僕《わたし》は誰でしょう

紫音

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第四章

命の時間

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 このままでは駄目だ、と焦燥感が募る。
 僕はもう、ここにいるはずのない人間なのだから。
 本来なら存在するはずのない僕が、凪たちにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。

 けれど、だからといってどうすればいいのだろう?
 比良坂すずの意識はまだ眠ったままだし、彼女を呼び戻す方法を僕は知らない。
 このまま時間の経過とともに彼女の回復をただ待つことしかできないのか——そう思ったとき、ふと思い出されたのは、光希くんの言葉だった。

 ——人間って意外と気持ち次第でどうとでもなるって、おれの父さんは言ってる。

 僕が退院する日、玄関まで見送りに来てくれた彼は曇りのない笑顔でそう言っていた。

 ——だからおれ、元気になってここを退院していく人に宣言してるんだ。おれはあんたより絶対長生きするって。

 彼は、自分の余命がもう一ヶ月しかないことを知りながらも、気持ち次第でいくらでも長生きができるのだと豪語していた。
 病は気から、なんて言葉もある。
 もしも彼の言った通り、自分の気持ち次第で命の時間が延びるとしたら。今の僕は、このままずっとここにいたいと、心のどこかで願ってしまっているのかもしれない。
 この期に及んで消えたくないと、わがままな思いを抱いてるから、そのせいで比良坂すずは戻って来れないのかもしれない。

 だとすれば、僕のやるべきことは決まっている。
 比良坂すずの意識を呼び戻すためにも、僕は、あの世へと旅立つ心構えをしなければならない。
 凪たちに別れを告げ、未練を断ち切って。もう思い残すことはないと、この世にさよならをしなければならない。


「……ねえ。できたらさ、この近くのお墓に寄っていけないかな」

 そろそろサービスエリアを出ようとなったとき、僕はみんなに言った。

「お墓? なんで?」

 沙耶は不思議そうに首を傾げる。

「この近くに、愛崎家のお墓があるんだよ。たぶん、ここからそんなに時間はかからないと思う」

 愛崎家、つまりは僕の父方のお墓がこの辺りにあったはずだった。詳しい場所は覚えていないけれど、霊園の名前だけは記憶している。スマホの地図アプリで場所を確認してみれば、ここから車で十五分ほどの距離にあった。

「愛崎家のお墓……って、それって」

 沙耶が息を呑む気配がした。他の二人も、同じような顔で僕を見る。
 愛崎家のお墓にはきっと、愛崎美波が眠っている。
 十年前に火葬された僕の骨が、その場所に納められているのだ。


          ◯


 自分のお墓を見れば、自分の死を実感できるんじゃないかと思った。
 僕はすでに死んだ人間で、いつまでもこの世に留まっているわけにはいかない。
 だから、比良坂すずのためにも、そして僕自身のためにも、僕は自分の死をちゃんと見つめなければならないのだ。


 スマホのナビに従って辿り着いたその霊園は、山の斜面を利用した雛壇状の地形だった。ずらりと並んだ墓石の中に、僕の眠る場所がある。

「あれだね。『愛崎家之墓』って書いてある」

 ここには両親に連れられて何度か来たことがあった。久しぶりに見たその墓の両脇には、まだ枯れていない花が供えられている。

「さすがに俺も、ここに来るのは初めてだな」

 凪が言った。この十年間ずっと僕の臓器を追いかけてきた彼も、さすがに骨の場所まではわからなかったらしい。あるいは生きた臓器を追いかけてきたからこそ、死の象徴である墓地には目を向けなかったのだろうか。

「ね、せっかくだから掃除していこっか」

「よっしゃ任せろ。オレが新品みたいにピッカピカにしてやる!」

 自分の眠っている墓を掃除するというのは、なんだか不思議な気分だった。備え付けの手桶で汲んできた水を柄杓ひしゃくでかけ、墓石の表面をタオルで綺麗に拭き上げていく。花はまだ枯れていなかったので、水だけ替えてそのままにした。
 と、足元の雑草を抜いていた凪が、立ち上がった拍子にふらりと眩暈めまいを起こした。ちょうど隣にいた桃ちゃんに支えられて倒れることはなかったけれど、その顔はなんだか青白く見える。

「凪。やっぱりもう少し休んでた方がいいよ。車に戻ろう?」

「いや、大丈夫だ。でも、ちょっと顔を洗ってくる」

 霊園の端の方にトイレがある。ふらふらと覚束ない足取りでそこへ向かう彼に、桃ちゃんが付き添った。残された僕と沙耶とで、掃除の仕上げをする。

「にしても、井澤さんって本当に美波のことが大好きだよねえ。あんなにふらふらになっても、美波のことを何よりも優先するんだもん」

 沙耶が唐突にそんなことを言って、僕はなんだか胸の奥がむず痒くなった。

「気持ちは嬉しいけど、さすがに心配になるよ。僕は、凪に無理をしてほしいわけじゃないし」

「まあ、惚れた弱みってやつだよね。好きな相手にはどんなことでもしてあげたいって気持ち、あたしもわかるなぁ」

 人は恋をする生き物だ。
 沙耶も、凪も、僕も、桃ちゃんも。そしてきっと、比良坂すずも。みんな誰かに恋をしている。
 だから僕にだって、凪の気持ちはわからないわけじゃない。


「あっ、戻ってきた。おかえりー!」

 やがて掃除を終えた頃、沙耶が元気よく言って手を振った。釣られて僕もそちらを見る。
 墓石の並ぶ景色の向こうから、桃ちゃんが歩いてくる。そしてなぜか、彼の隣には知らない男性が一緒に歩いていた。
 霊園の管理人だろうか。にしては、少し若い気もする。年は二十代の半ばくらいで、白シャツにスラックスというラフな格好をしている。

「桃ちゃん、おかえり。その……そっちの人は?」

 隣の彼にちらちらと視線を送りながら僕が聞くと、桃ちゃんは途端に「え?」と不思議そうな顔をした。

「何言ってんだよ、美波。こいつは……」

 そこでなぜか、桃ちゃんは口を噤んだ。無言のまま、隣の彼と僕とを交互に見る。

「えっ。美波、本当に何言ってんの?」

 と、今度は背後から沙耶が言った。どこか戸惑ったような声だった。もしかして僕、何かおかしなことでも言ってしまっただろうか。

「美波……」

 最後にそう僕の名を呼んだのは、隣の彼だった。左目の下に泣きボクロがある、綺麗な形をした双眸で、彼はまっすぐに僕を見つめている。

「俺のこと、わからないのか……?」

 そこまで言われて、僕はやっと思い出した。

「……凪?」

 見知らぬ男性だと思っていたその人は、凪だった。
 なぜだかわからないけれど、僕は一瞬、彼の顔を忘れていた。さっきまでは確かに覚えていたのに。それに、これだけ毎日会っている彼のことを忘れるなんておかしい。

「僕、もしかして……」

 まさか、と胸騒ぎを覚える。そしてその予感は、おそらく当たっていた。

 記憶が、消えかかっている。

 愛崎美波としての僕の記憶は、いよいよタイムリミットを迎えようとしていた。
 
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