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第1章
轢死体の君
しおりを挟む今日もまた、嫌なモノが視える。
駅のホームから見下ろすと、線路上には肉片が散らばっていた。
ピンク色の、やけに艶々とした美しい肉だった。
若い女性のものだろうか。
バラバラになった全身のうち、かろうじて原型を留めて転がっている右腕は白く、余計な脂肪の付いていない、肌理細やかで瑞々しいものだった。
この人間の死体が視えるようになってから、今日でちょうど一週間となる。
おそらく、視えているのは僕だけなのだろうけれど。
「二番線に、普通電車が参ります」
聞き慣れたアナウンスが流れ、線路の先からは電車がやってきた。
金属同士が擦れ合う轟音とともに、車両はホームへと入ってくる。
散らばった肉片には目もくれず、その上を何食わぬ顔で走行し、やがて停まる。
扉が開き、乗客が出入りを終えると、まるで何事もなかったかのようにまた出発する。
再び露わになった線路上には、先ほどと同じピンク色の肉片が散らばっていた。
電車が過ぎ去っても、何一つとして変わらない。
細い右腕だけが相変わらず美しく、原型を留めている。
死体は何も動かず、僕以外の人間からは認知もされず、異臭を放つこともない。
ということは、今ここに広がっている景色はやはり、僕の目だけに視えている幻なのだ。
だから、まだ死んでいない――と僕は確信した。
この美しい肉片は、今はまだ、ここに存在していない。
僕の目に映るこの惨状は、これからここで起こるはずの、近い未来の事故の景色なのだ。
おそらくは今日、ここで一人の女性が電車に撥ねられて、こんな風にバラバラになって死んでしまう。
事故か、自殺か、他殺か、原因はわからない。
けれど、その女性がここで死ぬことだけは確定している。
そう僕の第六感が告げている。
僕の目には、その人の屍が視える。
「…………」
ちらりと頭上の時計を確認すると、目的の快速電車が到着するまで、あと五分ほど時間があった。
吹きさらしのホームでじっと待っているのも寒いので、この隙にトイレを済ませておくことにする。
昼間とはいえ、十月も終盤になってくると外はそこそこ冷える。
特に、ちょうど衣替えをするこの時期はどうしても体温調節が難しい。
とはいえ、わざわざ階段を下りてまでトイレに行くのは、寒いからという理由だけではない。
この場所を、一刻も早く離れたかったのだ。
なにせホームから見える線路の上には、ぐちゃぐちゃになった女性の轢死体がある。
正確にはまだ『予定』でしかないのだけれど、それでも僕の目には映ってしまう。
これから起こるであろう事故の現場が、僕の目には視えてしまうのだ。
何が悲しくて、そんなグロい光景をじっと五分間も見つめていなければならないのだろう。
こうして適当な理由をつけてでも、その場を離れたくなるのが自然な流れだと思う。
線路上の屍に背を向けて、僕は階段の方を見た。
すると、ちょうど下から階段を上ってきた人の姿があった。
薄手のカーディガンが視界の端に入り、女の子かな、と改めてその人物を注視する。
そこで僕は、ハッと息を呑んだ。
若い女性のファッションに身を包んだその人物には、首がなかった。
首から上が、何もない。
それどころか手も足も、肌が見えるはずの部分には何もない。
服だけが、歩いている。
まるで透明人間が服を着て歩いているかのような状態だった。
それで、ああこの人だ、と直感した。
線路の上に散らばった轢死体。
あれは多分、この人のものだろう。
おそらくこれから彼女は線路に飛び込んで、僕が乗るはずだった快速電車に撥ねられて、あの惨状を創り出す。
バラバラになった身体は線路上にあるから、こちらは透明人間のように見えてしまうのだ。
やはり、僕の目に狂いはなかった。
僕は一週間も前から、この人の屍が視えていたのだ。
「まもなく、二番線を列車が通過いたします」
と、いきなりアナウンスが流れた。
「へっ?」
不意打ちをくらい、僕は思わず間抜けな声を漏らした。
快速電車が来るまでは、まだ五分ほど残っていたはずだ。
慌てて電光掲示板を見ると、『列車が通過します』の文字が点滅している。
そういえば。
この時間になると、いつも特急列車が通過する。
それを忘れていた。
ということは、今から死んでしまう予定のこの女性は、僕の乗る快速電車ではなく、その前に通過する特急列車に撥ねられるのだ。
そのことに気付いたとき、僕は改めて、やはり急いでここを離れなければと思った。
いくら死体を見慣れているとはいえ、実際に人が死ぬところを見るのはやっぱり嫌だ。
それに何より、関わりたくないのだ。
これから死ぬことが決まっている人間に対して、僕にできることは何もない。
だから不用意に近づかない方がいい。
可哀想だとか、何か自分にできることはないかとか考えたことも過去にはあったけれど、そうやって変に関わろうとしたところでいつもロクな目には遭わなかった。
だから、誰かと関わりを持とうとするのには、それなりの覚悟がいる。
関わりを持つのなら最後まで。
それができないのなら、最初から関わるべきじゃない、と思う。
何の責任も取れないくせに、中途半端に関わって、それで相手を助けた気になっているのはただのエゴだと思う。
今の僕には、赤の他人を助ける覚悟なんてない。
だから僕は視線をわずかに下げ、透明に見えるその女性の脇をそそくさと通り抜けようとした。
そのときだった。
女性の肩から提げられていた鞄に、キーホルダーが一つ付けられているのに気がついた。
何気なく目に入ったそれは、ひどく見覚えのある物だった。
メダルのような、薄く丸い形をしたそれ。
表面にはオーストラリアの観光名所であるシドニーのオペラハウスが描かれている。
かなり年季の入ったそれは所々の色が剥げてしまっている。
これと同じ物を、かつて母が持っていた。
母が大事にしていた物だから、僕の記憶にも鮮明に残っていた。
「……それ」
思わず、声を掛けそうになってしまった。
反射的に、口を噤む。
関わってはいけない。
この女性は、今から死んでしまう人なのだから。
そう必死で自分に言い聞かせる僕の前で、女性はゆっくりとした足取りでホームの端を目指す。
このまま止まらないつもりだろうか。
だとすると、彼女は自殺志願者なのかもしれない。
自ら線路に飛び込んで、自殺を図ろうとしているのかもしれない。
なぜ、そんなことをするのだろう?
自然と、疑問が浮かんだ。
まだ若そうなのに――といっても、僕もまだ大学生だけれど――まだまだ人生これからだろうに、なぜ、未来ある命を自ら絶とうとしてしまうのだろう。
一体、何が彼女をそうさせているのだろう?
そんなことをぼんやりと考えているうちに、線路の先からは特急列車が近づいてくる。
ブレーキをかける気配は微塵もない。
通過する予定だから当たり前なのだけれど。
女性はやはり足を止めない。
ゆっくりとした足取りで、しかし迷うことなく、まっすぐ進んでいく。
そんな彼女の様子に、僕以外の人間は誰一人として気づいていない。
ここで僕が止めなければ、彼女は確実に死ぬ。
「……待って」
気付けば、僕は口を動かしていた。
絞り出された声はあまりにも小さくて、列車の音に掻き消されてしまう。
「待って」
今度は、力強く。
普段はあまり出さない声を、必死で張り上げる。
彼女は振り返らない。
代わりに、周りにいた人々が僕の異様さに気づいてこちらへ視線を向ける。
すると彼らも、この緊急事態にやっと意識が向いたようだった。
あと一歩で、彼女は線路に落ちてしまう。
僕は咄嗟に手を伸ばし、彼女の手を掴んだ。
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