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第1章
未練
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クッキーは思いのほか美味だった。
そこらの店で売っていても何ら不思議はない。
むしろそれ以上の出来だと思う。
次の日も、また次の日も、月花はキスの代わりに必ず手作りのお菓子をプレゼントしてくれた。
本人曰く、唯一自信を持てるのが料理なのだという。
「あの……旭さん。よかったら、明日からお弁当を作ってきてもいいですか?」
「え?」
本日のプレゼントである林檎のパイを頬張りながら、俺は目を瞬かせた。
「いいですかって……。いや、俺の方こそ頼んでいいのか?」
可愛い女の子による手作り弁当だなんて、贅沢にも程がある。
それこそ彼女いない歴=年齢の俺にとっては願ってもないご褒美である。
ここのところコンビニ弁当やらオニギリだけで済ませている俺にとって、それ以上のプレゼントはない。
「では、決まり……ですね?」
にっこりと嬉しそうに微笑む月花。
そのやわらかな表情に、俺は暫く見惚れていた。
正直、そこらの花壇で綺麗に並んでいるチューリップよりもよっぽど魅力的だと思う。
ちょっと抜けているところはあるものの、可愛くて優しくて、料理もできる彼女。
きっと将来は良いお嫁さんになるんだろうなと、ぼんやりと考える。
なんだかんだで、俺たちはこの数日でかなり打ち解けていた。
キスのことを除けば、月花はごく普通の女の子だった。
恥ずかしがり屋で慌てやすいところもあるけれど、それもまた御愛嬌。
もしかすると、そのおっちょこちょいな性格のせいでキスの病に陥ってしまったのではないか、とも思う。
病は気から、という言葉がある。
思い込みが強ければ強いほど、それは人間の身体に影響する。
月花はもしかしたら、自分が白雪姫だと強く思い込むことで、その暗示にかかっているだけなのかもしれない。
「……っと、そろそろ予鈴が鳴るな」
あまりうかうかしてもいられない。
昼休みが終わるまでにキスをしなければ、彼女はまた熱を出してしまう。
「ほら月花、目を閉じて」
俺が言うと、彼女はちょっと考えてから、ふるふると首を横に振った。
「月花?」
「いつも、あなたにさせてばかりですから。今日は……私からキスをします」
そう言って、彼女は俺の方へと身体を寄せた。
「え。……え?」
いつもは恥ずかしがって固まっているだけの彼女が、この日だけはなぜか積極的だった。
自ら名乗りを上げるなど初めてのことだった。
「あ、いや……別に嫌なら無理しなくてもいいんだぞ?」
「嫌ではありません。それに、少し試してみたいことがあるんです」
至近距離から視線を合わせてくる彼女の目は、真剣そのもの。
その表情はまるで戦地に赴く勇者のようで、
(なんか……いかにも義務って感じだな)
色気もムードもあったもんじゃない。
「失礼します」
彼女はそう言うと、いきなり俺のスラックスの裾をめくり始めた。
「って、おい!? 足にキスすんのかよ!」
予想外のことにびっくりして、俺は声を荒げた。
「もしかしたら、お口以外でも効果があるかもしれませんから」
「せめて腕にしろ!」
いたいけな女の子に、足にキスをさせるなんてちょっと犯罪じみている。
「で、でも……手にキスをするのは……は、恥ずかしくて」
月花はそう言ってまた赤くなった。
基準がわからん。
そうこうしているうちに、校内には予鈴が鳴り響いた。
「……時間がないな。やっぱり、いつも通りに俺がやるよ」
「いえっ、私がやります」
「無理しなくていいから。ていうか、口にするのが嫌だからこんなことするのか?」
「ち、ちがいます! 私がキスしたいだけなのです!」
言ってしまってから、彼女はハッとして、また顔面を茹で蛸みたいに紅潮させた。
言葉の綾なのだろうが、今の発言はなかなかの破壊力があった。
俺は目の前で涙目になっている彼女を見てごくりと喉を鳴らす。
「てっ……手を、貸してくださいっ」
先手必勝、とばかりに慌てて俺の手を取る彼女。
そして、ちらりと一度だけ上目遣いでこちらを確認すると、そのままゆっくりと瞳を閉じて、
「……ん」
と、指先に小さく口づける。
こそばゆいような、痺れるような感覚が指先から胸の辺りまで伝わった。
「…………」
「旭さん?」
キスを終えた月花は、ぽかんとした顔で俺を見る。
「お前さ、……相手が俺みたいな奴で良かったよな」
「へ?」
彼女の無垢な瞳が、俺の理性を全力で崩しにかかってくる。
これが例えば雲水のような手の早い男だったなら、彼女は問答無用で襲われていただろう。
あまりにも無防備な彼女を前にして、それでも理性を保ち続けた俺は、自分がつくづく童貞なのだということを改めて実感した。
◯
そして、その日の放課後。
月花はしっかりと熱を出していた。
やはりキスは口同士でないと意味がないらしい。
◯
こうして俺たちの妙な関係が始まってから、いつのまにか二週間が経っていた。
屋上での秘密のキスの現場を覗き見られるようなことはなかったものの、周囲では俺たちが付き合っていると勘違いする生徒が増えてきた。
「なあ、どうやってあんな可愛いコを落としたんだよ?」
「いや、だから別に彼女とかじゃないって」
からかわれる度に、俺は否定した。
そんなやり取りをここ数日は何度も繰り返している。
羨ましがられるのは満更でもなかったけれど、しかしここで否定しておかなければ月花に申し訳が立たない。
それに……と、俺はちらりと教室の奥を窺った。
視線の先で、楽しそうに談笑している四人の女子グループ。
その中心に、一際目を引く麗しい少女がいる。
肩まで伸びるやわらかそうな髪に、くりっとした真ん丸の目。
お日様のようなあたたかな笑み。
無論、日和だ。
彼女は、これだけ俺が月花と噂になっていても、何の興味も示してはくれない。
(俺が誰と付き合おうと、あいつには関係ないんだろうな)
ちょっとぐらい気にしてくれてもいいのにと、半ば八つ当たりのような感情が芽生える。
未だに彼女を求めてしまう寂しげな思いが、胸を締め付けてやまなかった。
◯
そんなある日のこと。
六月に入る直前の、午前中のことだった。
「旭くん」
待ち焦がれた声が、俺を呼んだ。
「日和……」
彼女の明るい笑みを目にした途端、俺は胸を高鳴らせた。
一時間目と二時間目の狭間。
手洗い場から戻った俺が教室に入ろうとしたところで、彼女は声をかけてきた。
「あの噂って、本当なの?」
「噂?」
おおよそ見当は付いているが、とりあえず様子を見るために話の先を促す。
「五組の月花さんと付き合ってるって話」
やっぱりそれかと思いつつ、一方では、やっと彼女が気にしてくれたという事実に胸が踊った。
俺と月花との関係に、日和が興味を持っている。
けれど冷静になって考えてみれば、その状況は俺自らが日和とのフラグを完全に折りにかかっているとも言えた。
……いや、すでに折られてはいるのだけれど。
そう考えると複雑だった。
今までは確かに、噂に興味を持ってほしいと願っていた。
けれどいざそれが叶うと、今度はその噂自体を否定したくなる。
まったくワガママな心境だと、自分自身に呆れてしまう。
「いやいや。周りが勝手に言ってるだけだって」
俺は笑って誤魔化すように言った。
「本当に? 隠さなくてもいいのに。噂が本当ならお祝いにジュースぐらい奢ってあげるよ?」
そう言って彼女は楽しそうに笑う。
完全に脈なしだな、と俺は落胆する。
「本当に何もないんだって。仮に付き合ってるとしたら、隠す必要がないだろ」
「そうなの? じゃあ、そういうことにしておいてあげるね」
いたずらっぽく彼女が笑う。
どこまで本気なのかわからない。
「からかうなよ」
彼女があまりにも意地悪なので、俺はつい、
「それに俺、まだ……」
「うん?」
「…………」
つい、本音を口にしそうになってしまった。
まだ、日和を諦めることができないのだと。
当の彼女は何も知らないみたいに、無邪気な笑みを浮かべている。
俺の考えることなんて、どうせわかっているんじゃないのか、と聞きたくなる。
でも、目の前の彼女が何を考えているのか、俺にはさっぱりわからない。
やっぱり彼女は、俺の心を弄んでいるのだろうか。
黙ったままの俺に、彼女は「どうしたの?」と小首を傾げる。
やがてその場の空気に耐えかねた俺が違う話題を振ろうとしたとき、不意に彼女の視線が廊下側へと逸れた。
不思議に思って、俺もその視線の先を追う。
するとそこには、いつのまにか月花が立っていた。
「……あっ。す、すみません」
お互いの視線がぶつかったとき、月花が慌てて言った。
次が体育の授業なのか、今はジャージ姿になっている。
ちょうど校庭に向かう途中でここを通りかかったのだろう。
「もしかして、旭くんに用事?」
日和が言った。
彼女は俺の方に口元を寄せて、「私は離れてた方がいいかな?」と耳打ちする。
「い、いえっ。なんでもないんです」
廊下で立ち尽くしていた月花は、どこか居心地が悪そうに顔を背けて言った。
「ごめんなさい。私、……ご迷惑でしたよね」
「へ?」
意味がわからず、俺は間抜けな声を漏らした。
何やら不穏な言葉を残して、月花はその場を立ち去った。
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