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Marry me④
しおりを挟む部屋の灯りを落とすと、天井や壁に星空が広がった。
「おお――っ!スゲエ」
稲川が、宝物を見つけた子供の様に目を輝かせている。
あぐりは、そんな無邪気な横顔を腕枕されながら見つめていた。
「プラネタリウムみたいだな」
「……うん。綺麗だね」
チカチカと仄かに瞬く電飾の灯りは、二人の裸の肩と、絡ませ合った指先を照らす。
「……あぐりの方が、ずっと綺麗だよ」
稲川が、あぐりの頬に触れて甘く囁くが、あぐりはプッと吹き出した。
「今日は、随分とお口が回るのね?
いつも、こんなに沢山誉めないじゃない!」
「誉めてないよ……
本当に綺麗だから言いたいだけさ」
「……っ」
彼の優しい眼差しに、あぐりの胸は蕩けそうにときめき、言葉を詰まらせた。
稲川は、そんなあぐりの反応を楽しむ様に、頬を両手で挟み、尚も言う。
「綺麗だよ……」
「――っ」
「気が狂いそうな程、綺麗だよ」
「……も、も――!
恥ずかしいから、もういいってば――!」
あぐりが真っ赤になり叫ぶと、稲川は笑って彼女の頭を撫でた。
「これから忙しくなるな……色々と」
彼の大きな指が、頬をそっと摘まんだり撫でたりを繰り返して遊んでいる。
「うん……」
「明日には会長と……奥さんに話すよ」
「……」
「そんな顔をすんなよ。
簡単には行かないだろうけどさ……
あぐりと一緒に居るために……頑張るよ」
唇がそっと重ねられた。
チュッと何回か優しい音を立てる度に、身体の奥に優しい幸せが積もって行くような気がした。
「二人で住む部屋も……探さなくちゃな」
「……うん」
「犬が飼える所がいいな……
とすると室内犬か……
チワワとトイプードル、どっちがいい?」
「室内なら猫もいいかもね……」
「あ~猫もカワイイなあ……
ああ、迷うな……」
とりとめ無いふわふわとした優しい幸せな語らいは、彼が眠りに落ちるまで続いた。
静かな寝息がしん、とした部屋に響く。
あぐりは、彼の彫りの深い目元やきりっとした眉を、そっと指でなぞった。
ピクリと瞼が痙攣し、薄く目が開いたが、あぐりの顔を見て笑うと、また目は閉じられ深い寝息をたて始めた。
「……良く、眠ってね……?
私の大好きな……稲川さん……」
あぐりは、彼の頬に柔らかくキスをした。
指を名残惜しそうにほどき、ベッドからなるべく音を立てないようにそっと降りる。
無造作に脱ぎ捨てられた彼の上着を拾いハンガーに掛けようとした時、内ポケットからヒラリと小さな紙切れと、紐つきの小物のような物が落ちる。
小物は、手作りの御守りだった。
一緒に落ちた紙を拾い上げると、晴れ着姿の小さな女の子が、はにかんだ笑顔をこちらに向けていた。
裏には多分一生懸命書いたのだろう。幼い文字が記してある。
『ぱぱへ つあーがんばってね』
それを、また内ポケットに大事に仕舞うと、あぐりは服を着て自分のバッグから白い封筒を出して眠る稲川の枕元に置いた。
窓を開けると、空は既に白くなり始めた頃だった。
朝の冷気が頬に刺さる。
新聞配達のスクーターが走って働いている。
ランニングをするフードを被った男性の姿も見える。
あと一時間もすれば皆起き出し、それぞれの行くべき場所――
仕事場であったり、故郷へ向かったり。
或いは自分の家族を送り出したりするのだろう。
帰る場所、するべき事は皆それぞれ違うが、自分の役割があるという事は面倒でもあり同時にとても幸福な事なのではないか、とあぐりは思う。
その役割はその人にしか出来ない。
その事が、人にとっては生きる理由やアイデンティティーにもなり得る。
しかしそれを見つけられないまま大人になってしまう人だっている。
あぐりは、眼下に広がる見知らぬ街並みや、知らぬ人々を眺めながら唇を噛む。
――私は、何の為に、今まで生きてきたの?
恋に夢中で、恋だけを追い掛けて……
恋に一喜一憂して……
それで、思い出以外の何が、残ったんだろう――
ぼんやりと外を眺めていたら何処かで犬が吠えた。
それが何かの合図かの様に、あぐりは窓を閉めた。
荷物を持ちドアに手を掛け、ベッドで眠る愛しい人の顔を振り返ると、瞬間彼が笑ったかの様に見えた。
「さよなら……
貴方……」
決心が鈍らない内に勢いを付けてドアを開け、二度と振り返らず小走りで部屋を後にした。
こんなに朝早く外を歩くのは子供の時以来かもしれない。
都会は朝が早い。
既に出勤する人々が忙しく駅へ向かっていた。
あぐりも足早に道行く人と同じ方向へ歩を進める。
あの人の居る場所から、百歩、歩いて来た。
――貴方は、あとどの位で目覚める?
目覚めて私が居なかったら、怒る?
泣いて、恨んだりするの?――
「ひゃくじゅうさん、じゅうし、じゅうご……
じゅう……ろくっ」
数を数えていたその声は不意につまり、嗚咽に変わった。
――けれど足を止めてはいけない。
貴方が目を覚まして追いかけて来ても捕まえられない程、遠くまで歩かなければ――
しゃくり上げながら駅のホームへ向かい始発の電車に乗る。
窓に向かって手摺に掴まりながら動く景色を眺め、深呼吸すると、スマホの電話帳から稲川の番号とアドレスを消した。
稲川へ書いた手紙は、あぐりが今まで書いた手紙の中で一番長いものだった。
あぐりは、ファンレターや手紙を書いて渡した事がない。
彼に出した最初で最後の手紙。
あぐりは、その手紙をスマホで写真に撮っていた。
自分が、今日の思いを忘れないでいる為に――
一昨日の夜と、先程稲川が眠った後に書いた文章は、ほぼ頭の中に入っている。
あぐりは、心の中で読み上げた。
『 稲川さん。
黙って出ていってごめんなさい。
そして、謝らなきゃならない事がもう一つあるの。
嘘を付きました。
私は、離婚していません。
何故そんな嘘をついたかって?
私は、貴方を試したの。
本当にごめんなさい。
十七才の時初めて逢った時から、私は貴方の愛人でした。
そう、愛人。
大っぴらに出来ないお付き合い。
それって愛人っていう呼び方で正しいのよね?
寂しく思った事もあるけど、それでいいと思ってた。
けれど、私は西君やほなみの様に世間に宣言して 自分の恋愛を貫くなんて出来ない。
弱虫だから。
それに私は、BEATSの稲川さんが大好きだから、稲川さんのミュージシャンとしての明日を奪いたくない。
稲川さんは、いつまでもミュージシャンで輝いていて欲しいの。
そして、貴方のご家族を悲しませないで。
今まで通り続ければいいじゃないかって貴方は言うかもしれないけれど、私は弱いから、これ以上貴方と居たら自分には何も無くなってしまうって思ったの。
上手く言えないけれど……
叶わなくても、貴方に愛されて、幸せでした。
結婚しようって言われて、本当に嬉しかった。
もう、それだけで私は生きて行けます。
私を愛してるなら、追いかけないで下さい。
最後のお願いです。
本当に、貴方を愛していました。
今まで、ありがとう。
さようなら。
あぐり』
最寄り駅で降りると、あぐりは西本のマンションへ向かった。
泣いたせいで目の回りが腫れぼったい。
手鏡を出して顔の状態をチェックしていたら、鏡にヌッと野村の顔が入り込んで来てギョッとする。
もうマンションまでは目と鼻の先の距離だった。
上着に手を突っ込んだまま首を傾げて野村は笑う。
「おはよう」
「なんで此処にいるの?こんな早くから」
あぐりは、赤くなった目を隠すように俯いた。
「散歩だよ」
疑り深く見るあぐりを見て、彼は溜め息を吐いた。
「なんて嘘。会いたかったから。
この辺に居れば会えそうな気がしたんだ」
「私が来なかったらどうしたのよ!?」
「うん。そうだね」
彼の優しい笑みに、あぐりは緩んだ涙腺から水分が溢れそうになるのを必死で我慢する。
「荷物を取りに来たの……帰るから」
野村が目を見開く。
「稲川さんと別れた」
「――あぐり」
あぐりは後ずさる。
「野村君も、もう止めよ?」
「何故?」
野村も一歩ずつ近づく。
「何でって……わかるじゃない……私と付き合ったっていい事ないし……」
「それは俺が決める事だよ」
「私……もう不倫とかっ……疲れたし」
「だから清く正しく生きますって?」
後ずさるあぐりはつまづき転びそうになるが、素早く抱き留められた。
あぐりの大きな瞳は溢れそうになっている。
瞬きしたらもう決壊しそうだ。
「私……離婚しないし……出来ないからっ……」
「いいよ……それでも」
野村の大きな掌が頬を撫でる。
「良くないでしょっ!?」
「俺が良いって言ったらイイの!」
あぐりをぎゅっと強く抱き締め、野村は囁いた。
「心配で……放って置けないよ」
「私……まだ稲川さんがっ……」
「知ってるよ」
あぐりは、涙で彼の胸を濡らし、首を振った。
「稲川さんが……
一番……っ」
「それも分かってる」
「――っ」
「あぐりみたいな女は、俺と別れてもまた何処かで男に引っ掛かって、泣く事になるんだよ……
そんな風になるのが分かってて、このまま離せない」
「……ひ、酷い言い方……!
でも……そうならない自信も無いかも……」
「ハハハ……だろ?」
野村は、あぐりの顔を両手で挟み、額を付け合ったまま優しく見つめ、静かに言った。
「――俺と、結婚しよう」
「野村君――」
あぐりの目が、大きく見開かれた。
「今は無理でも……
この先はわからないじゃない?
……待つから」
「そんな事言われたって……一生無理かも知れないわよ?」
「そしたら、天国で結婚しよう」
「へっ?」
野村は悪戯な色を瞳に浮かべた。
「いや、地獄だったりして」
「ちょっと――!縁起でもない……んっ」
あぐりが手を振り上げると、唇を塞がれるが、思わず顎に頭突きをしてしまい、野村は弾みで倒れてしまった。
「もうっ……油断も隙もないんだからっ!」
そのまま放って部屋に入ろうと思ったが可哀想になり、あぐりは野村の大きな身体を
「――ふんぬっ」
と気合いを入れて起こすと、塀にもたせかけた。。
彼の指が、あぐりの手をギュッと握ったが、まだ気を失っている。
あぐりは、つい笑いを溢してしまった。
「ありがとう野村君……
でも、ごめんね……」
あぐりはその日、東京を去った。
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