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新天の志
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ようやく一千段超の中ほどまで来た時、後ろから賑やかな集団がやって来た。
綿貫千春が振り返ると、そこそこ年配の、数人の女性たちの姿が見える。どんどん声が大きくなって、近づいてきているのがわかる。
敏感に察知した山城優一が、へばりそうな風月七緒の後ろに回り、彼女たちに道を譲る。
いつかの自然公園で出会ったマダムたち以上に元気で、悪縁などはなから寄せ付けなさそうなご婦人たちは、追い越し様に、主に七緒を見て口々にこう言った。
「若いのに情けない!」
「まだまだこれからが本番よ!」
「あらぁ、イケメンじゃないの!」
「手引いてあげようか?」
あはははは、とそれはもう夏空を切り裂く嵐のように通り抜けていった。いや、確かに青天の霹靂くらい場の雰囲気は一変したが、むしろ彼女たちが青天を連れて来たのかと思うほど爽やか一辺倒な一団だと、千春は風の余韻を感じながら思う。
しばらく彼女たちの背中を呆然と見送ってから、千春は振り向く。
「……お元気な方が、多いんですね……」
ついつい七緒を見ながら、そう呟いてしまった。ご年齢のわりには──とはさすがに言わなかったが、山城は気がついたようで、何度も頷いた。
「ご年配の方でも年齢より若く見える人が多いですね。全国的に労働者の年齢が上がっていることにも起因するのかもしれませんが、田舎町特有の畑仕事や地域の行事などにも積極的に参加しますし、見ての通り山が多い県ですから、登山やハイキングを趣味にされる方も多くいらっしゃいます。まぁ県内全域で見ればそういう方も少数なのかもしれませんが、年を重ねても元気で楽しくいられる人というのは、県の活性化にも繋がります。そういう方が多ければ多いほど、私としては心強いですね」
七緒が言ったように、階段を上るごとに煩悩が消えて行くと有名なこのお寺も、元より悩みや疲れを知らなさそうな彼女たちの前では形無しだ。
いや、もちろんそうは見えないだけで、彼女たちにもそれなりに苦悩や疲労はあるのだろう。
千春がまた一段、階段を上がった時、ふっと背後──左肩のあたりに何かの気配を感じた。
勢いよく振り向くと、3人のそばを一団とは全く雰囲気の異なる女性が今まさに追い越そうとしているところだった。
先ゆくご婦人たちのように溌剌としているわけでもなく、せかせかと急いでいるふうにも見えないのに、なぜか千春の肩に風を感じるほどの圧が彼女からは感じられた。
一段一段、踏みしめるというよりも、踏みつけるように、彼女は3人に一切目もくれず上を目指して行く。
千春のすぐ脇を通り過ぎる時、俯いたままの彼女がぶつぶつと何かを呟いていることに気がついた。
「…………われれば、いい……なく、なれば、いい……わり、たくない……くへ、いけ……いい……」
しかし、小さく低すぎて何を言っているかまでは聞き取れない。
やがて、彼女の背中が見えなくなる。千春は視線を感じた気がして、七緒たちのほうを振り向いた。山城はこういうことにも慣れているのか、彼女に特別関心はないようだが、七緒はじっと彼女の姿が消えた先を見つめていた。
「……七緒さん?」
「ん? あぁごめんごめん」
「あの人のこと、気になるんですか?」
「……まあね。まるで、呪詛みたいだなって、思っただけだよ」
「呪詛?」
「……先ほども言いましたが、縁切り寺ですから、中にはそういう方もいらっしゃいます。あそこまで露骨に悪意──いえ自分の気持ちを吐露する方は稀ですが」
「なんて言ってたか、聞こえたんですか?」
「呪われればいい、いなくなればいい、もう関わりたくない、遠くへ行けばいい……みたいなことを延々と、ね」
千春は思わず身震いした。
彼女の辛さもそうだが、おそらくその相手は彼女にそう思われていることにさえ気がついていない。自分の知らないところで、誰かにそこまで恨まれることがあるのかと考えたら、途端に自分の生きている世界が恐ろしくなる。
だからと言って、相手が悪いことをしたとも限らないわけで。千春は特に巻き込まれて逆恨みされることも多いからか、なんとなく相手に同情してしまう。とはいえ、彼女の置かれた状況を全く知りもしないのだから、同情する資格さえないのかもしれないが。
度々SNSで芸能人が誹謗中傷されているらしいが、それだって本人に責任がある場合もない場合もある。その責任の所在や有無について言及する立場にはないが、名も顔も知らぬ相手から言葉の刃を向けられるのは気味が悪いだろうと思う。
自分に対する発言でないと分かっていても、面と向かって彼女の声を聞いても、こんなに怖いのだ。
言葉も声も正確に届かない場所にいるのなら尚更、無意識なものも含めたあらゆる悪意は、呪詛のように本人に絡みついて、いつの間にか逃れられなくなっていく──。
千春は自分がその悪意たちに絡め取られる様を考えてしまって、思わず頭を振った。
「煩悩が消えると言われる階段を、むしろ煩悩を蓄積させながら上っているように見えるよね」
七緒が足元を見つめながら、静かに言う。
「あれが欲しいこれが欲しいではなく、いらない関わりたくないという、いわば負の感情も角度を変えてみれば、ある種の欲望には違いありませんからね。煩悩が消えるというのは、その負の感情から逃れることを意味しているはずで、できればここを訪れる人は皆そうであって欲しいと私はいつも願っているんです。──そういう想いで参拝する私も、実は煩悩まみれなのかもしれませんね」
そう言って苦笑する山城だったが、確かに負の感情から解放されて欲しいと感じるには、変な話だが、負の感情に苛まれる人の存在がなければならない。そしてそういう人が思いの外多いことから、山城や七緒などは願わずにはいられないのだろうと思う。
「よし、行こう」
「えっ? あ、ちょっと、七緒さん?」
前にいる千春を追い抜いて、七緒は再び階段を上り出す。千春は慌てて彼の後を追うが──。
「…………はぁはぁ、ごめん、ちょっと待って……」
「………………」
おそらく階数にしたら4・5階程度で、七緒は案の定息を上げた。
千春がなんとも言えずに見ていると、山城が水分補給を勧めてくれる。
「煩悩を消そうと思って上ったら、それがまさしく煩悩になってしまいますから。本末転倒にならないようにしたいですね、お互いに」
穏やかに笑う山城はしかし、満足そうに見えて、千春は不思議に思う。
「……山城さんは、煩悩とかなさそうですよね」
思わずそう呟くと、山城が千春の顔を覗き込んだ。
「それはつまり『悩みがなさそう』、『能天気に見える』ってことかな?」
口に含んだ水を吹き出しそうになる。
千春は慌ててぶんぶんと頭を振った。
「そそそ、そういう意味じゃなくて……!」
わかってるとでも言うように、むせかける千春の背中を撫でてくれる。
「まぁよく言われるけれどね。特に泉にはそりゃもう直球で」
「す、すみません……」
「いいんだよ。それが、千春くんから見た山城優一ならそれで」
「えっ」
「人っていうのは、見る人が変われば印象も変わる。人だけじゃなくて見るタイミングや、一緒に過ごす時間によっても変わるかもしれない。それこそ『千の見方、捉え方』があると思ってる。私は観光地にもそれは当てはまると考えていて、訪れる人や訪れるタイミング、訪れた回数なんかによって印象や感情なんてものはその時々で変わっていって、でもそれがその人のその時点での想いなら、私はそのどれもを肯定したいんですよ」
いつの間にか耳を傾けていた七緒にも視線を合わせて、山城は静かに言う。
「……自分が嫌われていてもですか?」
千春はカメラを握りしめ、俯いたまま訊ねる。
「そうやって言うとネガティブに聞こえるけれど、『万人と仲良く』というのは現実問題、難しくもあるからね。嫌われているから自分も嫌い! っていうのは人間として然もありなんとは思うけれど、それなら悪意を垂れ流すんじゃなく、距離を置くのが一番いい。相手にも自分にもちょうどいい距離感っていうのがあって、それを特別意識せずに保てる人が近しい関係になれる人なんだと思うんだよね。でもそれだってきっと、永遠じゃない。時と場合によって、そのちょうどいい距離感も変動してしまうものだから。──だからまずは、自分の手が届く範囲でいいんじゃないかな」
「自分の手が、届く範囲──」
「そう。無理にたくさんの人に手を伸ばさなくていい。嫌われる心当たりがあるなら、直そうとするのも一手だけど……」
山城は一度、言葉を切った。
そして、ゆっくり口を開く。
「君の場合はきっと、優しすぎるんだと思うよ」
「……えっ?」
──考えたことがなかった。
千春が山城を見上げると、彼は優しく微笑んでいる。
七緒も静かに頷いていて、千春は気恥ずかしさと今まで存在しなかった感情にどうしていいかわからなくなってしまう。
「さて。そろそろ行きましょうか。風月さんはあの方にお話したいことがあるんですよね」
「それなんですが──」
ようやく本堂まで上り切った時には、七緒はもう呼吸さえも怪しくなるくらいで、息を震わせて何度も大きく深呼吸した。
「お疲れ様でした」
山城はそう言いながら、辺りを見回す。そして、動けない七緒と慣れない場所に右往左往する千春を置いて、あるところへ駆けつける。
その後もいくつかのポイントを回って、やっと息が整ってきた七緒に「交渉成立です」と伝えに戻ってきた。
へたり込んでいた七緒は、なんとか立ち上がり、メモ帳とペンを取り出す。
彼は山城の辿ったポイントを適宜順番を変えておさらいするように、丁寧に巡った。千春はその後ろから、一部始終を山城と眺めていた。
視線の端には、呪詛を唱える彼女の姿をずっと捉えていて、彼の作戦が通じることを切に願った。
「ありがとうございました」
七緒は山城が声をかけた最後のポイントで頭を下げると、彼女の元へ歩みを進めた。
「すみません。僕、こういう者なんですが」
そう言って名刺を差し出す。
彼女は昏い瞳で一瞥すると、訝しげに七緒を見上げた。
「東京から取材に来ておりまして、有名なお寺と聞いて、ぜひ参拝される皆さんにもお話をお聞きしたいなと」
「……別に、遊びに来たわけじゃありませんから」
小さな声だったが、彼女は答えてくれた。
七緒はことさら穏やかな口調で言う。
「いいんですよ。あなたにはあなたの目的があって、誰に否定されるものでもありません。もし誰にも話したくないと言うなら、無理にとは申しません。ただ──」
「…………?」
「『せっかく来たんだから、前を向くのも、上を見上げるのも、一つの楽しみ方だ』と皆さんから伺ったもので。実は僕、ここまでの階段がきつくてきつくて。思えば、下しか見ていなかったような気がします。でも、前を向けば一緒に上ってくれる同志の姿があって、上を見上げれば同じ日同じ時間に出会った人たちの頼もしい背中があって──。こういうのもいいなぁと思ったんです。下だけ見てても苦しいだけで解決しないことも、前や上を見れば『意外とどうにかなるかも』なんて。あ、単純な奴だと思いました? でも、そういう何気ない小さなことが、ちょっとずつ積み重なっていけば、『本当にどうにかなる』かもしれませんよね」
七緒のちょっとおどけた、今風の若者を不器用ながら演じる姿に、彼女がほんの少しだけ頬を緩めた。
「苦しい辛いなんて、一歩一歩、嫌なことを積み重ねるより、時折立ち止まりながらでも、また一歩もう一歩、前に進めた、上を目指した、そういうほうが心持ちもなんだか軽くなるような気がして。病は気からなんてよく言いますが、本当にそうかもしれません。少なくとも僕はそう感じたので。あ、すみません。僕の話になっちゃって。もし、よろしければインタビューご協力いただけませんか?」
「…………私、縁を切りに来たんです」
「はい」
七緒は微笑んだまま頷いた。
驚かないことに驚いた様子の彼女だったが、そのまま続ける。
「夫と、それから今の自分と」
口を挟まず、七緒は先を促す。
「夫のことも苛立つし許せないけれど、もっと嫌になるのはそういう悪態をついて何も好転させられない自分──そんな自分を変えたくて、ここに来たんです」
「……変えられそうですか?」
「階段を上ってる時よりは、そう思ってる、かな」
七緒の真似をしたのか、彼女は初めて無邪気に笑った。
丁寧にお礼をして別れると、七緒は「そっか」と呟いた。
「なんですか?」
「呪われればいい、いなくなればいい、もう関わりたくない、遠くへ行けばいい──もしかしたら、最初から全部、自分に対して言っていたのかなって……あぁいや、今の自分に対して、ね」
確かに、そう取れなくもない。
負の感情は相手に向かうこともあれば、自分に向かうこともある。突き詰めればそれが犯罪や自傷につながるのかもしれないが、どちらにしても起こる前に止められるのが一番だ。
この階段を上って得られた経験は、それだけではない。
千春は七緒の意外な一面を見た。
根っからの文系で運動が不得手。体力がなく、脂肪もないが筋肉もない。精神面で余裕がなくなることは稀だが、疲れたり体に負担がかかったりすると、途端に頭の回転も鈍くなって推理が働かない。
それでも周りを見る観察力や、物事を的確に捉える洞察力は見事に発揮されている。
思うに、彼にとって観察や洞察はほとんど意識せずに自然とできるのではないかと千春はここに来てそう感じている。
推理に関しては集めた情報を整理して並べ直す作業が必要なので、おそらく一筋縄ではいかないのだろう。千春から見れば、それだって簡単にできそうなイメージなのだが。
ともあれ、彼はこの後、もう一つの難関を突破しなければならない。
ここまで上ってきたら、当然、下りることになる。
「…………もう少し、休憩しても、いいですか?」
七緒のあまり見ない引き攣った表情に、千春と山城は顔を見合わせて、頷いた。
その日。『千の選択編集部』のSNSには、寺の参拝客らのインタビューと階段の遠景ではなく、一段一段の苔むした感じがよくわかる近景の写真をアップした。
『距離感というのは難しいもので、自分で上ってみてよく分かりましたが、苦しい時はこんなにも遠く見えるものが、辿り着くと急に視界が開けて眩しく見えるのです。旅先で全ての願いを叶えるのが難しいように、日々どこかで妥協して百歩譲って生活している私たちですが、何度も同じ場所を訪れればその妥協も譲った百歩もいつか取り戻せるかもしれません。一歩ずつ少しずつ、相手や自分との距離感を図って、いつか最適解を見つけることもできるかもしれません。縁切り寺と有名ですが、悪縁を断ち切って開運を導くためにも。その、一歩のきっかけに──あなたも階段を上ってみませんか?』
綿貫千春が振り返ると、そこそこ年配の、数人の女性たちの姿が見える。どんどん声が大きくなって、近づいてきているのがわかる。
敏感に察知した山城優一が、へばりそうな風月七緒の後ろに回り、彼女たちに道を譲る。
いつかの自然公園で出会ったマダムたち以上に元気で、悪縁などはなから寄せ付けなさそうなご婦人たちは、追い越し様に、主に七緒を見て口々にこう言った。
「若いのに情けない!」
「まだまだこれからが本番よ!」
「あらぁ、イケメンじゃないの!」
「手引いてあげようか?」
あはははは、とそれはもう夏空を切り裂く嵐のように通り抜けていった。いや、確かに青天の霹靂くらい場の雰囲気は一変したが、むしろ彼女たちが青天を連れて来たのかと思うほど爽やか一辺倒な一団だと、千春は風の余韻を感じながら思う。
しばらく彼女たちの背中を呆然と見送ってから、千春は振り向く。
「……お元気な方が、多いんですね……」
ついつい七緒を見ながら、そう呟いてしまった。ご年齢のわりには──とはさすがに言わなかったが、山城は気がついたようで、何度も頷いた。
「ご年配の方でも年齢より若く見える人が多いですね。全国的に労働者の年齢が上がっていることにも起因するのかもしれませんが、田舎町特有の畑仕事や地域の行事などにも積極的に参加しますし、見ての通り山が多い県ですから、登山やハイキングを趣味にされる方も多くいらっしゃいます。まぁ県内全域で見ればそういう方も少数なのかもしれませんが、年を重ねても元気で楽しくいられる人というのは、県の活性化にも繋がります。そういう方が多ければ多いほど、私としては心強いですね」
七緒が言ったように、階段を上るごとに煩悩が消えて行くと有名なこのお寺も、元より悩みや疲れを知らなさそうな彼女たちの前では形無しだ。
いや、もちろんそうは見えないだけで、彼女たちにもそれなりに苦悩や疲労はあるのだろう。
千春がまた一段、階段を上がった時、ふっと背後──左肩のあたりに何かの気配を感じた。
勢いよく振り向くと、3人のそばを一団とは全く雰囲気の異なる女性が今まさに追い越そうとしているところだった。
先ゆくご婦人たちのように溌剌としているわけでもなく、せかせかと急いでいるふうにも見えないのに、なぜか千春の肩に風を感じるほどの圧が彼女からは感じられた。
一段一段、踏みしめるというよりも、踏みつけるように、彼女は3人に一切目もくれず上を目指して行く。
千春のすぐ脇を通り過ぎる時、俯いたままの彼女がぶつぶつと何かを呟いていることに気がついた。
「…………われれば、いい……なく、なれば、いい……わり、たくない……くへ、いけ……いい……」
しかし、小さく低すぎて何を言っているかまでは聞き取れない。
やがて、彼女の背中が見えなくなる。千春は視線を感じた気がして、七緒たちのほうを振り向いた。山城はこういうことにも慣れているのか、彼女に特別関心はないようだが、七緒はじっと彼女の姿が消えた先を見つめていた。
「……七緒さん?」
「ん? あぁごめんごめん」
「あの人のこと、気になるんですか?」
「……まあね。まるで、呪詛みたいだなって、思っただけだよ」
「呪詛?」
「……先ほども言いましたが、縁切り寺ですから、中にはそういう方もいらっしゃいます。あそこまで露骨に悪意──いえ自分の気持ちを吐露する方は稀ですが」
「なんて言ってたか、聞こえたんですか?」
「呪われればいい、いなくなればいい、もう関わりたくない、遠くへ行けばいい……みたいなことを延々と、ね」
千春は思わず身震いした。
彼女の辛さもそうだが、おそらくその相手は彼女にそう思われていることにさえ気がついていない。自分の知らないところで、誰かにそこまで恨まれることがあるのかと考えたら、途端に自分の生きている世界が恐ろしくなる。
だからと言って、相手が悪いことをしたとも限らないわけで。千春は特に巻き込まれて逆恨みされることも多いからか、なんとなく相手に同情してしまう。とはいえ、彼女の置かれた状況を全く知りもしないのだから、同情する資格さえないのかもしれないが。
度々SNSで芸能人が誹謗中傷されているらしいが、それだって本人に責任がある場合もない場合もある。その責任の所在や有無について言及する立場にはないが、名も顔も知らぬ相手から言葉の刃を向けられるのは気味が悪いだろうと思う。
自分に対する発言でないと分かっていても、面と向かって彼女の声を聞いても、こんなに怖いのだ。
言葉も声も正確に届かない場所にいるのなら尚更、無意識なものも含めたあらゆる悪意は、呪詛のように本人に絡みついて、いつの間にか逃れられなくなっていく──。
千春は自分がその悪意たちに絡め取られる様を考えてしまって、思わず頭を振った。
「煩悩が消えると言われる階段を、むしろ煩悩を蓄積させながら上っているように見えるよね」
七緒が足元を見つめながら、静かに言う。
「あれが欲しいこれが欲しいではなく、いらない関わりたくないという、いわば負の感情も角度を変えてみれば、ある種の欲望には違いありませんからね。煩悩が消えるというのは、その負の感情から逃れることを意味しているはずで、できればここを訪れる人は皆そうであって欲しいと私はいつも願っているんです。──そういう想いで参拝する私も、実は煩悩まみれなのかもしれませんね」
そう言って苦笑する山城だったが、確かに負の感情から解放されて欲しいと感じるには、変な話だが、負の感情に苛まれる人の存在がなければならない。そしてそういう人が思いの外多いことから、山城や七緒などは願わずにはいられないのだろうと思う。
「よし、行こう」
「えっ? あ、ちょっと、七緒さん?」
前にいる千春を追い抜いて、七緒は再び階段を上り出す。千春は慌てて彼の後を追うが──。
「…………はぁはぁ、ごめん、ちょっと待って……」
「………………」
おそらく階数にしたら4・5階程度で、七緒は案の定息を上げた。
千春がなんとも言えずに見ていると、山城が水分補給を勧めてくれる。
「煩悩を消そうと思って上ったら、それがまさしく煩悩になってしまいますから。本末転倒にならないようにしたいですね、お互いに」
穏やかに笑う山城はしかし、満足そうに見えて、千春は不思議に思う。
「……山城さんは、煩悩とかなさそうですよね」
思わずそう呟くと、山城が千春の顔を覗き込んだ。
「それはつまり『悩みがなさそう』、『能天気に見える』ってことかな?」
口に含んだ水を吹き出しそうになる。
千春は慌ててぶんぶんと頭を振った。
「そそそ、そういう意味じゃなくて……!」
わかってるとでも言うように、むせかける千春の背中を撫でてくれる。
「まぁよく言われるけれどね。特に泉にはそりゃもう直球で」
「す、すみません……」
「いいんだよ。それが、千春くんから見た山城優一ならそれで」
「えっ」
「人っていうのは、見る人が変われば印象も変わる。人だけじゃなくて見るタイミングや、一緒に過ごす時間によっても変わるかもしれない。それこそ『千の見方、捉え方』があると思ってる。私は観光地にもそれは当てはまると考えていて、訪れる人や訪れるタイミング、訪れた回数なんかによって印象や感情なんてものはその時々で変わっていって、でもそれがその人のその時点での想いなら、私はそのどれもを肯定したいんですよ」
いつの間にか耳を傾けていた七緒にも視線を合わせて、山城は静かに言う。
「……自分が嫌われていてもですか?」
千春はカメラを握りしめ、俯いたまま訊ねる。
「そうやって言うとネガティブに聞こえるけれど、『万人と仲良く』というのは現実問題、難しくもあるからね。嫌われているから自分も嫌い! っていうのは人間として然もありなんとは思うけれど、それなら悪意を垂れ流すんじゃなく、距離を置くのが一番いい。相手にも自分にもちょうどいい距離感っていうのがあって、それを特別意識せずに保てる人が近しい関係になれる人なんだと思うんだよね。でもそれだってきっと、永遠じゃない。時と場合によって、そのちょうどいい距離感も変動してしまうものだから。──だからまずは、自分の手が届く範囲でいいんじゃないかな」
「自分の手が、届く範囲──」
「そう。無理にたくさんの人に手を伸ばさなくていい。嫌われる心当たりがあるなら、直そうとするのも一手だけど……」
山城は一度、言葉を切った。
そして、ゆっくり口を開く。
「君の場合はきっと、優しすぎるんだと思うよ」
「……えっ?」
──考えたことがなかった。
千春が山城を見上げると、彼は優しく微笑んでいる。
七緒も静かに頷いていて、千春は気恥ずかしさと今まで存在しなかった感情にどうしていいかわからなくなってしまう。
「さて。そろそろ行きましょうか。風月さんはあの方にお話したいことがあるんですよね」
「それなんですが──」
ようやく本堂まで上り切った時には、七緒はもう呼吸さえも怪しくなるくらいで、息を震わせて何度も大きく深呼吸した。
「お疲れ様でした」
山城はそう言いながら、辺りを見回す。そして、動けない七緒と慣れない場所に右往左往する千春を置いて、あるところへ駆けつける。
その後もいくつかのポイントを回って、やっと息が整ってきた七緒に「交渉成立です」と伝えに戻ってきた。
へたり込んでいた七緒は、なんとか立ち上がり、メモ帳とペンを取り出す。
彼は山城の辿ったポイントを適宜順番を変えておさらいするように、丁寧に巡った。千春はその後ろから、一部始終を山城と眺めていた。
視線の端には、呪詛を唱える彼女の姿をずっと捉えていて、彼の作戦が通じることを切に願った。
「ありがとうございました」
七緒は山城が声をかけた最後のポイントで頭を下げると、彼女の元へ歩みを進めた。
「すみません。僕、こういう者なんですが」
そう言って名刺を差し出す。
彼女は昏い瞳で一瞥すると、訝しげに七緒を見上げた。
「東京から取材に来ておりまして、有名なお寺と聞いて、ぜひ参拝される皆さんにもお話をお聞きしたいなと」
「……別に、遊びに来たわけじゃありませんから」
小さな声だったが、彼女は答えてくれた。
七緒はことさら穏やかな口調で言う。
「いいんですよ。あなたにはあなたの目的があって、誰に否定されるものでもありません。もし誰にも話したくないと言うなら、無理にとは申しません。ただ──」
「…………?」
「『せっかく来たんだから、前を向くのも、上を見上げるのも、一つの楽しみ方だ』と皆さんから伺ったもので。実は僕、ここまでの階段がきつくてきつくて。思えば、下しか見ていなかったような気がします。でも、前を向けば一緒に上ってくれる同志の姿があって、上を見上げれば同じ日同じ時間に出会った人たちの頼もしい背中があって──。こういうのもいいなぁと思ったんです。下だけ見てても苦しいだけで解決しないことも、前や上を見れば『意外とどうにかなるかも』なんて。あ、単純な奴だと思いました? でも、そういう何気ない小さなことが、ちょっとずつ積み重なっていけば、『本当にどうにかなる』かもしれませんよね」
七緒のちょっとおどけた、今風の若者を不器用ながら演じる姿に、彼女がほんの少しだけ頬を緩めた。
「苦しい辛いなんて、一歩一歩、嫌なことを積み重ねるより、時折立ち止まりながらでも、また一歩もう一歩、前に進めた、上を目指した、そういうほうが心持ちもなんだか軽くなるような気がして。病は気からなんてよく言いますが、本当にそうかもしれません。少なくとも僕はそう感じたので。あ、すみません。僕の話になっちゃって。もし、よろしければインタビューご協力いただけませんか?」
「…………私、縁を切りに来たんです」
「はい」
七緒は微笑んだまま頷いた。
驚かないことに驚いた様子の彼女だったが、そのまま続ける。
「夫と、それから今の自分と」
口を挟まず、七緒は先を促す。
「夫のことも苛立つし許せないけれど、もっと嫌になるのはそういう悪態をついて何も好転させられない自分──そんな自分を変えたくて、ここに来たんです」
「……変えられそうですか?」
「階段を上ってる時よりは、そう思ってる、かな」
七緒の真似をしたのか、彼女は初めて無邪気に笑った。
丁寧にお礼をして別れると、七緒は「そっか」と呟いた。
「なんですか?」
「呪われればいい、いなくなればいい、もう関わりたくない、遠くへ行けばいい──もしかしたら、最初から全部、自分に対して言っていたのかなって……あぁいや、今の自分に対して、ね」
確かに、そう取れなくもない。
負の感情は相手に向かうこともあれば、自分に向かうこともある。突き詰めればそれが犯罪や自傷につながるのかもしれないが、どちらにしても起こる前に止められるのが一番だ。
この階段を上って得られた経験は、それだけではない。
千春は七緒の意外な一面を見た。
根っからの文系で運動が不得手。体力がなく、脂肪もないが筋肉もない。精神面で余裕がなくなることは稀だが、疲れたり体に負担がかかったりすると、途端に頭の回転も鈍くなって推理が働かない。
それでも周りを見る観察力や、物事を的確に捉える洞察力は見事に発揮されている。
思うに、彼にとって観察や洞察はほとんど意識せずに自然とできるのではないかと千春はここに来てそう感じている。
推理に関しては集めた情報を整理して並べ直す作業が必要なので、おそらく一筋縄ではいかないのだろう。千春から見れば、それだって簡単にできそうなイメージなのだが。
ともあれ、彼はこの後、もう一つの難関を突破しなければならない。
ここまで上ってきたら、当然、下りることになる。
「…………もう少し、休憩しても、いいですか?」
七緒のあまり見ない引き攣った表情に、千春と山城は顔を見合わせて、頷いた。
その日。『千の選択編集部』のSNSには、寺の参拝客らのインタビューと階段の遠景ではなく、一段一段の苔むした感じがよくわかる近景の写真をアップした。
『距離感というのは難しいもので、自分で上ってみてよく分かりましたが、苦しい時はこんなにも遠く見えるものが、辿り着くと急に視界が開けて眩しく見えるのです。旅先で全ての願いを叶えるのが難しいように、日々どこかで妥協して百歩譲って生活している私たちですが、何度も同じ場所を訪れればその妥協も譲った百歩もいつか取り戻せるかもしれません。一歩ずつ少しずつ、相手や自分との距離感を図って、いつか最適解を見つけることもできるかもしれません。縁切り寺と有名ですが、悪縁を断ち切って開運を導くためにも。その、一歩のきっかけに──あなたも階段を上ってみませんか?』
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