが、乗っているのは二人組の若い男だった。
狭い道をジグザグに走行し、歩行者のすれすれの所を猛スピードで通過する。
危険運転、ここに極まれりだ。
この調子だと、近いうちにでも事故を起こすんだろうな、なんて考えていると、それを肯定するかのように、僕の目には彼らの未来が映った。
ヘルメットを被っていない彼らの頭は、大部分が損傷して血まみれになっている。
たぶん、致命傷だろう。
(ご愁傷様)
僕は胸の内で黙祷を捧げた。
今は楽しそうに笑っている彼らも、七日以内にはこの世を去ることになる。
僕の目には、七日以内に死ぬ人間の、死んだときの姿が視えるから。
「おい、そこ邪魔だぞ!」
バイクの男たちはそう言って、今度は僕の方へと接近してくる。
どけ、という意味だろう。
彼らはスピードを緩めず、明らかに僕の方へと車体を寄せてくる。
しかし僕がいくら避けようとしたところで、きっと彼らは僕の身体のすれすれの所を通過するのだろう。
だから、僕はあえて動かなかった。
「おいっ……!?」
僕が微動だにしないことに気づいて、運転手の男は慌ててハンドルを切った。
結果、彼らは急カーブをしながら僕の目の前を通り過ぎた。
去り際に、何か物言いたげにこちらを振り返っていたけれど、結局はそのまま走り去っていった。
あの様子だと、相当焦ったのだろう。
人を轢く度胸もないくせに、よくもあんな無茶な遊びができるものだ。
これで警鐘は鳴らした。
これに懲りて運転の仕方を改めるのなら、彼らも未来の事故死を免れるかもしれない。
けれど、もしもこのまま同じ行動を繰り返すつもりなら、そのときはきっと、彼らの人生は終わる。
「……ご愁傷様」
たぶん、彼らの運命は変わらないだろう。
小さくなるバイクの後ろ姿を見送って、僕は再び歩き出す。
これ以上僕に出来ることは何もない。
だから、関わらない。
今までもずっと続けてきたことだ。
相手が死ぬとわかっていても、何の責任も持てない僕は、中途半端に手を出すべきではない。
わかっていたはずだ。
なのに、どうして。
どうして、あの子のときは――。
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