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心配の真髄
初老の写真屋〜5年前〜
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綿貫千春が中学3年生の頃。
あれは5月のことだったか。修学旅行で訪れた美術館は、同じ班の女子生徒たちの提案で、千春たち男子はただ言われるがままついていっただけだった。
千春もぼんやり展示品を見ながら、適当に時間を過ごしていたと思う。
けれど、その時開催されていた特別展示ではなく、ついでに同じチケットで回れる常設展示のコーナーに差し掛かった時、入り口に飾られている写真に思わず足を止めていた。
特に目を惹く被写体だったわけでも、超有名な写真家だったわけでもない。写真技術の良し悪しなどわかるわけもない。
だから今となっては、どうしてその写真に自分が目を向け、何に感銘を受けたのかわからない。より正確に言えば、足を止めて、視線を奪われるだけのポイントがどこにあったのか、自分でもわからないのだ。
日常の、何気ない雰囲気の、本当になんでもない写真だった。
きっといつも普通に存在しているはずの、当たり前の景色。けれど、それをそれとして眺める人はそう多くはない。
朝焼けの住宅街──。美しく紅く染まってはいるが、人を惹きつけるだけのインパクトがあるかと言われると、微妙なところで。現に、同じ班のクラスメイトたちは小声ではしゃぎながら素通りしてしまった。
まだ人の姿はなく、鳥が数羽電線に止まっているだけのその景色は、人間が見ようとしなければ見られない世界、そして見たことがなければ自分の中には存在しないも同じ世界──。少なくとも、当時中学生の千春にはそう感じられた。
被写体そのものももちろんだが、自分たち人間がいかに日常のなんでもない風景を見逃しているのか。そういう抽象的な、概念的な何かをそこで初めて千春は認識した。そんなまだ見ぬ世界を千春に教えてくれるかのようだったのだ。
立ち止まってしばらく動かなくなった千春を、心配して迎えに来てくれる友達は残念ながらいなかった。あの写真の風景を忘れられないまま抜けた常設展示の先のお土産コーナーで、同じ班のメンバーは思い思いに商品を眺めているところだった。
「綿貫、お土産は?」
「あ、うん」
男子生徒の一人に声をかけられ、千春は件の朝焼け写真がそのままポストカードになっている写真セットを見つけ、それを購入した。
家に帰っても学校に行く道中も、寝ても覚めてもあの写真のことが気になって、自分の住む住宅街を頭の中で何度も被写体にしたし、スマートフォンで写真家の名前を検索したりもした。
その写真家はきっとその業界では、名前も残っていないくらいなのだろう。写真集はおろか、彼の名で発表されている作品もほとんどなかった。せいぜい修学旅行で訪れた美術館の案内パンフレットのようなフライヤーのようなものに印刷されているくらいで、千春は逆に興味が湧いてしまうほどだった。
一度出会ってしまったというのに、もう二度とお目にかかることはなくなる──。そんな焦りや恐怖(?)、ジレンマなどが作用したのか、千春はいっそのこと自分でその世界を探してみたくなっていった。
千春の性格上、欲しいものを親にねだることはできなかった。頭ごなしにダメと言う人たちではないけれど、本格的なカメラはそう安くないことも知っていた。
だからと言って、手元にあるスマートフォンで撮るのはもっと違う気がした。スマートフォンの画質が良いことも、高性能なことも知っている。
けれど、こんな日常的なもので撮ることのできる風景なら、あの世界は本当に日常になってしまう気がした。
おかしなもので、あの朝焼けに感じたのは何よりも日常という概念だったのに、千春はその中の日常に潜む非日常を映し出したくてたまらなかった。
写真家にどんな意図があったのかはわからない。
それでも、あの瞬間、あの写真の前に立った瞬間、確実に千春はあの世界にいた。
写真の中の世界で、朝焼けや鳥とともに、あの場所の風や温もりを感じていた。
千春は意を決して父親に頼んだ。
カメラが欲しい。新品じゃなくていい。高性能じゃなくても、デザインが古くてもいい。
自分が撮りたい世界を、想像させてくれるカメラがいい──なんて恥ずかしいことは言わなかった。
形から入るタイプかよ、と自分を何度も揶揄してもみた。それを家族や数少ない友人に揶揄われる場面も想像してみた。
それでも、熱は冷めなかった。
どうしてもスマートフォンの力を借りずに、自分のセンスのみで向き合ってみたかった。
それまで何かに没頭したことがなかった千春の初めての積極的な要望に、父も母もついでに妹も目を丸くしながら、「何かあったの?」などと聞いてきたが、思いの外千春の意志が強いと分かると、父が「今度の週末、選びに行くか?」などと提案してくれた。
母や妹と買い物に行くのはもう随分前に卒業したが、父親とはたまに一緒に家を出ることがあった。
というのも、大概母や妹の友達がやって来る、女同士過ごしたいという時の体のいい厄介払いだったのだろうが。
父はあまり多くを語らない寡黙な人で、千春がカメラを選んでいる間も、口を挟んでくることもなくじっと微笑んで様子を眺めていた。
千春もカメラや写真に詳しいわけではない。
何をどう選べばいいのかわからず、かといって店員に何を聞けばいいのかもわからない。
「どういうものを撮りたいのかな」
父が連れてきたのはチェーン店や大きな家電量販店ではなく、初老の男性が細々と経営する町の小さなカメラ屋さんだった。
にこにこと穏やかな笑顔で訊ねる彼に、千春は戸惑いつつ、説明した。
「風景を」
「動くものや夜景も撮りたい?」
「…………」
悩んだ末に、千春は首を振る。
「でも、楽しくなってきたら撮りたくなるかもしれないよ?」
おすすめをしてくれようと、棚のカメラに手を伸ばす男性に慌てて千春は声をかける。
「あ、そうじゃなくて──」
動いているものや夜景も撮りたくなるかもしれないけれど、別に綺麗じゃなくていい、それがその一瞬を捉えたものなら、写真自体の綺麗さや美しさは二の次でいい。美しい写真じゃなく、美しい世界が撮りたい──というようなことを、熱くしかし拙く説明した。
すると初老の男性は、「じゃあ君にはこれだね」と言って、コンパクトなカメラを渡した。
「これは……」
「フィルムカメラだよ。しかも使い捨てのね」
「えっ」
お値段も数千円などと楽しそうに笑う。
けれど、すぐに真摯な、温かみのある瞳に戻って彼は続けた。
「これで何でもいいから撮ってごらん。すぐには確認できないし、失敗もたくさんすると思うけれど、きっと君の望む世界が撮れる」
「でも、フィルムを使い切ったら……」
「使い切るまで撮るのも、意外に難しいものなんだ。使い切ってまだ足りなかったら同じものを買えばいい。気に入ったらいくらだって使い続ければいいさ。もしも自分の世界をもっとはっきり見つけて、もっといろんなことをしたくなったら、今度は使い捨てじゃない君のカメラを選びにおいで」
父は結局、最後までただ見ているだけだった。
千春は「なんか違う」と思いつつも、使い捨てカメラを眺めては頬を緩めていた。
「撮らなくていいのか?」
「──最初に撮りたいものは決まってるから」
そう答えた千春にそれ以上質問はせず、父親は定食屋に寄って、スーパーで頼まれた買い物を終えて、家へと千春を連れて帰った。
翌日。千春は早起きした。
夜明け前。空が白み始めた頃、カメラを構えてじっと待った。
千春のカメラマンとしての最初の写真は、自分が想像したより全くもって平凡なものだった。
あの件の写真の足元にも及ばないくらい、下手くそな写真だっただろう。
けれど、自分の知らない世界がそこには確かにあった。
朝焼けの住宅街。自分の住む街なのに、全く違う景色に見えた。
そんなことにさえも気がつかなかった自分の、新たな姿を獲得した気がした。
「千春、朝ごはんよ!」
母親の声でそう呼ばれるまで、千春は初秋の窓を開けて、肌寒くなってきた朝の風を感じていた。
それから一年と少しが経って、千春は晴れて高校一年生になっていた。
偏差値もそこそこ、部活や風紀などもそんなに厳しくはなかった。世代的に大半の生徒は大学進学を目指していたが、中にはそのまま就職する先輩や様々なジャンルの専門学校に進む子も多かった。
あれから千春は、高校入学と同時に、初めてのカメラを買ったあのカメラ屋に行った。父親はついて来なかったが、お金は借りた。アルバイトをして返すと約束して。
19歳になった今でも使い続けている一眼レフは、ここで手に入れたものだ。
「──君の世界が見つかったかい?」
そう言って穏やかな笑顔で送ってくれた彼は、もういない。街の小さなカメラ屋なんて経済的にやっていけなかったのか、それとももう体力的に厳しかったのかはわからない。
しばらくして、亡くなったそうだと風の噂で聞いた。カメラに触れなくなった今でも、手入れを欠かさなかったのはその影響も大きかったかもしれない。
それ以外にも理由はたぶんあるのだけれど、なんだか、あの時の彼の笑顔をなかったことにしてしまうみたいで、あのカメラを渡してくれた時の温もりを自分から手放すみたいで、そんなことはできなかったのだ。
あの時、自分はどう答えたのか。
千春は思い返してみても、なぜかそこだけ途切れたフィルムのように思い出せなかった。
それでも、帰る時の彼の表情には満足げな、そして千春を後押しするような、そんな雰囲気が滲み出ていた。
「千春くん?」
「……あぁ、すみません」
車内で風月七緒と山城優一が、何か話しているのは聞こえていた。
映画村を出て、旅館に戻る道中、海に沈んでいく夕焼けがあの写真の朝焼けを思い出させるようで、しばらく感慨に耽ってしまった。
住宅街とは程遠い、自分の日常にはない景色なのに、不思議なものだと思う。
「ううん。何かいいことあった?」
「え、なんでですか」
「なんか笑ってたから」
「そ、そうですか、ね……?」
恥ずかしくなって視線を下げると、いつもの癖でカメラに触れていたことを思い出す。
七緒がその様子を見て、隣から細い指先を千春の視界に滑り込ませてきた。
「カメラ、毎日手入れしてるよね。大事なものなんだね」
「……手入れは日課みたいなものですけど」
数少ない父親との思い出と言える出来事、初老の男性との会話──。
きっと拙い表現でしか伝えられなかったあの頃の自分の気持ちを、的確にそして否定することなく寄り添ってくれたのが嬉しかったのだろう。
もうあの男性には会えなくなってしまったけれど、またこのカメラを使う時が巡ってきた。
独り暗い部屋の中で、そのカメラのシルエットを見てしまった時、なんだかいつも後ろめたい気持ちになった。
自分が写真を撮れなくなってしまったことよりも、あの日、多くを語らなくとも千春を理解し送り出してくれた彼に申し訳なかった。
「──大切なものではありますね」
夕焼けが一段と明るく見えた。
視界が開けて、そのまま──。
「このまま夕陽に向かって走りましょうか?」
などと山城が冗談混じりに笑う。
だからそれは、「本心に聞こえるからやめて欲しい」──千春はそう言って今度はみんなで笑った。
あれは5月のことだったか。修学旅行で訪れた美術館は、同じ班の女子生徒たちの提案で、千春たち男子はただ言われるがままついていっただけだった。
千春もぼんやり展示品を見ながら、適当に時間を過ごしていたと思う。
けれど、その時開催されていた特別展示ではなく、ついでに同じチケットで回れる常設展示のコーナーに差し掛かった時、入り口に飾られている写真に思わず足を止めていた。
特に目を惹く被写体だったわけでも、超有名な写真家だったわけでもない。写真技術の良し悪しなどわかるわけもない。
だから今となっては、どうしてその写真に自分が目を向け、何に感銘を受けたのかわからない。より正確に言えば、足を止めて、視線を奪われるだけのポイントがどこにあったのか、自分でもわからないのだ。
日常の、何気ない雰囲気の、本当になんでもない写真だった。
きっといつも普通に存在しているはずの、当たり前の景色。けれど、それをそれとして眺める人はそう多くはない。
朝焼けの住宅街──。美しく紅く染まってはいるが、人を惹きつけるだけのインパクトがあるかと言われると、微妙なところで。現に、同じ班のクラスメイトたちは小声ではしゃぎながら素通りしてしまった。
まだ人の姿はなく、鳥が数羽電線に止まっているだけのその景色は、人間が見ようとしなければ見られない世界、そして見たことがなければ自分の中には存在しないも同じ世界──。少なくとも、当時中学生の千春にはそう感じられた。
被写体そのものももちろんだが、自分たち人間がいかに日常のなんでもない風景を見逃しているのか。そういう抽象的な、概念的な何かをそこで初めて千春は認識した。そんなまだ見ぬ世界を千春に教えてくれるかのようだったのだ。
立ち止まってしばらく動かなくなった千春を、心配して迎えに来てくれる友達は残念ながらいなかった。あの写真の風景を忘れられないまま抜けた常設展示の先のお土産コーナーで、同じ班のメンバーは思い思いに商品を眺めているところだった。
「綿貫、お土産は?」
「あ、うん」
男子生徒の一人に声をかけられ、千春は件の朝焼け写真がそのままポストカードになっている写真セットを見つけ、それを購入した。
家に帰っても学校に行く道中も、寝ても覚めてもあの写真のことが気になって、自分の住む住宅街を頭の中で何度も被写体にしたし、スマートフォンで写真家の名前を検索したりもした。
その写真家はきっとその業界では、名前も残っていないくらいなのだろう。写真集はおろか、彼の名で発表されている作品もほとんどなかった。せいぜい修学旅行で訪れた美術館の案内パンフレットのようなフライヤーのようなものに印刷されているくらいで、千春は逆に興味が湧いてしまうほどだった。
一度出会ってしまったというのに、もう二度とお目にかかることはなくなる──。そんな焦りや恐怖(?)、ジレンマなどが作用したのか、千春はいっそのこと自分でその世界を探してみたくなっていった。
千春の性格上、欲しいものを親にねだることはできなかった。頭ごなしにダメと言う人たちではないけれど、本格的なカメラはそう安くないことも知っていた。
だからと言って、手元にあるスマートフォンで撮るのはもっと違う気がした。スマートフォンの画質が良いことも、高性能なことも知っている。
けれど、こんな日常的なもので撮ることのできる風景なら、あの世界は本当に日常になってしまう気がした。
おかしなもので、あの朝焼けに感じたのは何よりも日常という概念だったのに、千春はその中の日常に潜む非日常を映し出したくてたまらなかった。
写真家にどんな意図があったのかはわからない。
それでも、あの瞬間、あの写真の前に立った瞬間、確実に千春はあの世界にいた。
写真の中の世界で、朝焼けや鳥とともに、あの場所の風や温もりを感じていた。
千春は意を決して父親に頼んだ。
カメラが欲しい。新品じゃなくていい。高性能じゃなくても、デザインが古くてもいい。
自分が撮りたい世界を、想像させてくれるカメラがいい──なんて恥ずかしいことは言わなかった。
形から入るタイプかよ、と自分を何度も揶揄してもみた。それを家族や数少ない友人に揶揄われる場面も想像してみた。
それでも、熱は冷めなかった。
どうしてもスマートフォンの力を借りずに、自分のセンスのみで向き合ってみたかった。
それまで何かに没頭したことがなかった千春の初めての積極的な要望に、父も母もついでに妹も目を丸くしながら、「何かあったの?」などと聞いてきたが、思いの外千春の意志が強いと分かると、父が「今度の週末、選びに行くか?」などと提案してくれた。
母や妹と買い物に行くのはもう随分前に卒業したが、父親とはたまに一緒に家を出ることがあった。
というのも、大概母や妹の友達がやって来る、女同士過ごしたいという時の体のいい厄介払いだったのだろうが。
父はあまり多くを語らない寡黙な人で、千春がカメラを選んでいる間も、口を挟んでくることもなくじっと微笑んで様子を眺めていた。
千春もカメラや写真に詳しいわけではない。
何をどう選べばいいのかわからず、かといって店員に何を聞けばいいのかもわからない。
「どういうものを撮りたいのかな」
父が連れてきたのはチェーン店や大きな家電量販店ではなく、初老の男性が細々と経営する町の小さなカメラ屋さんだった。
にこにこと穏やかな笑顔で訊ねる彼に、千春は戸惑いつつ、説明した。
「風景を」
「動くものや夜景も撮りたい?」
「…………」
悩んだ末に、千春は首を振る。
「でも、楽しくなってきたら撮りたくなるかもしれないよ?」
おすすめをしてくれようと、棚のカメラに手を伸ばす男性に慌てて千春は声をかける。
「あ、そうじゃなくて──」
動いているものや夜景も撮りたくなるかもしれないけれど、別に綺麗じゃなくていい、それがその一瞬を捉えたものなら、写真自体の綺麗さや美しさは二の次でいい。美しい写真じゃなく、美しい世界が撮りたい──というようなことを、熱くしかし拙く説明した。
すると初老の男性は、「じゃあ君にはこれだね」と言って、コンパクトなカメラを渡した。
「これは……」
「フィルムカメラだよ。しかも使い捨てのね」
「えっ」
お値段も数千円などと楽しそうに笑う。
けれど、すぐに真摯な、温かみのある瞳に戻って彼は続けた。
「これで何でもいいから撮ってごらん。すぐには確認できないし、失敗もたくさんすると思うけれど、きっと君の望む世界が撮れる」
「でも、フィルムを使い切ったら……」
「使い切るまで撮るのも、意外に難しいものなんだ。使い切ってまだ足りなかったら同じものを買えばいい。気に入ったらいくらだって使い続ければいいさ。もしも自分の世界をもっとはっきり見つけて、もっといろんなことをしたくなったら、今度は使い捨てじゃない君のカメラを選びにおいで」
父は結局、最後までただ見ているだけだった。
千春は「なんか違う」と思いつつも、使い捨てカメラを眺めては頬を緩めていた。
「撮らなくていいのか?」
「──最初に撮りたいものは決まってるから」
そう答えた千春にそれ以上質問はせず、父親は定食屋に寄って、スーパーで頼まれた買い物を終えて、家へと千春を連れて帰った。
翌日。千春は早起きした。
夜明け前。空が白み始めた頃、カメラを構えてじっと待った。
千春のカメラマンとしての最初の写真は、自分が想像したより全くもって平凡なものだった。
あの件の写真の足元にも及ばないくらい、下手くそな写真だっただろう。
けれど、自分の知らない世界がそこには確かにあった。
朝焼けの住宅街。自分の住む街なのに、全く違う景色に見えた。
そんなことにさえも気がつかなかった自分の、新たな姿を獲得した気がした。
「千春、朝ごはんよ!」
母親の声でそう呼ばれるまで、千春は初秋の窓を開けて、肌寒くなってきた朝の風を感じていた。
それから一年と少しが経って、千春は晴れて高校一年生になっていた。
偏差値もそこそこ、部活や風紀などもそんなに厳しくはなかった。世代的に大半の生徒は大学進学を目指していたが、中にはそのまま就職する先輩や様々なジャンルの専門学校に進む子も多かった。
あれから千春は、高校入学と同時に、初めてのカメラを買ったあのカメラ屋に行った。父親はついて来なかったが、お金は借りた。アルバイトをして返すと約束して。
19歳になった今でも使い続けている一眼レフは、ここで手に入れたものだ。
「──君の世界が見つかったかい?」
そう言って穏やかな笑顔で送ってくれた彼は、もういない。街の小さなカメラ屋なんて経済的にやっていけなかったのか、それとももう体力的に厳しかったのかはわからない。
しばらくして、亡くなったそうだと風の噂で聞いた。カメラに触れなくなった今でも、手入れを欠かさなかったのはその影響も大きかったかもしれない。
それ以外にも理由はたぶんあるのだけれど、なんだか、あの時の彼の笑顔をなかったことにしてしまうみたいで、あのカメラを渡してくれた時の温もりを自分から手放すみたいで、そんなことはできなかったのだ。
あの時、自分はどう答えたのか。
千春は思い返してみても、なぜかそこだけ途切れたフィルムのように思い出せなかった。
それでも、帰る時の彼の表情には満足げな、そして千春を後押しするような、そんな雰囲気が滲み出ていた。
「千春くん?」
「……あぁ、すみません」
車内で風月七緒と山城優一が、何か話しているのは聞こえていた。
映画村を出て、旅館に戻る道中、海に沈んでいく夕焼けがあの写真の朝焼けを思い出させるようで、しばらく感慨に耽ってしまった。
住宅街とは程遠い、自分の日常にはない景色なのに、不思議なものだと思う。
「ううん。何かいいことあった?」
「え、なんでですか」
「なんか笑ってたから」
「そ、そうですか、ね……?」
恥ずかしくなって視線を下げると、いつもの癖でカメラに触れていたことを思い出す。
七緒がその様子を見て、隣から細い指先を千春の視界に滑り込ませてきた。
「カメラ、毎日手入れしてるよね。大事なものなんだね」
「……手入れは日課みたいなものですけど」
数少ない父親との思い出と言える出来事、初老の男性との会話──。
きっと拙い表現でしか伝えられなかったあの頃の自分の気持ちを、的確にそして否定することなく寄り添ってくれたのが嬉しかったのだろう。
もうあの男性には会えなくなってしまったけれど、またこのカメラを使う時が巡ってきた。
独り暗い部屋の中で、そのカメラのシルエットを見てしまった時、なんだかいつも後ろめたい気持ちになった。
自分が写真を撮れなくなってしまったことよりも、あの日、多くを語らなくとも千春を理解し送り出してくれた彼に申し訳なかった。
「──大切なものではありますね」
夕焼けが一段と明るく見えた。
視界が開けて、そのまま──。
「このまま夕陽に向かって走りましょうか?」
などと山城が冗談混じりに笑う。
だからそれは、「本心に聞こえるからやめて欲しい」──千春はそう言って今度はみんなで笑った。
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