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「マドンナ」名物・二日仕込みのビーフカレーは絶品で激安♪

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「その時はそんなつもりじゃなかったんですよ。あなたが『まだ終電に間に合うから』と言って駅に向かうので、心配でつき添ったんです。が、終電には間に合わなくて、タクシーも長い列ができていたので、酔いが醒めるまで休ませようと近くのホテルに」

「……」

「……いえ、下心が全くなかったと言えば嘘になるかもしれません。あなたは部屋に着くか着かないかで爆睡してしまったのですが、僕はご存知の通りMなので……」

 誰も聞いてねえよ。思い出させんな、と腹の中で毒づいたが、

「……それはご迷惑かけました」

 こいつの最初の善意だけは信じてもよさそうな気がしたので、仏頂面で一応礼を言った。

 一旦休戦し、また二人で仲良くカレーをたいらげる。

「……美味い」

「だろ?」

 おそらく世界のあちらこちらを渡り歩いて舌も肥えているであろう玄英が、目を見張って感動している様子は自分の事のようにちょっと嬉しい。

「塊肉を二日間煮込んであるんだ。スパイスはマスターの秘伝で、聞いても教えてもらえない」

「コスト度外視の飲食店か……僕には信じられないけど、こういう日本人の仕事観は興味深いと思うよ」

 日が長い季節に仕事が定時で終わった日、卒業式シーズンや花の季節だったりして理由もなく感傷的になった日、あるいはふいに昔の懐かしい思い出に浸りたくなった日ーー俺は時々ふらりと「マドンナ」に立ち寄る。

 過去にトラウマになるほどの後悔があるとか、今の生き方が辛いというわけではない。仕事と実家の手伝いで忙しいと言えば忙しいが、好きな事で充実しているとも言える。
 ただ、世の中はそれ以上にめまぐるしい。懐かしの母校はすでに昔の場所には無く、実家の周りの景色ですら年単位で変わっている。昔と全然変わらない佇まいのこの界隈とこの店で、日常ですり減った何かを補充しているような気もする。
 マスターの様子を見に、と言う口実もあるが、以前より足を運ぶ頻度が増えたのは自分の歳のせいもあるのか。

 昨夜だってそんな日常の、ちょっとイレギュラーだけど平和なほんの一コマだったはずなんだーー普段は過疎気味の店が満員御礼の激混みで、モンスタークレーマーをみんなで撃退して、プライベートの友人が一人増えて。
 朝になって爆睡から醒めたら、体を綾掛けと男結びで拘束された玄英に置き去りにされ、手錠やらナニの跡やらが散乱した部屋に全裸で残されていたーー今朝のその落差よ。

 ご主人様だ何だと不穏な事も言ってたし、真実を知るには核心を突かなければならないが、そうなるとここではどうも場所が悪い。逆上してブチ切れない自信もないし。

 食後、やはりマスターのオリジナルブレンドかつ自家焙煎のコーヒーを平和に啜りながら、それでも一つだけ確認しておかなきゃいけない事がある。

「遠山社長。ちなみに……うちの会社との取引ってどうする気?」

「何、その質問?仕事とプライベートは別な事でしょ」

 あまりにも毅然とした態度でピシャリと言われ、俺は逆に萎縮した。俺が昼間目撃したスタートアップのカリスマにして天才研究者、「あの」遠山玄英がちゃんと戻って来ていた。

 白黒つけずに曖昧にすんのは性に合わんし、今朝の事で奴に言ってやりたい事もあった。が、舌と腹が満たされたせいか、もうこの世界線で生きていられたら十分じゃないかという、非常に穏健な気分にもなってくる。

「ならいい。昨夜の事はお互い、無かったことにしよう。取引先の社長と一担当者じゃ接点もそんな無いだろうけど、あんたがやりにくいんなら俺は降りて他の奴に変わるし」

 やりたかった仕事だから残念だが、いくら直接接点が無くても全く顔を合わせないわけにはいかないだろうしーーさすがにここまで黒歴史度高いと俺も気まずいしな。

「ええええええっ!」

 今度は玄英が素っ頓狂な声を出したので、俺はコーヒーにせそうになった。何そのリアクション?

「だ、だって、黙って立ち去ったってのはそういう事だろ?」

 俺は口に人差し指を当て、声を落として言い返した。

「言わないでおこうと思ったけど、朝の部屋の惨状を覚えてるか?俺、掃除の人に変に思われたくない一心で、涙目で全部片付けたんだからな!」

 極力声を落とし、怯えさせないよう努力したのだが、かえって凄んでいるみたいになってしまったのは否めない。

「す、すみません、慌てていたのでそこまで気が回らず……僕、掃除苦手なので尊敬します」

「そういう返し要らねえんだよっ!」

ーーいや、キングオブ大凡人の俺に、天才社長から尊敬される要素がちょっとでもあったなんてやや驚きだが。
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