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新天の志
新鮮な泉源
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綿貫千春と風月七緒は、ホテルのレストランで朝食を食べていた。
千春がコンビニでアルバイトをしていた頃は、シフトもまちまちで、中でも特に夜勤が多かったためか、こんなに健康的な時間に起きて、しかも朝食までしっかり取っているのが、なんだか新鮮な気分だった。
あの頃だって朝は毎日やって来ていたはずなのに、それだけ当たり前に存在していたのか、それとも自分が朝を朝と感じられる生活と心持ちでいられるようになったということなのか──。
まだ回転し始めたばかりの頭でそんなことを考えていると、バイキングだというのにまさに朝食のお手本のようなメニューを持って来た七緒が「いただきます」と目の前で手を合わせた。
今朝も千春が起きた時には既に身だしなみは完璧に整えられていたし、開いたままの部屋を覗くと身の回り品も綺麗に片付けられていたし、さらに言うと彼はご飯の食べ方も美しい。
千春自身も箸の持ち方に食事の仕方は、母親に(そういうところだけやけに)厳しく躾けられたので、彼の育ちの良さが余計に身につまされる思いだった。
昨夜の夕食の時も、またもや観光課長山城優一の勧めで、郷土料理をたくさん出してくれるという食堂に行った。
最初、昼食と同じように山城は「2人で行って来たらどうか」というスタンスだったが、七緒がせっかくだからと、親睦会を兼ねて誘ったのだ。
「いいんですか!?」
相変わらず良く響く声で返事をすると、山城はワクワクとお店の候補をいくつか出して、その中でも旅先としては無難と言えば無難な、逆に攻めていると言えば攻めているその食堂に決まったのである。
Y県はお酒も有名だが、千春が未成年であること、そして県職員である山城が一緒であることを考慮して、アルコール類をメインで提供する店はやめようということになったのも大きい。
世の中、火のないところに煙は立たないとはよく言うが、ごくごく稀に火のないところにも煙が立つことがある。このプロジェクトの規模に関わらず、わざわざ火をつけることもないだろうと、七緒と山城の意見が一致したようだった。
「Y県は美味しい食べ物や歴史的な見どころが多い印象ですね」
「ええ。山・海・川と自然も一通り揃っていますし、有名な温泉も多いです。映画のロケ地も結構あるんですよ。ただ……」
「ただ?」
「いかんせん、一つ一つは地味というか、よく言えば穏やかで住み心地が良いところですが、あえて悪く言えば面白味のかけらもないところです」
「……そこまで言わなくても」
「あぁいえいえ、私というよりね、うちに所属している女性職員がそう言うんですよ。地元出身で優秀な子ですが、何かと『ここはつまらない退屈なところです』ってね。ですから、彼女はこの観光誘致策にも懐疑的なんです」
自嘲気味に、山城は具沢山野菜の郷土料理をつまむ。
昨日の朝食べたおにぎりの具として、母親が入れたものと同じ料理だったが、味付けの仕方なのか、ここで食べるもののほうがより美味しく感じられた。
「でも、きっとそういう方の意見こそ、僕たちが求めるものでもありますよね」
「ええええ、まさに。彼女からは大体ネガティブな答えが返ってきますけど、よければ話をしてみてください。あの、ほら、昨日の打ち合わせの時にミックスジュースを運んできた彼女です。泉と言います」
──ジュースを運んできた彼女、といえば……。
千春と七緒は顔を見合わせる。
つまり、ラーメン屋で通な注文をしていた彼女のことでもあるではないか。
「彼女にはお礼も言わないといけませんから、ご迷惑でなければ声をかけてみます」
「お礼? ──迷惑だなんて」
山城は首を横に振りつつ、続ける。
「私はね、風月さん。彼女はただ地元を嫌っているだけではないと思っているんですよ。私と同年代でも上京自体は珍しくありませんが、あのくらいの世代になると、もうほとんどの子が県外の大学に進学します。彼女も、東京にある大学を卒業していますから、こだわりがなければそのまま東京で就職という道もあったでしょう」
「でも、わざわざ戻ってこちらで……? しかも県の職員──公務員ですよね」
「私には、彼女がそれなりの覚悟を持って地元就職を決めたように思います」
千春はこの話の間、特に口を挟むことはしなかったが、内心「なるほど」と頷いた。
観光課ということは広報などとはまた違うから、彼女自身に愛想は必要ないのかもしれないが、昨日の打ち合わせ前を思い出しても、先の芸人の如き2人と比べ、あまりにも無愛想な態度だった。
このプロジェクト、ひいては東京から来た第三者の千春や七緒が見る世界が、自分の思い描く『地元』とかけ離れてしまうのは目に見えている。
彼女はそれを壊されたくないのかもしれない。
──いや、ただの想像だけど。
「ところで、おふたりは今日の宿泊は確か、市内のホテルでしたよね」
「ええ。ご紹介いただいた、天然温泉のところにしました」
「立地もいいですしね。でも、少し離れますけど源泉かけ流しの湯もたくさんありますよ?」
千春には『源泉かけ流し』と『天然温泉』の違いがいまいちよくわからなかったが、まだ出会って一週間、付き合いの浅い七緒と旅館に泊まるというのは、やっぱりまだ緊張する。
千春は七緒と違って弁達者でもない。いや、弁達者は七緒というより山城にぴったりの言葉かもしれないが。
七緒は千春に合わせてくれているのか、それともそういう性分なのか、四六時中喋っているわけではなく、必要な時に必要な分だけ会話をする。その中にはもちろん雑談も含まれるが、その話題や内容もTPOに合わせている気がする。
山城も決して『うるさい』とか『賑やか』とかいう感じではなく、気を利かせて話を振ってくれていることが伝わるので、今のところ3人の距離感は悪くないと思っている。
ともあれ、七緒に事前に聞いていたのは、天然温泉の大浴場があるビジネスホテルだった。
「じゃあ、そろそろいきましょうか。長旅でお疲れでしょう。明日のことは私に任せて、おふたりはゆっくり休んでくださいね」
そう言って、山城はまたしても車でホテルまで送ってくれた。
明日の9時に迎えに来るから、と彼とはロビーで別れた。七緒のチェックインをぼんやり眺めていると、もう7時半を過ぎていることに気がついた。
一応シングルを取ってくれていて、送った荷物はそれぞれの部屋に置かれていた。
七緒の部屋で軽く今日の振り返りと、明日の打ち合わせを済ませ、自分の部屋に戻った千春は、ふうと大きく息を吐き、ベッドに身を投げ出した。
せっかくだし大浴場に行こうと思うが、まだその気が起きない。
山城たちとのやり取りは七緒がしてくれたとはいえ、やはり気が張っていたのだろうと思う。
はっと目が覚めた時には、夜中の0時を回っていた。千春は焦って大浴場に行く支度をする。
さすがに朝早く起きて入浴する気力はないと思われたからだ。
廊下は既にしんと静まり返っていて、幸いなことに千春の足音は敷かれたカーペットが吸い込んでくれた。
七緒はさすがに寝ているだろう。そうでなくとも、部屋にはいるはずだ。
ふと、視界を白いものが過った気がした。
廊下の先、十字路になっている地点を右から左にすーっと通り過ぎた。
千春は一瞬、足を止めた。
──いや、まさか。
大概どんなホテルにも幽霊話の一つや二つあるものだが、千春にはそもそも霊感がないので、その真偽を確かめようがない。だから、今のだって幽霊であるはずがないのだ。
そう言い聞かせながら、千春は十字路の左側を確認した。
──誰もいない。
けれど、ドアのキーロックが外れる音も、ドアが開く音もしなかった。部屋はオートロックである。鍵なしに入ることはできないし、音もなく開閉できるほど軽い扉でもない。
──消えた?
千春は思わず身震いした。
初夏の夜、肌寒いとはいえ、震えるほどの気温ではない。
──勘違い、そう、勘違い。見間違いだ絶対。
千春はそう繰り返しながら浴場へ向かう。
正直、あんなホラー体験の後に夜中のお風呂には入りたくないが、さすがに明るいし、広くて開放的な空間だった。月曜──もとい日付が変わって火曜の夜だが、ビジネスマンと思われる男性もちらほらいる。
千春は髪や体を洗う間も、幾度となく鏡と恐る恐る目を合わせ、たまに後ろを振り向くという謎の行動を見せた。
隣の隣の隣くらいに座るおじさんが、首を傾げているのもなんとなくわかったが、そんなおじさんにどう思われるかということより、さっきの白い影のほうがよっぽど怖かったのだ。
せっかくの天然温泉を楽しむ間もなく、形だけ湯に浸かって、気もそぞろに髪を乾かし、廊下に出たくない一心でウォーターサーバーの水を飲み、しかし1時を過ぎた時計を見て、ようやく意を決す。
せめて誰か同じタイミングで出てくれればと思ったが、変に誤解(?)されても困るので、千春は結局ひとりで自室までの道を辿ることになった。
先ほど白い影を見かけた十字路──いっそ走り抜けてしまおうか、いや、でもついてきたらどうしよう、まずいないことを確認したほうがいいかも、いやいや、でも!
…………怖い。
千春は走った。
走って通り抜けて、自室の鍵を小刻みに震える手で開けた。まるでホラー映画のワンシーンかのように、来た方向を確認しながら、ほんの少しの鍵が開く間さえ惜しく、ガチャガチャとドアを押す。
何もついてきていないのに、姿が見えないだけかも、と用心には用心を重ねて、ドアを素早く閉めた。一緒に入ってくることだけは避けたい。
しかし、本当に幽霊なら壁やドアなんて簡単に抜けられてしまうのではないかということには、思い至らなかった。
──カメラ持って行かなくてよかった……。
さすがに風呂場を写すわけにもいかないし、貴重品だからと置いていったのだが、カメラなんて持っていたら心霊写真になってしまったかもしれない。
そう考えるだけでゾッとする。
──と、とりあえず寝よう。
もちろんすぐに眠れるわけなどなく。
それからしばらくは目が冴えてしまって、目を閉じるのさえも恐ろしかった。
だが、明日も仕事である。車移動もあるので、寝ないように今寝ておかなければ……。
そう考えれば考えるほど眠れなくなったが、翌朝、七緒の鳴らしたチャイムの音が聞こえた時には、しっかりベッドで眠っていた。
レストランでの朝食は、Y県でおそらく最も有名な郷土料理が、汁物のひとつとして用意されていた。その味を楽しむ余裕もなく、千春は寝不足の目をしぱしぱさせた。
「千春くん? よく眠れなかったの?」
「えっ」
「なんか浮かない顔だから」
「………………」
七緒に昨夜のことを話すかどうか迷った。
悩んだ挙句、千春は訊ねることにした。
「あの、幽霊っていると思いますか?」
「幽霊?」
半笑いのようにも見えたが、こくこくと真剣な表情で頷く千春を見て、七緒は咳払いをして答えた。
「それは存在がってこと? それともこのホテルにってこと?」
──どっちもです。
千春がそう口を開く前に、七緒は続ける。
「まあどっちでも同じか──幽霊はいるかもしれないけど、僕には見えないから証明はできない。以上」
──何も解決しなかった。
千春が目に見えて落胆すると、七緒は「ごめんごめん」と謝る。
「もしかして、見たの?」
七緒からのその問いに、千春は曖昧な顔で頷いた。より正確に言うと、首を傾げつつ頷いた。
「……白い服を着た女の人、みたいな」
「……うん。白い服を着た女の人なんじゃない?」
──いや、そうは見えなかった。
が、それこそ証明する術はないので、千春は「そう思うことにします」と残りのご飯を食べ終えた。
迎えの9時までには時間がある。千春と七緒は、昨日幽霊を見かけた現場に行ってみた。
幽霊が消えたと思われるあたりを見ても、普通に客室のドアが並んでいるだけで、鍵のいらない扉や、身を隠す場所はない。ランドリーや自販機コーナーは今、自分たちが背にしている廊下の突き当たりにあるから、そこに入ったわけでもない。
けれど、その時他に人がいなかったことは確認しているし、キーロックを外す音もドアの開く音もしなかった。いくら扉を静かに開けられたとしても、鍵を開けると『ピー』という音が鳴るので、その時点で気がつくはずだ。
「でも、その前は見てないんだよね?」
「え?」
「だから、その廊下の幽霊が通る前の様子は見てないんだよね?」
そりゃそうだ。
質問の意図が分からずに、千春は頷く。
「ふうん。じゃあ、きっと大丈夫」
七緒は笑って、部屋への道を歩いていく。
「えっ、どうして……わかるんですか?」
「まぁこれは推測だから、今ここで答えは教えられないけど、幽霊ではないと思うから安心して」
「…………?」
千春はすっきりしないままだったが、七緒の後を追って、今は仕事に集中することにした。
千春がコンビニでアルバイトをしていた頃は、シフトもまちまちで、中でも特に夜勤が多かったためか、こんなに健康的な時間に起きて、しかも朝食までしっかり取っているのが、なんだか新鮮な気分だった。
あの頃だって朝は毎日やって来ていたはずなのに、それだけ当たり前に存在していたのか、それとも自分が朝を朝と感じられる生活と心持ちでいられるようになったということなのか──。
まだ回転し始めたばかりの頭でそんなことを考えていると、バイキングだというのにまさに朝食のお手本のようなメニューを持って来た七緒が「いただきます」と目の前で手を合わせた。
今朝も千春が起きた時には既に身だしなみは完璧に整えられていたし、開いたままの部屋を覗くと身の回り品も綺麗に片付けられていたし、さらに言うと彼はご飯の食べ方も美しい。
千春自身も箸の持ち方に食事の仕方は、母親に(そういうところだけやけに)厳しく躾けられたので、彼の育ちの良さが余計に身につまされる思いだった。
昨夜の夕食の時も、またもや観光課長山城優一の勧めで、郷土料理をたくさん出してくれるという食堂に行った。
最初、昼食と同じように山城は「2人で行って来たらどうか」というスタンスだったが、七緒がせっかくだからと、親睦会を兼ねて誘ったのだ。
「いいんですか!?」
相変わらず良く響く声で返事をすると、山城はワクワクとお店の候補をいくつか出して、その中でも旅先としては無難と言えば無難な、逆に攻めていると言えば攻めているその食堂に決まったのである。
Y県はお酒も有名だが、千春が未成年であること、そして県職員である山城が一緒であることを考慮して、アルコール類をメインで提供する店はやめようということになったのも大きい。
世の中、火のないところに煙は立たないとはよく言うが、ごくごく稀に火のないところにも煙が立つことがある。このプロジェクトの規模に関わらず、わざわざ火をつけることもないだろうと、七緒と山城の意見が一致したようだった。
「Y県は美味しい食べ物や歴史的な見どころが多い印象ですね」
「ええ。山・海・川と自然も一通り揃っていますし、有名な温泉も多いです。映画のロケ地も結構あるんですよ。ただ……」
「ただ?」
「いかんせん、一つ一つは地味というか、よく言えば穏やかで住み心地が良いところですが、あえて悪く言えば面白味のかけらもないところです」
「……そこまで言わなくても」
「あぁいえいえ、私というよりね、うちに所属している女性職員がそう言うんですよ。地元出身で優秀な子ですが、何かと『ここはつまらない退屈なところです』ってね。ですから、彼女はこの観光誘致策にも懐疑的なんです」
自嘲気味に、山城は具沢山野菜の郷土料理をつまむ。
昨日の朝食べたおにぎりの具として、母親が入れたものと同じ料理だったが、味付けの仕方なのか、ここで食べるもののほうがより美味しく感じられた。
「でも、きっとそういう方の意見こそ、僕たちが求めるものでもありますよね」
「ええええ、まさに。彼女からは大体ネガティブな答えが返ってきますけど、よければ話をしてみてください。あの、ほら、昨日の打ち合わせの時にミックスジュースを運んできた彼女です。泉と言います」
──ジュースを運んできた彼女、といえば……。
千春と七緒は顔を見合わせる。
つまり、ラーメン屋で通な注文をしていた彼女のことでもあるではないか。
「彼女にはお礼も言わないといけませんから、ご迷惑でなければ声をかけてみます」
「お礼? ──迷惑だなんて」
山城は首を横に振りつつ、続ける。
「私はね、風月さん。彼女はただ地元を嫌っているだけではないと思っているんですよ。私と同年代でも上京自体は珍しくありませんが、あのくらいの世代になると、もうほとんどの子が県外の大学に進学します。彼女も、東京にある大学を卒業していますから、こだわりがなければそのまま東京で就職という道もあったでしょう」
「でも、わざわざ戻ってこちらで……? しかも県の職員──公務員ですよね」
「私には、彼女がそれなりの覚悟を持って地元就職を決めたように思います」
千春はこの話の間、特に口を挟むことはしなかったが、内心「なるほど」と頷いた。
観光課ということは広報などとはまた違うから、彼女自身に愛想は必要ないのかもしれないが、昨日の打ち合わせ前を思い出しても、先の芸人の如き2人と比べ、あまりにも無愛想な態度だった。
このプロジェクト、ひいては東京から来た第三者の千春や七緒が見る世界が、自分の思い描く『地元』とかけ離れてしまうのは目に見えている。
彼女はそれを壊されたくないのかもしれない。
──いや、ただの想像だけど。
「ところで、おふたりは今日の宿泊は確か、市内のホテルでしたよね」
「ええ。ご紹介いただいた、天然温泉のところにしました」
「立地もいいですしね。でも、少し離れますけど源泉かけ流しの湯もたくさんありますよ?」
千春には『源泉かけ流し』と『天然温泉』の違いがいまいちよくわからなかったが、まだ出会って一週間、付き合いの浅い七緒と旅館に泊まるというのは、やっぱりまだ緊張する。
千春は七緒と違って弁達者でもない。いや、弁達者は七緒というより山城にぴったりの言葉かもしれないが。
七緒は千春に合わせてくれているのか、それともそういう性分なのか、四六時中喋っているわけではなく、必要な時に必要な分だけ会話をする。その中にはもちろん雑談も含まれるが、その話題や内容もTPOに合わせている気がする。
山城も決して『うるさい』とか『賑やか』とかいう感じではなく、気を利かせて話を振ってくれていることが伝わるので、今のところ3人の距離感は悪くないと思っている。
ともあれ、七緒に事前に聞いていたのは、天然温泉の大浴場があるビジネスホテルだった。
「じゃあ、そろそろいきましょうか。長旅でお疲れでしょう。明日のことは私に任せて、おふたりはゆっくり休んでくださいね」
そう言って、山城はまたしても車でホテルまで送ってくれた。
明日の9時に迎えに来るから、と彼とはロビーで別れた。七緒のチェックインをぼんやり眺めていると、もう7時半を過ぎていることに気がついた。
一応シングルを取ってくれていて、送った荷物はそれぞれの部屋に置かれていた。
七緒の部屋で軽く今日の振り返りと、明日の打ち合わせを済ませ、自分の部屋に戻った千春は、ふうと大きく息を吐き、ベッドに身を投げ出した。
せっかくだし大浴場に行こうと思うが、まだその気が起きない。
山城たちとのやり取りは七緒がしてくれたとはいえ、やはり気が張っていたのだろうと思う。
はっと目が覚めた時には、夜中の0時を回っていた。千春は焦って大浴場に行く支度をする。
さすがに朝早く起きて入浴する気力はないと思われたからだ。
廊下は既にしんと静まり返っていて、幸いなことに千春の足音は敷かれたカーペットが吸い込んでくれた。
七緒はさすがに寝ているだろう。そうでなくとも、部屋にはいるはずだ。
ふと、視界を白いものが過った気がした。
廊下の先、十字路になっている地点を右から左にすーっと通り過ぎた。
千春は一瞬、足を止めた。
──いや、まさか。
大概どんなホテルにも幽霊話の一つや二つあるものだが、千春にはそもそも霊感がないので、その真偽を確かめようがない。だから、今のだって幽霊であるはずがないのだ。
そう言い聞かせながら、千春は十字路の左側を確認した。
──誰もいない。
けれど、ドアのキーロックが外れる音も、ドアが開く音もしなかった。部屋はオートロックである。鍵なしに入ることはできないし、音もなく開閉できるほど軽い扉でもない。
──消えた?
千春は思わず身震いした。
初夏の夜、肌寒いとはいえ、震えるほどの気温ではない。
──勘違い、そう、勘違い。見間違いだ絶対。
千春はそう繰り返しながら浴場へ向かう。
正直、あんなホラー体験の後に夜中のお風呂には入りたくないが、さすがに明るいし、広くて開放的な空間だった。月曜──もとい日付が変わって火曜の夜だが、ビジネスマンと思われる男性もちらほらいる。
千春は髪や体を洗う間も、幾度となく鏡と恐る恐る目を合わせ、たまに後ろを振り向くという謎の行動を見せた。
隣の隣の隣くらいに座るおじさんが、首を傾げているのもなんとなくわかったが、そんなおじさんにどう思われるかということより、さっきの白い影のほうがよっぽど怖かったのだ。
せっかくの天然温泉を楽しむ間もなく、形だけ湯に浸かって、気もそぞろに髪を乾かし、廊下に出たくない一心でウォーターサーバーの水を飲み、しかし1時を過ぎた時計を見て、ようやく意を決す。
せめて誰か同じタイミングで出てくれればと思ったが、変に誤解(?)されても困るので、千春は結局ひとりで自室までの道を辿ることになった。
先ほど白い影を見かけた十字路──いっそ走り抜けてしまおうか、いや、でもついてきたらどうしよう、まずいないことを確認したほうがいいかも、いやいや、でも!
…………怖い。
千春は走った。
走って通り抜けて、自室の鍵を小刻みに震える手で開けた。まるでホラー映画のワンシーンかのように、来た方向を確認しながら、ほんの少しの鍵が開く間さえ惜しく、ガチャガチャとドアを押す。
何もついてきていないのに、姿が見えないだけかも、と用心には用心を重ねて、ドアを素早く閉めた。一緒に入ってくることだけは避けたい。
しかし、本当に幽霊なら壁やドアなんて簡単に抜けられてしまうのではないかということには、思い至らなかった。
──カメラ持って行かなくてよかった……。
さすがに風呂場を写すわけにもいかないし、貴重品だからと置いていったのだが、カメラなんて持っていたら心霊写真になってしまったかもしれない。
そう考えるだけでゾッとする。
──と、とりあえず寝よう。
もちろんすぐに眠れるわけなどなく。
それからしばらくは目が冴えてしまって、目を閉じるのさえも恐ろしかった。
だが、明日も仕事である。車移動もあるので、寝ないように今寝ておかなければ……。
そう考えれば考えるほど眠れなくなったが、翌朝、七緒の鳴らしたチャイムの音が聞こえた時には、しっかりベッドで眠っていた。
レストランでの朝食は、Y県でおそらく最も有名な郷土料理が、汁物のひとつとして用意されていた。その味を楽しむ余裕もなく、千春は寝不足の目をしぱしぱさせた。
「千春くん? よく眠れなかったの?」
「えっ」
「なんか浮かない顔だから」
「………………」
七緒に昨夜のことを話すかどうか迷った。
悩んだ挙句、千春は訊ねることにした。
「あの、幽霊っていると思いますか?」
「幽霊?」
半笑いのようにも見えたが、こくこくと真剣な表情で頷く千春を見て、七緒は咳払いをして答えた。
「それは存在がってこと? それともこのホテルにってこと?」
──どっちもです。
千春がそう口を開く前に、七緒は続ける。
「まあどっちでも同じか──幽霊はいるかもしれないけど、僕には見えないから証明はできない。以上」
──何も解決しなかった。
千春が目に見えて落胆すると、七緒は「ごめんごめん」と謝る。
「もしかして、見たの?」
七緒からのその問いに、千春は曖昧な顔で頷いた。より正確に言うと、首を傾げつつ頷いた。
「……白い服を着た女の人、みたいな」
「……うん。白い服を着た女の人なんじゃない?」
──いや、そうは見えなかった。
が、それこそ証明する術はないので、千春は「そう思うことにします」と残りのご飯を食べ終えた。
迎えの9時までには時間がある。千春と七緒は、昨日幽霊を見かけた現場に行ってみた。
幽霊が消えたと思われるあたりを見ても、普通に客室のドアが並んでいるだけで、鍵のいらない扉や、身を隠す場所はない。ランドリーや自販機コーナーは今、自分たちが背にしている廊下の突き当たりにあるから、そこに入ったわけでもない。
けれど、その時他に人がいなかったことは確認しているし、キーロックを外す音もドアの開く音もしなかった。いくら扉を静かに開けられたとしても、鍵を開けると『ピー』という音が鳴るので、その時点で気がつくはずだ。
「でも、その前は見てないんだよね?」
「え?」
「だから、その廊下の幽霊が通る前の様子は見てないんだよね?」
そりゃそうだ。
質問の意図が分からずに、千春は頷く。
「ふうん。じゃあ、きっと大丈夫」
七緒は笑って、部屋への道を歩いていく。
「えっ、どうして……わかるんですか?」
「まぁこれは推測だから、今ここで答えは教えられないけど、幽霊ではないと思うから安心して」
「…………?」
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