11 / 68
新天の志
将来の真価
しおりを挟む
綿貫千春と風月七緒は、山城優一の運転する車に乗っても、黙ったままだった。
あの山城でさえも、必要最低限のことしか話さなかった。
昼食は予約してあるし、午後の予定も取材のアポを取っているため、スケジュールは動かせない。進まなきゃならないことは誰もがわかりきっていた。
「あの、山城さん。午後の取材が終わった後、もう一度ここに寄っていただけますか?」
「…………私も」
女子高生のことを考えながら、窓外を見ていた千春が七緒の声に振り向く。
「私もそう思っていたんです!!」
と、山城の静かな返答が急に大きくなって、思わずぴくりと体を揺らした。
彼は、「この後の予定が全て終わって15時、おふたりを付き合わせるのもどうかと思い、一度Y市に戻ってここにまた来たらとか、別の近くのおすすめスポットにご案内して私は別行動するとか、色々考えたのですが、いやぁ~言っていただけてよかった、ありがとうございます、風月さん!」とそれはもう捲し立てるようにほとんど一息で言い終えた。千春の印象としては顔を後ろに向けて頭を下げる勢いに思えて、無駄にハラハラしてしまう。
もちろんそんなことはなく、山城は前を向いたままだし、七緒は愛想良くウンウンと頷いていた。
千春はその行動にどんな意図があるのかわからなかったが、女子高生のことはやはり気になる。特に異論はなかった。
とりあえずの見通しが立ったこともあって、昼食も午後の取材も普段通りに時が過ぎ、15時半頃、午前中の神社にもう一度立ち寄る。
社務所の男性は驚いていたが、彼女が再び訪れた様子はないという。
ハンカチを落としたことに気がついていないのか、それとも血に濡れたハンカチなどもういらないということか──。
血の汚れは洗ってもなかなか落ちないと言うし、山城は『洗濯する』などと言っていたが、何か考えがあるのだろうか。
ともあれ、千春には未だにふたりがなぜここに来たいと思ったのかわからないので、黙って後ろをついて行くことにした。
夕方近くなってくると、やはりY市内の公園と同じく、散歩などの人が多くなった気がする。
神社から公園に向かって歩いていると、彼女と同じ制服の女の子がきょろきょろと走ってくるところだった。
手にはスマホを握り締めていて、3人の姿を認めると、「あっ!」という顔で走り寄ってきた。
「すみません、この辺でこの子見ませんでしたか?」
それは午前中に会った彼女──皐月だった。
「皐月さんだよね」
38歳にしては雰囲気が軽薄そうな山城だが、さすがに『ちゃん』とは呼ばないらしい。
そういうところは公務員及び県職員という立場を守り切っている。
目の前の彼女はびっくりしたように、山城に詰め寄る。
「知ってるんですか!?」
「午前中ここで会ったよ。学校はサボっているみたいだったけど、あの後も学校には行かなかったのかな」
「今日一日来てなくて……それは別に珍しいことじゃないんだけど、これ、これ見て、なんか心配になっちゃって……」
彼女が泣きそうな顔で差し出したスマホの画面には、おそらく皐月のアカウントと思われるSNSの投稿があった。
『もう全部、真っ白にしたい』──。
それは不穏な響きを持って、3人それぞれに衝撃を与えた。
今の千春たちには皐月の『自傷行為』が、頭の中を占めている。何かの拍子でエスカレートすることは十分考えられる。
でも、『自傷行為』のためには当然刃物が必要だ。カッターやカミソリなどを持っているとしたら、わざわざここに来るだろうか?
千春がその謎を七緒にこっそり訊ねると、七緒は深刻な面持ちで首を振った。
「いや、あれはたぶん、生きるための『自傷』だよ。『自殺未遂』とは違う」
「……生きるため?」
「制服の血がついていた位置、覚えてる?」
「脇腹の辺りですよね」
「そう。脇腹を怪我しているのでなければ、おそらく血がついた腕を下ろしたところが、あの位置なんじゃないかと思う」
「でも、手首が触れちゃっただけとかじゃ?」
「いや、手首だとしたら、少しの傷でももっと血が出る。あんなちょっとの汚れじゃ済まないよ。髭を剃る時とかに顔を傷つけちゃうことがあるけど、ああいう感じで切った時のものだよ」
「ってことは?」
「もし、本当に彼女が『真っ白にしたい』と思ったら、別の方法をとることは十分にあり得る」
傍らでその話を聞いていた山城が意を決したように言う。
「……探そう」
「ええ、僕たちも一緒に」
七緒が続くと、離れたところでSNSや友達とのやり取りをチェックしている彼女が、ハッと振り返った。
「いいんですか!? お願いします」
お願いします、と何度も頭を下げる彼女は、弥生と名乗った。
「でも、どこを探せば──」
千春の途方に暮れた一言で、弥生は落ち込み、山城は思案した。しかし、七緒は弥生に向かって訊ねる。
「弥生さんは、何か理由があってここに来たんだよね? 皐月さんの行くあてに心当たりがあるとか」
「……ここ皐月のお気に入りの場所なんです。静かで、誰にも邪魔されずに、真っ白になれるから──って」
「真っ白?」
「……皐月、嫌なことがあるとよく言うんです。たぶん、『何も考えたくない』とか『全部なかったことにしたい』とか、そういう意味だと思うんですけど」
「何かに悩んでたんだね」
「……どうだろう。特定の『何か』ってわけじゃないんじゃないかな」
「えっ?」
「そういう時の皐月はたぶん『何か』じゃなくて、『何もかも』なんじゃないかなって……」
弥生のその言葉に、千春はふっと何かが腑に落ちた気がした。
「だから、『真っ白にしたい』って言ったら、ここかもって」
「そう。じゃあ手分けして探そう。山城さんは念のため神社のほうをもう一度。社務所の方が見ていないだけで、実はいるかもしれませんから」
「わかりました」
「僕は地図を持ってるから、この辺りを探してみる。土地勘のある弥生さんと千春くんは一緒に、心当たりを探してみて。千春くん、望遠レンズ持ってるよね。普段は人が入らなさそうなところも、一応見ておいたほうがいいと思う」
「わかりました」
七緒の的確な指示に、千春たちは三々五々散っていく。
弥生と並んで公園内を走りながら、千春は先ほどの彼女の言葉を反芻する。
『何か』じゃなくて、『何もかも』──。
それは千春にもなんとなくわかる気がする。
もちろん明確に嫌なこともある。七緒と出会う直前、無実の罪でアルバイトをクビになったこともそうだ。
──けれど、それだけじゃない。
帰った時の家族のなんとも言えない反応であったり、学生時代のどことなく腫れ物に触るような空気であったり、これまでの人生で口に出すほどじゃないけれど、心が少しざわめくくらいの出来事はたくさんあった。
そのどれもを感じなかったら幸せなのに、と思ったことも一度や二度ではない。
「千春さん?」
息を切らしながら、立ち止まってしまった千春を振り向き、弥生が駆け寄ってくる。
「……橋、ってあるかな」
「えっ?」
「ここに橋ってある?」
「えっと、いくつかありますけど……」
「赤い橋なんてないよね?」
「ありますよ、本丸に続く橋です」
「そこに行こう」
「ええっ?」
なんで? と言わんばかりの顔で見上げてくる弥生を促して、千春はそこへ案内させる。
辿り着く前に、ちょうど向かい側からその赤い橋が見えてきて、そこには制服の女子高生がいた。
カメラも望遠レンズも使わなくたってわかる。
あれは皐月だ。
弥生が千春よりも早く走り出していた。
スカートを翻し、肩までの髪も振り乱して、皐月に抱きつかんばかりの勢いで、肩を掴んだ。
「……弥生……」
「皐月! もう馬鹿馬鹿! 心配したんだから!」
弥生は涙声でそう言うと、皐月を本当に抱き締めた。
千春は七緒と山城に、無事見つかったことを報告し、やがて2人も合流した。
皐月と弥生の積もる話もあるだろうと、少し遠巻きに様子を伺う3人だったが、七緒がふと千春に訊ねた。
「どうして橋だと思ったの?」
「…………なんとなくです」
そう、本当に『なんとなく』。自分だったらそうするかもしれないくらいの根拠しかない。
ただ、探す前に七緒と話した『生きるための自傷』と、『真っ白にしたい』という言葉、そしてハンカチを『洗濯する』といった山城の声がいっぺんに脳内を駆け巡った気がしただけだ。
死ぬためじゃなく生きるために、赤く染まったハンカチを真っ白にするんだとしたら、水が必要で、ハンカチがないなら赤い何かが必要かもしれない。
論理的とは全くもって言い難いけれど、千春の勘は当たったらしかった。
「皐月! これ何!?」
スマホの画面を見せつけ怒る弥生に、タジタジと皐月が後ずさる。
「えっと、それは……」
また左腕を抑えている。
言い淀んでいるところを見るに、『自傷行為』のことを弥生は知らないのだろう。
「ねえ、皐月。もしかして、ここから飛び込もうとか考えてないよね!?」
ずいぶんストレートに聞く。千春はハラハラしながら、皐月の返答を待ったが、彼女はと言えば──。
「えっ……?」
何を言っているのかわからない、というキョトンとした表情で、首を傾げた。
「は?」
その反応に、弥生も首を傾げる。
「えっと……それは、その……頭をね、真っ白にしたいっていう意味で……」
はああ、と弥生と、ついでに千春たち3人も大きくため息を吐く。
まぁ大事に至らなくて良かったと喜ぶべきだろう。
「弥生……心配してくれたんだね……ありがと……」
「ううん。友達なんだから、当たり前じゃん!」
「あとね、ごめんついでにもう一つ……」
「もう、なに?」
「弥生からもらったお守り、なくしちゃった」
「え?」
それはここ城跡と神社にゆかりのある人物の格言を入れたお守りらしく、ふたりお揃いで持っていたという。
「もういいよ、そんなこと」
「でも、あれがないと、弥生と約束した夢、叶えられない気がして……」
泣きそうな顔で俯く皐月の手を、弥生がそっと握る。励ましや慰めを言うのは簡単だけれど、安易に言葉だけで解決したくないように感じられた。
「──探そう」
聞いていないふりを貫いていたように見えた山城が静かに言った。
「そうですね、みんなで一緒に」
七緒も、そして千春も頷く。
弥生はまた明るい笑顔で、3人にお礼を言うと、今度は5人で探すことになった。
再び、三々五々散った面々は、それぞれの行く先で仲間を集め、最後には小学生やら近所のお年寄りやら、お母さんたちに社務所の人まで巻き込んで、20人ほどの大所帯になっていた。
そして、ようやく見つかったのは、日の長くなったこの時期でも、さすがに夜の帳が落ち始めた19時前。
「あったーーーーー!!!!!」
誰かの声が響き渡り、千春が駆けつけた時には、皐月と弥生がお揃いのお守りを持って、泣きながら笑い合っていた。
千春は思わずカメラを構える。
SNSに載せるためじゃない、今この瞬間が美しいと思える、そんな写真を──。
ふたりの影はまるで、武将が勝鬨を上げるように勇ましくさえ見えた。
「私ね、弥生と約束した夢、親に反対されてるんだ」
「え、でも、親には言ってないって……」
「うん。言わないつもりだった。だけど、バレちゃったんだよね。弥生のSNSで」
「……えっ?」
「うちの親、こっそり私のSNS見てんの。キモいって思うんだけどさ、その時、弥生のアカウントに去年の七夕の写真が載ってて。短冊に私たちの夢を書いたやつ」
「……うん」
「別に弥生を責めてるんじゃないよ」
「うん」
「でも、私はあの頃からSNSが怖くなった、憎くなった。写真も、撮らなくなったし、撮られるのも嫌になった」
「……ごめん」
「ううん。弥生に対しては嫌な感情はないよ、これはほんと。でも、なんだろ……うまく言えないんだけど、そういううまく言えない、自分のこと、他人のこと、SNSとか親とか、将来のこと。もうぜーんぶ私の頭の中からなくなっちゃえばいいのに、って思ってた」
「うん」
「でも、真っ白にする方法なんてわかんなくて、つい魔がさして、腕をね、切ったことがあるんだ」
皐月はそっと袖を捲った。
弥生が暗闇に沈んでいてもわかる、泣きそうな瞳でその痛々しい傷を見つめる。
「その時、真っ白になったの。痛みとか怖さとかも何も無くなって、でも血だけは出るの。あぁ、私、生きてるんだなぁって。真っ白になってもちゃんと生きてるじゃん、って。じゃあ、真っ白になりたいなって。そう思ったら、もう癖になってた。嫌なことがあると、ううん、特別嫌なことがなくても、傷つけちゃうの。いつの間にか。怖いよね。で、真っ白なハンカチでその血を拭くとね、当たり前だけどハンカチが赤くなって。それをまた真っ白に戻すのが、なんか、わかんないけど、心地良かったんだよね。真っ白になる擬似体験? みたいな」
「う、うん?」
言っていることがよくわからなくなってきたのか、弥生が曖昧に頷く。
千春にはなんとなくわかるような気がした。
「わかるよ」
思わず呟いてしまう。
「えっ?」
意外そうな表情で、皐月と弥生が同時に聞き返した。
カメラを見つめながら、無言で微笑む千春に、彼女たちもお互い顔を見合わせて笑い合った。
「もう私には途中からよくわかんなかったけど、夢を叶えたいって気持ちはあるんだよね?」
「もちろん」
「じゃあもうそれでいいや! SNSは皐月が嫌ならやらないし、夢のことは私も一緒に皐月のパパとママ説得する!」
「いいの?」
「うん」
「説得できなくても?」
「その時はその時、考えよ! ほら!」
お守りの格言を掲げて、またキャッキャとふたりで笑う。
「案外、夢って、意外なことで叶うものだよ」
山城が大人らしい──いや、あえて言うなら『おじさん』らしいことを言うと、彼女たちは大きな声で笑い転げた。
端が転んでもおかしい年頃らしい。
ひと笑い終えた後、皐月が山城の前で頭を下げた。
「キモいとか言ってごめんなさい。たぶん、真っ白にすることで頭が真っ白になっちゃってたんだと思います。すみませんでした」
「いいよいいよ、あんな声のかけ方したら、そりゃキモいよね」
笑って許す山城を見て、皐月と弥生は今度は一緒にはにかみ合った。
「あ、そうだ。もしふたりが嫌じゃなかったら、でいいんだけど」
続く七緒の言葉に、ふたりは満面の笑みで頷いた。
その日のSNSの写真は、お守りを見つけたふたりと、周りで喜ぶ社務所の男性や小学生たち、ついでに言うなら誰より大喜びしている山城の姿まで写っている、あたたかな一枚だった。
『旅先での出会いというのは、時に一生忘れられない出会いになるものです。皆さんの未来に、ご多幸あれ!』
そして、相変わらず想像力を掻き立てる、今回はやけに短い文面で七緒は投稿した。
千春が思わず撮ったふたりだけの写真は、彼女たちだけにあげることにした。
ふたり以外の写真に写っている人たちにも、七緒や山城が声をかけてくれたらしく、ほとんど顔が写っていないこともあって、全員が快諾してくれた。
遅い帰路に着いた時、野暮かもしれないと思いつつ、千春は七緒に訊ねた。
「もしかして、七緒さんって、皐月……さんの夢わかったりします?」
「あはは。さすがに僕でもわからないよ。でも……」
「でも?」
「きっと、茨の道だろうね」
「え?」
「『第一志望に進みたい』って絵馬に書いてあったでしょ。『大学に合格したい』とか、『〇〇になりたい』とかじゃなくて」
「はい」
「『第一志望』って濁したのは、絵馬が不特定多数の人に見られるのが怖かったからもあると思うけど、わざわざそういう書き方するのって、進路志望に書く『第一志望』とは違うんじゃないかって思わない? あくまで自分の心の中の『第一志望』で、そこに『進みたい』ってことは、『進むのは困難』だと感じているってこと。だから──」
──『茨の道』か。
千春はすっかり暮れてしまった道を見つめながら、カメラを握る。
「まあでも、前を向いてくれて良かったです。これももういらないですかね」
山城もさすがに疲れたのか、静かな口調でそう言った。自分のハンカチに包まれた皐月のハンカチが助手席に置かれている。
「返しそびれちゃって」
と照れくさそうに笑う山城の声よりも、千春にはもっと大きく、
──『案外、夢って、意外なことで叶うものだよ』。
さっきの台詞が頭の中で心地よく響いた、そんな気がした。
あの山城でさえも、必要最低限のことしか話さなかった。
昼食は予約してあるし、午後の予定も取材のアポを取っているため、スケジュールは動かせない。進まなきゃならないことは誰もがわかりきっていた。
「あの、山城さん。午後の取材が終わった後、もう一度ここに寄っていただけますか?」
「…………私も」
女子高生のことを考えながら、窓外を見ていた千春が七緒の声に振り向く。
「私もそう思っていたんです!!」
と、山城の静かな返答が急に大きくなって、思わずぴくりと体を揺らした。
彼は、「この後の予定が全て終わって15時、おふたりを付き合わせるのもどうかと思い、一度Y市に戻ってここにまた来たらとか、別の近くのおすすめスポットにご案内して私は別行動するとか、色々考えたのですが、いやぁ~言っていただけてよかった、ありがとうございます、風月さん!」とそれはもう捲し立てるようにほとんど一息で言い終えた。千春の印象としては顔を後ろに向けて頭を下げる勢いに思えて、無駄にハラハラしてしまう。
もちろんそんなことはなく、山城は前を向いたままだし、七緒は愛想良くウンウンと頷いていた。
千春はその行動にどんな意図があるのかわからなかったが、女子高生のことはやはり気になる。特に異論はなかった。
とりあえずの見通しが立ったこともあって、昼食も午後の取材も普段通りに時が過ぎ、15時半頃、午前中の神社にもう一度立ち寄る。
社務所の男性は驚いていたが、彼女が再び訪れた様子はないという。
ハンカチを落としたことに気がついていないのか、それとも血に濡れたハンカチなどもういらないということか──。
血の汚れは洗ってもなかなか落ちないと言うし、山城は『洗濯する』などと言っていたが、何か考えがあるのだろうか。
ともあれ、千春には未だにふたりがなぜここに来たいと思ったのかわからないので、黙って後ろをついて行くことにした。
夕方近くなってくると、やはりY市内の公園と同じく、散歩などの人が多くなった気がする。
神社から公園に向かって歩いていると、彼女と同じ制服の女の子がきょろきょろと走ってくるところだった。
手にはスマホを握り締めていて、3人の姿を認めると、「あっ!」という顔で走り寄ってきた。
「すみません、この辺でこの子見ませんでしたか?」
それは午前中に会った彼女──皐月だった。
「皐月さんだよね」
38歳にしては雰囲気が軽薄そうな山城だが、さすがに『ちゃん』とは呼ばないらしい。
そういうところは公務員及び県職員という立場を守り切っている。
目の前の彼女はびっくりしたように、山城に詰め寄る。
「知ってるんですか!?」
「午前中ここで会ったよ。学校はサボっているみたいだったけど、あの後も学校には行かなかったのかな」
「今日一日来てなくて……それは別に珍しいことじゃないんだけど、これ、これ見て、なんか心配になっちゃって……」
彼女が泣きそうな顔で差し出したスマホの画面には、おそらく皐月のアカウントと思われるSNSの投稿があった。
『もう全部、真っ白にしたい』──。
それは不穏な響きを持って、3人それぞれに衝撃を与えた。
今の千春たちには皐月の『自傷行為』が、頭の中を占めている。何かの拍子でエスカレートすることは十分考えられる。
でも、『自傷行為』のためには当然刃物が必要だ。カッターやカミソリなどを持っているとしたら、わざわざここに来るだろうか?
千春がその謎を七緒にこっそり訊ねると、七緒は深刻な面持ちで首を振った。
「いや、あれはたぶん、生きるための『自傷』だよ。『自殺未遂』とは違う」
「……生きるため?」
「制服の血がついていた位置、覚えてる?」
「脇腹の辺りですよね」
「そう。脇腹を怪我しているのでなければ、おそらく血がついた腕を下ろしたところが、あの位置なんじゃないかと思う」
「でも、手首が触れちゃっただけとかじゃ?」
「いや、手首だとしたら、少しの傷でももっと血が出る。あんなちょっとの汚れじゃ済まないよ。髭を剃る時とかに顔を傷つけちゃうことがあるけど、ああいう感じで切った時のものだよ」
「ってことは?」
「もし、本当に彼女が『真っ白にしたい』と思ったら、別の方法をとることは十分にあり得る」
傍らでその話を聞いていた山城が意を決したように言う。
「……探そう」
「ええ、僕たちも一緒に」
七緒が続くと、離れたところでSNSや友達とのやり取りをチェックしている彼女が、ハッと振り返った。
「いいんですか!? お願いします」
お願いします、と何度も頭を下げる彼女は、弥生と名乗った。
「でも、どこを探せば──」
千春の途方に暮れた一言で、弥生は落ち込み、山城は思案した。しかし、七緒は弥生に向かって訊ねる。
「弥生さんは、何か理由があってここに来たんだよね? 皐月さんの行くあてに心当たりがあるとか」
「……ここ皐月のお気に入りの場所なんです。静かで、誰にも邪魔されずに、真っ白になれるから──って」
「真っ白?」
「……皐月、嫌なことがあるとよく言うんです。たぶん、『何も考えたくない』とか『全部なかったことにしたい』とか、そういう意味だと思うんですけど」
「何かに悩んでたんだね」
「……どうだろう。特定の『何か』ってわけじゃないんじゃないかな」
「えっ?」
「そういう時の皐月はたぶん『何か』じゃなくて、『何もかも』なんじゃないかなって……」
弥生のその言葉に、千春はふっと何かが腑に落ちた気がした。
「だから、『真っ白にしたい』って言ったら、ここかもって」
「そう。じゃあ手分けして探そう。山城さんは念のため神社のほうをもう一度。社務所の方が見ていないだけで、実はいるかもしれませんから」
「わかりました」
「僕は地図を持ってるから、この辺りを探してみる。土地勘のある弥生さんと千春くんは一緒に、心当たりを探してみて。千春くん、望遠レンズ持ってるよね。普段は人が入らなさそうなところも、一応見ておいたほうがいいと思う」
「わかりました」
七緒の的確な指示に、千春たちは三々五々散っていく。
弥生と並んで公園内を走りながら、千春は先ほどの彼女の言葉を反芻する。
『何か』じゃなくて、『何もかも』──。
それは千春にもなんとなくわかる気がする。
もちろん明確に嫌なこともある。七緒と出会う直前、無実の罪でアルバイトをクビになったこともそうだ。
──けれど、それだけじゃない。
帰った時の家族のなんとも言えない反応であったり、学生時代のどことなく腫れ物に触るような空気であったり、これまでの人生で口に出すほどじゃないけれど、心が少しざわめくくらいの出来事はたくさんあった。
そのどれもを感じなかったら幸せなのに、と思ったことも一度や二度ではない。
「千春さん?」
息を切らしながら、立ち止まってしまった千春を振り向き、弥生が駆け寄ってくる。
「……橋、ってあるかな」
「えっ?」
「ここに橋ってある?」
「えっと、いくつかありますけど……」
「赤い橋なんてないよね?」
「ありますよ、本丸に続く橋です」
「そこに行こう」
「ええっ?」
なんで? と言わんばかりの顔で見上げてくる弥生を促して、千春はそこへ案内させる。
辿り着く前に、ちょうど向かい側からその赤い橋が見えてきて、そこには制服の女子高生がいた。
カメラも望遠レンズも使わなくたってわかる。
あれは皐月だ。
弥生が千春よりも早く走り出していた。
スカートを翻し、肩までの髪も振り乱して、皐月に抱きつかんばかりの勢いで、肩を掴んだ。
「……弥生……」
「皐月! もう馬鹿馬鹿! 心配したんだから!」
弥生は涙声でそう言うと、皐月を本当に抱き締めた。
千春は七緒と山城に、無事見つかったことを報告し、やがて2人も合流した。
皐月と弥生の積もる話もあるだろうと、少し遠巻きに様子を伺う3人だったが、七緒がふと千春に訊ねた。
「どうして橋だと思ったの?」
「…………なんとなくです」
そう、本当に『なんとなく』。自分だったらそうするかもしれないくらいの根拠しかない。
ただ、探す前に七緒と話した『生きるための自傷』と、『真っ白にしたい』という言葉、そしてハンカチを『洗濯する』といった山城の声がいっぺんに脳内を駆け巡った気がしただけだ。
死ぬためじゃなく生きるために、赤く染まったハンカチを真っ白にするんだとしたら、水が必要で、ハンカチがないなら赤い何かが必要かもしれない。
論理的とは全くもって言い難いけれど、千春の勘は当たったらしかった。
「皐月! これ何!?」
スマホの画面を見せつけ怒る弥生に、タジタジと皐月が後ずさる。
「えっと、それは……」
また左腕を抑えている。
言い淀んでいるところを見るに、『自傷行為』のことを弥生は知らないのだろう。
「ねえ、皐月。もしかして、ここから飛び込もうとか考えてないよね!?」
ずいぶんストレートに聞く。千春はハラハラしながら、皐月の返答を待ったが、彼女はと言えば──。
「えっ……?」
何を言っているのかわからない、というキョトンとした表情で、首を傾げた。
「は?」
その反応に、弥生も首を傾げる。
「えっと……それは、その……頭をね、真っ白にしたいっていう意味で……」
はああ、と弥生と、ついでに千春たち3人も大きくため息を吐く。
まぁ大事に至らなくて良かったと喜ぶべきだろう。
「弥生……心配してくれたんだね……ありがと……」
「ううん。友達なんだから、当たり前じゃん!」
「あとね、ごめんついでにもう一つ……」
「もう、なに?」
「弥生からもらったお守り、なくしちゃった」
「え?」
それはここ城跡と神社にゆかりのある人物の格言を入れたお守りらしく、ふたりお揃いで持っていたという。
「もういいよ、そんなこと」
「でも、あれがないと、弥生と約束した夢、叶えられない気がして……」
泣きそうな顔で俯く皐月の手を、弥生がそっと握る。励ましや慰めを言うのは簡単だけれど、安易に言葉だけで解決したくないように感じられた。
「──探そう」
聞いていないふりを貫いていたように見えた山城が静かに言った。
「そうですね、みんなで一緒に」
七緒も、そして千春も頷く。
弥生はまた明るい笑顔で、3人にお礼を言うと、今度は5人で探すことになった。
再び、三々五々散った面々は、それぞれの行く先で仲間を集め、最後には小学生やら近所のお年寄りやら、お母さんたちに社務所の人まで巻き込んで、20人ほどの大所帯になっていた。
そして、ようやく見つかったのは、日の長くなったこの時期でも、さすがに夜の帳が落ち始めた19時前。
「あったーーーーー!!!!!」
誰かの声が響き渡り、千春が駆けつけた時には、皐月と弥生がお揃いのお守りを持って、泣きながら笑い合っていた。
千春は思わずカメラを構える。
SNSに載せるためじゃない、今この瞬間が美しいと思える、そんな写真を──。
ふたりの影はまるで、武将が勝鬨を上げるように勇ましくさえ見えた。
「私ね、弥生と約束した夢、親に反対されてるんだ」
「え、でも、親には言ってないって……」
「うん。言わないつもりだった。だけど、バレちゃったんだよね。弥生のSNSで」
「……えっ?」
「うちの親、こっそり私のSNS見てんの。キモいって思うんだけどさ、その時、弥生のアカウントに去年の七夕の写真が載ってて。短冊に私たちの夢を書いたやつ」
「……うん」
「別に弥生を責めてるんじゃないよ」
「うん」
「でも、私はあの頃からSNSが怖くなった、憎くなった。写真も、撮らなくなったし、撮られるのも嫌になった」
「……ごめん」
「ううん。弥生に対しては嫌な感情はないよ、これはほんと。でも、なんだろ……うまく言えないんだけど、そういううまく言えない、自分のこと、他人のこと、SNSとか親とか、将来のこと。もうぜーんぶ私の頭の中からなくなっちゃえばいいのに、って思ってた」
「うん」
「でも、真っ白にする方法なんてわかんなくて、つい魔がさして、腕をね、切ったことがあるんだ」
皐月はそっと袖を捲った。
弥生が暗闇に沈んでいてもわかる、泣きそうな瞳でその痛々しい傷を見つめる。
「その時、真っ白になったの。痛みとか怖さとかも何も無くなって、でも血だけは出るの。あぁ、私、生きてるんだなぁって。真っ白になってもちゃんと生きてるじゃん、って。じゃあ、真っ白になりたいなって。そう思ったら、もう癖になってた。嫌なことがあると、ううん、特別嫌なことがなくても、傷つけちゃうの。いつの間にか。怖いよね。で、真っ白なハンカチでその血を拭くとね、当たり前だけどハンカチが赤くなって。それをまた真っ白に戻すのが、なんか、わかんないけど、心地良かったんだよね。真っ白になる擬似体験? みたいな」
「う、うん?」
言っていることがよくわからなくなってきたのか、弥生が曖昧に頷く。
千春にはなんとなくわかるような気がした。
「わかるよ」
思わず呟いてしまう。
「えっ?」
意外そうな表情で、皐月と弥生が同時に聞き返した。
カメラを見つめながら、無言で微笑む千春に、彼女たちもお互い顔を見合わせて笑い合った。
「もう私には途中からよくわかんなかったけど、夢を叶えたいって気持ちはあるんだよね?」
「もちろん」
「じゃあもうそれでいいや! SNSは皐月が嫌ならやらないし、夢のことは私も一緒に皐月のパパとママ説得する!」
「いいの?」
「うん」
「説得できなくても?」
「その時はその時、考えよ! ほら!」
お守りの格言を掲げて、またキャッキャとふたりで笑う。
「案外、夢って、意外なことで叶うものだよ」
山城が大人らしい──いや、あえて言うなら『おじさん』らしいことを言うと、彼女たちは大きな声で笑い転げた。
端が転んでもおかしい年頃らしい。
ひと笑い終えた後、皐月が山城の前で頭を下げた。
「キモいとか言ってごめんなさい。たぶん、真っ白にすることで頭が真っ白になっちゃってたんだと思います。すみませんでした」
「いいよいいよ、あんな声のかけ方したら、そりゃキモいよね」
笑って許す山城を見て、皐月と弥生は今度は一緒にはにかみ合った。
「あ、そうだ。もしふたりが嫌じゃなかったら、でいいんだけど」
続く七緒の言葉に、ふたりは満面の笑みで頷いた。
その日のSNSの写真は、お守りを見つけたふたりと、周りで喜ぶ社務所の男性や小学生たち、ついでに言うなら誰より大喜びしている山城の姿まで写っている、あたたかな一枚だった。
『旅先での出会いというのは、時に一生忘れられない出会いになるものです。皆さんの未来に、ご多幸あれ!』
そして、相変わらず想像力を掻き立てる、今回はやけに短い文面で七緒は投稿した。
千春が思わず撮ったふたりだけの写真は、彼女たちだけにあげることにした。
ふたり以外の写真に写っている人たちにも、七緒や山城が声をかけてくれたらしく、ほとんど顔が写っていないこともあって、全員が快諾してくれた。
遅い帰路に着いた時、野暮かもしれないと思いつつ、千春は七緒に訊ねた。
「もしかして、七緒さんって、皐月……さんの夢わかったりします?」
「あはは。さすがに僕でもわからないよ。でも……」
「でも?」
「きっと、茨の道だろうね」
「え?」
「『第一志望に進みたい』って絵馬に書いてあったでしょ。『大学に合格したい』とか、『〇〇になりたい』とかじゃなくて」
「はい」
「『第一志望』って濁したのは、絵馬が不特定多数の人に見られるのが怖かったからもあると思うけど、わざわざそういう書き方するのって、進路志望に書く『第一志望』とは違うんじゃないかって思わない? あくまで自分の心の中の『第一志望』で、そこに『進みたい』ってことは、『進むのは困難』だと感じているってこと。だから──」
──『茨の道』か。
千春はすっかり暮れてしまった道を見つめながら、カメラを握る。
「まあでも、前を向いてくれて良かったです。これももういらないですかね」
山城もさすがに疲れたのか、静かな口調でそう言った。自分のハンカチに包まれた皐月のハンカチが助手席に置かれている。
「返しそびれちゃって」
と照れくさそうに笑う山城の声よりも、千春にはもっと大きく、
──『案外、夢って、意外なことで叶うものだよ』。
さっきの台詞が頭の中で心地よく響いた、そんな気がした。
0
お気に入りに追加
1
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる