僕《わたし》は誰でしょう

紫音

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第三章

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          ◯


 翌日。俺は朝一から学校に登校した。

「わっ、めずらしー。井澤が朝から教室にいるなんて」

 クラスメイトたちの反応の通り、俺がこの時間に教室にいるのは珍しい。次々に登校してくる生徒たちからはまるで珍獣でも見るかのような視線が飛んでくる。
 そんな中、一際賑やかな女子グループが前方の扉から入ってきた。彼女たちを見るなり、教室のあちこちから「おはよう」の声が飛び交う。グループの中心で穏やかな笑みを浮かべ、手を振り返しているのは愛崎美波である。
 さすがの人気ぶりだ。俺には挨拶一つ寄越さなかったクラスメイトたちも、彼女には自ら手を振るなり声をかけるなりしている。これだけの人望を集めながら家では鼻にピーナッツを詰めるというのだから、人間わからないものだ。
 そして、

「おはよう、井澤くん」

 彼女はまるで昨日のことなど覚えていないかのように、落ち着き払った笑顔で俺に挨拶した。

「え、ああ。おはよう……」

 不意を突かれた俺はぎこちなく返す。彼女はそのまま俺の前を通り過ぎて窓際の席に着いた。陽光を浴びた彼女の肌は白く、常に微笑をたたえているその横顔を、複数の男子たちが遠巻きに眺めている。

「愛崎さんって優しいよな。井澤にもちゃんと挨拶するし」

 教室のどこからか、そんな男子の声が聞こえた。
 どんな相手にも分け隔てなく接する優等生。愛崎美波という存在は、間違いなくこのクラスのマドンナだった。


          ◯


 ——誰にも見られてなければ、ちょっとぐらい羽目を外したっていいでしょ。学校ではずっと真面目なフリをするの、けっこう疲れるんだから。

 昨日病院で言っていた彼女の言葉が頭から離れない。
 学校にいる間の彼女は、どこからどう見ても理想的な女の子だった。清楚で真面目で、誰にでも優しく、常に笑顔を振り撒いている。
 しかし昨日の彼女の言葉が本心だとすれば、今の彼女はかなり無理をしているということになる。

「ねえ、井澤くん」

 と、休み時間も机でひとりボーっとしていると、急に女の子の声が聞こえた。ハッと我に返って顔を上げると、すぐ目の前には愛崎が立っていた。

「え、愛崎? なんで」

 まさか声をかけてくるとは思わず身構えると、彼女はにこりとやわらかい笑みを浮かべながら言った。

「次の授業、体育なんだ。女子はここで着替えるから、男子は廊下に出てくれる?」

 言われて、すかさず周りを見ると、いつのまにか教室に残っている男子は俺だけで、着替えの用意をしている女子たちは刺すような視線をこちらに向けている。
 女子は教室、男子は廊下。この当時、着替え場所はそれが当たり前だった。このタイミングで男子が教室に残るということは、女子の着替えを覗き見することと同義なのだ。

「井澤。早く出ていきなよ」
「着替えを覗くのって最低だよ!」

 愛崎の後方からギャーギャーと騒ぎ立てる女子たち。

「うるさいな……。言われなくてもすぐに出てくよ。別に着替えとか興味ないし。ていうか、女子はいいよな。プライバシーが守られててさ」

 仕返しとばかりにそう吐き捨てて、俺は席を立つ。ギャラリーの声はさらに激しさを増したが、目の前の愛崎だけは何も返してこない。と思いきや、

「……井澤くんはいいよね。男の子でさ」

 すれ違いざまに、俺にだけ聞こえる声で、彼女は確かにそう言った。
 一瞬だけ足を止めそうになったが、周りの抗議の声があまりにもうるさかったので、俺はそのまま聞こえなかったフリをして教室を後にした。
 
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