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始動の試験
賞の紹介
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綿貫千春は、バックヤードで制服を乱暴に脱ぎ捨てて、自動ドアが開き切るのを待てずに、苛々とコンビニを出た。
入店音が虚しく背後で鳴り響き、すれ違ったサラリーマンから怪訝な顔をされる。
大通りに面したその元アルバイト先から、一本路地を入ると、そこはもう閑静な住宅街。
朝は通勤通学の列を作るバス停も、スーツや制服で溢れる狭い道も、今は全く人通りのない寂しげな空気が漂っていた。
とはいえ、新興住宅とはもはや言い難い頃の産物になりつつあるが、それでも寂れたという印象はなく、近所の公園からは駆け回る子供たちの楽しそうな声が響いてくる。
軒先に干された洗濯物や、玄関先の小さな自転車には生活感があって、大通りの洗練された雰囲気とはまた違う風景が、千春には少し重く感じられた。
とある事情で給料ももらえず、帰るあてはもちろん普段家族四人で生活する自宅しかなく、千春はいつもより少し足早に帰路を辿った。
こんな時間に帰れば、妹や母親はまた自分を呆れた顔で見るのだろう。快晴の真っ昼間──そういえば、今日は日曜日だった──なんて、あのコンビニに勤めて初めてのことだ、と思う。
玄関前、千春はため息を吐きながらドアを開けた。
見慣れない靴には気がついたが、どうせ父親の友人か誰かだろう。
なぜかこの家は千春以外、そこそこ交友関係が広いので、週末は父親と母親、そして妹の友達たちがトリプルブッキングすることもあって、さらになぜかその全員で昼食を食べたりすることもある。
他人同士、世代も違うというのに、一体何を話しているのか。
千春には呼べる友達もいなければ、彼ら他人と仲睦まじく会話する義理もない。そんな自分と時間が嫌で、週末は極力アルバイトを入れて家に居ないようにしていたのに。
千春はリビングを覗くこともなく、玄関前の階段に直行しようとした。
「あれ~、お兄ちゃん。早くない?」
「あらあら、千春、またなの?」
「……そうだよ、まただよ」
まだ収まらない苛立ちを家族にもぶつけそうになり、千春は叫びそうな声を一呼吸入れて落ち着かせてから答えた。
リビングの奥の和室──狭いながらも客間として使っている──には聞こえないくらい声を落としたはずなのだが、父親がひょっこりと顔を出す。
大方、妹の慈美の高い声と、母親の春美の呆れた物言いが聞こえてしまったのだろう。
「千春、ちょうどいいところに。こっちに来なさい」
誰も『おかえり』などとは一言も言わないところに、千春のこれまでの不運さが物語られている。
「なに」
「いいから」
父親に手招きされ、千春は不承不承ながら客間へ向かう。
そこには細身の身体に細身の眼鏡をかけた、二十代くらいの男性がいた。纏う雰囲気は落ち着いていて、取り立ててイケメンという感じではないものの、女性が放っておかなさそうだなと呑気な感想を抱いてしまうほどには、物腰柔らかな優男だった。
「座りなさい」
まるで犬か何かのように、身振りで父親に指示される。まだ話していないとはいえ、いずれアルバイトをクビになったことは露呈する。というより、おそらく父も母も妹でさえも察しているに違いなかった。
その証拠に父親は、憂いを帯びた瞳で千春と客の男性を交互に見つめる。
「七緒くん、息子の千春だよ。千春、こちらはね、風月七緒さん。『千の選択』という旅雑誌の記者さんだ」
「旅雑誌……?」
そんな人が何の用だと言わんばかりに、千春は訝しげな表情を向ける。
件の優男は気分を害したふうもなく、正座のまま千春に向き直ると、頭を下げた。
「風月七緒です。実は折いって君に相談があって、この度お父様にご招待いただきました」
「…………はあ。その、相談というのは?」
「僕の相棒になって欲しい」
「…………はあ?」
「七緒くん。君はいつも話が簡潔で助かるんだけどね。いかんせん端折りすぎだよ」
「あぁ、失礼。旅雑誌の記者、なんてかっこいい紹介をしてくださったけど、小さな編集社のそのまた小さな雑誌なんだ。まぁ旅雑誌としてこのご時世でも存在しているんだから、僕自身は少し自慢してもいいくらいだと思っているんだけど」
そう言いながら、彼は名刺を差し出した。
シンプルな書体に、シンプルなデザインだったけれど、淡く入った会社のロゴが見たことのあるそれで、千春は一瞬驚いた。
「それでね。実はこの『千の選択』初の公式SNSアカウントを作って、写真と簡単な記事で旅先を紹介しようっていうプロジェクトを立ち上げたんだ。とはいえ、メンバーは僕だけなんだけど」
「…………は?」
そんなんで採算がとれるのかとか、プロジェクトなんてでかいこという割に一人しかいないとか、そんな話をなぜ自分に?とか、色々聞きたいことはあるけれど、千春の口からは相変わらず間抜けな同じ台詞しか出てこなかった。
「メンバーは僕だけで、これから増える見込みもない。でも、僕は写真がド下手くそでね」
それって期待されてないんじゃないかとか、この人の口から『ど下手くそ』なんて出るのかとか、またどうでもいいことを考えて、千春は適当に相槌を打った。
「まぁ詳しい経緯は流石に割愛させてもらうけど、君のお父さん──千慈さんがSNSに載せる写真がいつも綺麗でね。それで、知り合いにいいカメラマンがいないか一か八か聞いてみたら──」
そう言って眼鏡の奥の瞳を輝かせて、七緒は客間に飾られている額縁を示した。
もう色褪せかけている賞状の数々。
小さなものでは妹の皆勤賞に習字の優秀賞、父親の社長賞に母親の盆栽検定合格通知。そしてその中で最も数が多いのが、千春の写真に関する賞だった。
「…………別にカメラマンってわけじゃ」
「うん。プロじゃなくていいんだ。いやむしろ、プロじゃないほうがいい。SNSに載せる写真を、より読者やお客様に近い目線で撮って欲しい」
「……別に旅行が好きってわけでもないし」
「うん。だからそれでいいんだよ。旅行が好きじゃなくても、君は旅行好きの人たちと同じ世界で生きてるんだから」
随分スケールの大きな話だな、と内心思いながら、物腰柔らかそうに見えて意外と押しの強い男だなと、千春がほんの少し引いたのは言うまでもない。
「いいじゃないか。どうせアルバイトもうまくいかなかったんだろう。七緒くんは上司としても同僚としても、もちろん相棒としても私のお墨付きだよ」
「……カメラなんてもう随分触ってないよ。それに、コネ入社──いや、入社ではないかもしんないけど──なんて……」
プライドが許さない、とまでは言わないけれど、なんだか気が引けるのも事実だ。
七緒が思案げな表情でしばらく虚空を見つめていたが、やがて閃いたとばかりに千春に視線を戻した。
「じゃあ、こうしましょう。今からテストをします。君がSNSに載せたいと思う写真を3枚、僕に見せてください。撮るのはいくらでも結構。その中から選んでくれればいいです。時間は1時間。テーマはそうだな……僕──この街をよく知らない人──に紹介したい君の好きな風景、でどうですか?」
にこやかで穏やかな声音なのに、なぜか有無を言わせない雰囲気を持っていて、千春は思わず頷いていた。
父と母に促され、妹などは半ば面白がっているのだろうが「お兄ちゃん頑張って!」と送り出される。
部屋に置いていたカメラの在処をどこでどう知ったのか、妹が勝手に入って持ってきたらしかった。
さっきの『カメラに触っていない』は半分嘘で半分本当だ。
写真は確かにしばらく撮っていないが、カメラの手入れだけは定期的にしていた。
あまりいい思い出がないから、普段は目につかないところにしまってある。
千春は追い出されるようにして出た家を名残惜しく振り返ったが、コンビニでの出来事を思い出して腹を括った。
──もうどうとでもなれ。
住宅街に溶け込むように、千春は初夏の風が吹く道をカメラを手に歩み出した。
入店音が虚しく背後で鳴り響き、すれ違ったサラリーマンから怪訝な顔をされる。
大通りに面したその元アルバイト先から、一本路地を入ると、そこはもう閑静な住宅街。
朝は通勤通学の列を作るバス停も、スーツや制服で溢れる狭い道も、今は全く人通りのない寂しげな空気が漂っていた。
とはいえ、新興住宅とはもはや言い難い頃の産物になりつつあるが、それでも寂れたという印象はなく、近所の公園からは駆け回る子供たちの楽しそうな声が響いてくる。
軒先に干された洗濯物や、玄関先の小さな自転車には生活感があって、大通りの洗練された雰囲気とはまた違う風景が、千春には少し重く感じられた。
とある事情で給料ももらえず、帰るあてはもちろん普段家族四人で生活する自宅しかなく、千春はいつもより少し足早に帰路を辿った。
こんな時間に帰れば、妹や母親はまた自分を呆れた顔で見るのだろう。快晴の真っ昼間──そういえば、今日は日曜日だった──なんて、あのコンビニに勤めて初めてのことだ、と思う。
玄関前、千春はため息を吐きながらドアを開けた。
見慣れない靴には気がついたが、どうせ父親の友人か誰かだろう。
なぜかこの家は千春以外、そこそこ交友関係が広いので、週末は父親と母親、そして妹の友達たちがトリプルブッキングすることもあって、さらになぜかその全員で昼食を食べたりすることもある。
他人同士、世代も違うというのに、一体何を話しているのか。
千春には呼べる友達もいなければ、彼ら他人と仲睦まじく会話する義理もない。そんな自分と時間が嫌で、週末は極力アルバイトを入れて家に居ないようにしていたのに。
千春はリビングを覗くこともなく、玄関前の階段に直行しようとした。
「あれ~、お兄ちゃん。早くない?」
「あらあら、千春、またなの?」
「……そうだよ、まただよ」
まだ収まらない苛立ちを家族にもぶつけそうになり、千春は叫びそうな声を一呼吸入れて落ち着かせてから答えた。
リビングの奥の和室──狭いながらも客間として使っている──には聞こえないくらい声を落としたはずなのだが、父親がひょっこりと顔を出す。
大方、妹の慈美の高い声と、母親の春美の呆れた物言いが聞こえてしまったのだろう。
「千春、ちょうどいいところに。こっちに来なさい」
誰も『おかえり』などとは一言も言わないところに、千春のこれまでの不運さが物語られている。
「なに」
「いいから」
父親に手招きされ、千春は不承不承ながら客間へ向かう。
そこには細身の身体に細身の眼鏡をかけた、二十代くらいの男性がいた。纏う雰囲気は落ち着いていて、取り立ててイケメンという感じではないものの、女性が放っておかなさそうだなと呑気な感想を抱いてしまうほどには、物腰柔らかな優男だった。
「座りなさい」
まるで犬か何かのように、身振りで父親に指示される。まだ話していないとはいえ、いずれアルバイトをクビになったことは露呈する。というより、おそらく父も母も妹でさえも察しているに違いなかった。
その証拠に父親は、憂いを帯びた瞳で千春と客の男性を交互に見つめる。
「七緒くん、息子の千春だよ。千春、こちらはね、風月七緒さん。『千の選択』という旅雑誌の記者さんだ」
「旅雑誌……?」
そんな人が何の用だと言わんばかりに、千春は訝しげな表情を向ける。
件の優男は気分を害したふうもなく、正座のまま千春に向き直ると、頭を下げた。
「風月七緒です。実は折いって君に相談があって、この度お父様にご招待いただきました」
「…………はあ。その、相談というのは?」
「僕の相棒になって欲しい」
「…………はあ?」
「七緒くん。君はいつも話が簡潔で助かるんだけどね。いかんせん端折りすぎだよ」
「あぁ、失礼。旅雑誌の記者、なんてかっこいい紹介をしてくださったけど、小さな編集社のそのまた小さな雑誌なんだ。まぁ旅雑誌としてこのご時世でも存在しているんだから、僕自身は少し自慢してもいいくらいだと思っているんだけど」
そう言いながら、彼は名刺を差し出した。
シンプルな書体に、シンプルなデザインだったけれど、淡く入った会社のロゴが見たことのあるそれで、千春は一瞬驚いた。
「それでね。実はこの『千の選択』初の公式SNSアカウントを作って、写真と簡単な記事で旅先を紹介しようっていうプロジェクトを立ち上げたんだ。とはいえ、メンバーは僕だけなんだけど」
「…………は?」
そんなんで採算がとれるのかとか、プロジェクトなんてでかいこという割に一人しかいないとか、そんな話をなぜ自分に?とか、色々聞きたいことはあるけれど、千春の口からは相変わらず間抜けな同じ台詞しか出てこなかった。
「メンバーは僕だけで、これから増える見込みもない。でも、僕は写真がド下手くそでね」
それって期待されてないんじゃないかとか、この人の口から『ど下手くそ』なんて出るのかとか、またどうでもいいことを考えて、千春は適当に相槌を打った。
「まぁ詳しい経緯は流石に割愛させてもらうけど、君のお父さん──千慈さんがSNSに載せる写真がいつも綺麗でね。それで、知り合いにいいカメラマンがいないか一か八か聞いてみたら──」
そう言って眼鏡の奥の瞳を輝かせて、七緒は客間に飾られている額縁を示した。
もう色褪せかけている賞状の数々。
小さなものでは妹の皆勤賞に習字の優秀賞、父親の社長賞に母親の盆栽検定合格通知。そしてその中で最も数が多いのが、千春の写真に関する賞だった。
「…………別にカメラマンってわけじゃ」
「うん。プロじゃなくていいんだ。いやむしろ、プロじゃないほうがいい。SNSに載せる写真を、より読者やお客様に近い目線で撮って欲しい」
「……別に旅行が好きってわけでもないし」
「うん。だからそれでいいんだよ。旅行が好きじゃなくても、君は旅行好きの人たちと同じ世界で生きてるんだから」
随分スケールの大きな話だな、と内心思いながら、物腰柔らかそうに見えて意外と押しの強い男だなと、千春がほんの少し引いたのは言うまでもない。
「いいじゃないか。どうせアルバイトもうまくいかなかったんだろう。七緒くんは上司としても同僚としても、もちろん相棒としても私のお墨付きだよ」
「……カメラなんてもう随分触ってないよ。それに、コネ入社──いや、入社ではないかもしんないけど──なんて……」
プライドが許さない、とまでは言わないけれど、なんだか気が引けるのも事実だ。
七緒が思案げな表情でしばらく虚空を見つめていたが、やがて閃いたとばかりに千春に視線を戻した。
「じゃあ、こうしましょう。今からテストをします。君がSNSに載せたいと思う写真を3枚、僕に見せてください。撮るのはいくらでも結構。その中から選んでくれればいいです。時間は1時間。テーマはそうだな……僕──この街をよく知らない人──に紹介したい君の好きな風景、でどうですか?」
にこやかで穏やかな声音なのに、なぜか有無を言わせない雰囲気を持っていて、千春は思わず頷いていた。
父と母に促され、妹などは半ば面白がっているのだろうが「お兄ちゃん頑張って!」と送り出される。
部屋に置いていたカメラの在処をどこでどう知ったのか、妹が勝手に入って持ってきたらしかった。
さっきの『カメラに触っていない』は半分嘘で半分本当だ。
写真は確かにしばらく撮っていないが、カメラの手入れだけは定期的にしていた。
あまりいい思い出がないから、普段は目につかないところにしまってある。
千春は追い出されるようにして出た家を名残惜しく振り返ったが、コンビニでの出来事を思い出して腹を括った。
──もうどうとでもなれ。
住宅街に溶け込むように、千春は初夏の風が吹く道をカメラを手に歩み出した。
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