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バースデーパーテイー
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下北沢のライヴハウス
『DーEAST』
は、今夜は西君のバースデイパーティーの為に貸し切りになっていた。
皆、綾波の到着を待っていた。
テーブルにはサラダやチキン、様々な料理が並べられている。
まるで子供の誕生会のように壁に色紙で作られた飾りがカラフルにぶら下がり、ステージには何故かくす玉が用意されていた。
「この飾り付けって誰が……?」
「一週間前から僕達と綾ちゃんで時間の合間にやってたんだよ。なあ亮介?」
「そうそう!あのくす玉なんて自信作だよな!」
ほなみが聞くと、三広と亮介は得意気にくす玉を指差した。
「綾ちゃんが一番マメに準備してたよな」
「ああ見えて細かい作業好きだからな~」
「そうなんだ……」
綾波がどんな顔をして色紙を切ったり貼ったりしているのかと想像し、可笑しくなってほなみは笑った。
しかし、先日の事があるから顔を合わせるのが気まずい。
また顔に出てしまったらどうしよう、と変な心配が頭を悩ませた。
「計画した張本人なのに遅えなあ。
もう奴抜きでやるか」
西君が憮然として言った。
「まあまあ、今に来ると思うよ」
三広が自分のスマホを見て言った。
「遅れて来て目立つ、てのは高度なテクニックだな~綾ちゃん、狙ってんじゃね?ふああ」
亮介が欠伸をした。
「合コンじゃあるまいし……
目立って誰の気を引くのさ~?」
三広がケラケラ笑った。
「そりゃあ……決まってるだろ」
西君がほなみの肩をグイと引き寄せ、ほなみの耳元に囁く。
「ほなみは、俺の側から離れない事……
いいね?」
「……っ」
ほなみはときめいて、頬も身体も朱に染めた。
「ふふ……
綺麗な紅色になって……可愛いよ……」
西君は、ほなみの頬にチュッとキスした。
「ギャー!」
「祐樹――お前――!目の毒だからちょっと控えてくれよ――!」
「刺激が強すぎ――!」
三広と亮介が喚いたが、構わず西君は更に腰を抱き寄せて来る。
ほなみは必死に彼の胸を押した。
「西君……皆の前で恥ずかしいよ」
「恥ずかしがってるほなみ……可愛い」
「やだっ……」
「ひえ――!これは何かの拷問なのか――!」
「セクハラ野郎――!お前あんまりベタベタし過ぎると今に嫌われるからな――!?」
わあわあと、二人が抗議するが西君は楽しそうにペロッと舌を出して見せた。
「大好きなんだから、仕方ないじゃん。
悔しかったらお前らも女作れ」
「がっ!」
「ぐっ!」
二人は凍り付いた。
「やっと黙ったか」
西君は鼻を鳴らした。
二人は固まったまま遠い目をしている。
その周囲に「ビュー」と木枯らしが吹いているような雰囲気だ。
あぐりと野村は隣同士で座っては居たが、一言も喋っていない。
あぐりは鏡を見てマスカラの点検に余念がなく、野村は難しい顔をして何か考え事をしているのだろうか。
先程のピリピリした空気を思い出し、ほなみは西君に抱き寄せられながらも不安で甘い気持ちに酔えなかった。
(話しやすい雰囲気にしてくれると綾波さんは言っていたけれど、一体どんな風にそこまで持っていくんだろう……)
あぐりと野村はお互いに目を合わせないままだ。
三広と亮介はショックから抜け出せないらしく、隅っこで壁に向かって何か話しかけている。
ほなみは不意に顎を掴まれた。
西君の澄んだ瞳がじっと見つめている。
こうして見られると、何度もドキンとしてしまう。
「何を考えてる?」
「――」
「……隣に居るのに、遠くに飛んで行きそうだな……」
「え……」
西君の瞳の中に切ない色が沈むと、顎を掴んでいた指が頬に添えられ、彼の唇が近づいて来る。
「……離さないけどね?」
「西……君っ」
シャンプーの香りと共にサラサラした前髪が額にかかる。
キスを受け入れようと目を閉じた時、ライヴハウスのドアがギイと音を立てて開いた。
西君が入口の方を向き舌打ちした。
「――本当に空気を読まないヤツだな」
ほなみは、ドアを開け入って来る綾波を息を呑み見つめた。
襟足まであった髪は短く切られ、いつものサングラスが無く、澄んだ切れ長の目からは全ての物を射抜く様な鋭い輝きが放たれている。
いつもはダークスーツだが今日は珍しく明るいグレーのジャケット、えんじ色のリボンネクタイを合わせていて、その様は西君の雰囲気そのものだった。
綾波は、まるで音を立てず歩く高級な飼い猫の様に優雅に歩いてきた。
ほなみの心臓が激しく鳴る。
(大丈夫……
隣には西君が居るんだから……
綾波さんを見ても……
私は……変になったりなんか……しない……)
ほなみは、胸のざわめきを必死に抑えながら、西君の手を思わず握る。
彼は、目を見開いたが、ほなみの額にキスをして囁いた。
「ふふ……
ほなみは、甘えん坊だな」
ほなみは彼を真っ直ぐに潤む目で見つめた。
綾波は、上着を脱ぎバーテンに預けながら二人を見たが、その表情からは彼が何を思うのかは読み取れない。
「皆揃ってるな」
「揃ってるなじゃね――よ。
お前が最後だぜ?
罰ゲームで後で何か歌えよ」
西君は憮然と頬を膨らませた。
「別に構わん」
綾波がニヤリとした時、バチッと視線がぶつかり、ほなみは思わず西君の背中に隠れた。
またからかわれるかと身構えていたが、綾波はそのまま三広と亮介に声をかけて、二人を引きずって椅子に座らせた。
皆がテーブルにつくと同時に、待ち構えた様にバーテンが次から次へと飲み物を運んで来る。
「今日は飲むわよ――ほなみ!
ぶっ倒れたら後は宜しくね!」
あぐりが鼻息荒く言った。
「うん……ほどほどにね?」
野村が然り気無く隣のあぐりにグラスを差し出すと、あぐりも素直に受け取っていた。
ほなみは、それを見て少しホッとした。
「西君、何を飲む?」
「俺はジュースかウーロンでいい」
「飲めないの?」
「いや、酒は喉に良くないからね」
「そうか……」
ほなみはグラスにウーロンを注ぐ。
「沢山飲みなよ……ちゃんと介抱するから……ふふ」
西君はクスクス笑って、綺麗な緑色のカクテルを寄越した。
「これジュース?」
「さあ、どうかな?」
綾波が咳払いをすると立ち上がった。
「さて、じゃあ始めるか。今日は祐樹の誕生日の前祝いと……
活動を再開するクレッシェンドの決起会だ。
テレビ収録も近いしレコーディング作業も始まる。
いいか、お前ら。
世間の注目が集まっている中与えられたチャンスをムダにするなよ。
新曲は絶対に初回チャート一位だ。
それ以外あり得ん」
きっぱりと言い切り、メンバー一人一人の顔を綾波は鋭い目で見た。
ひゅうっ、と亮介が口笛を吹いた。
「い、一位……っ」
三広が大きく目を見開き、野村は端正な口元をキュッと引き締める。
「どうだ祐樹。出来るか」
綾波が挑みかかるような視線を向けると、西君は涼やかに笑った。
「せっかく復活するんだ。ど派手にやってやるよ」
「おう、言ったな?」
「当然さ」
二人の間にバチバチ青い火花が散るように見えた。
「あ――っ!と、とにかく、頑張ろうよ!
気張らず無理せず追い込まず自分達の全力を出そう!」
「三広。頼りないがリーダーはお前だ。
しっかりやれよ」
「ぐっ……
プレッシャーかけんなよ!」
「じゃあそういう事で、祐樹の誕生日と、クレッシェンドの新たな出発に、カンパーイ!」
亮介がグラスを掲げた。
皆でグラスをぶつけ合い、場は一気に宴会モードになる。
「リーダー……
俺って……リーダーなんだよね……
でも……体重軽いし……背ぇ小さいし……
他の長身バンドマンに喧嘩売られたら……
マジで……負ける自信しかない……
ふふ……アハハ……
でも……が、がんばらなくっちゃ……
でも……怖い……
怖いよぉ……っ」
三広は早くも酔ったらしく、ブツブツ言いながら泣いている。
亮介はせっせとテーブルの料理を皿に取り分け皆に分けていた。
「はい、あぐりちゃん」
亮介がお皿を渡すと、あぐりはニッコリ笑った。
「ありがとー」
「沢山食べなよ。
もう少し太った方がいいよ」
野村に言われて、あぐりはムッとして睨んだ。
「言われなくても食べるわよ!それに、そんなにガリガリじゃないわよ!」
「うん。知ってるよ……
でも、お尻の辺りとかもう少し大きいほうが――」
「何言ってんのよバカー!」
あぐりは真っ赤になり、金属のトレーで亮介の頭をぶん殴った。
「ぐはあっ!
な、何で俺が殴られるのっ?」
「あぐり……今朝はゴメン」
頭を押さえ痛みに呻く亮介をよそに、野村はあぐりの手をそっと握る。
「ううん。何を言われても仕方ないもの……
もう嫌いになったでしょ?」
あぐりはカンパリソーダを口に含んだ。
「……ならないよ」
二人はテーブルの下で指を絡ませた。
「ほなみ、これもジュースだから飲んでみなよ」
ニコニコしながら西君は次から次へ、ほなみに飲み物を寄越す。
緑色のソーダの次はピンクと黄色の層になったチェリーの沈むカクテル。
今度は
「美味しい珈琲牛乳だよ」等と言い、カルーアミルクを飲ませようとしている。
既に、ほなみは体がふわふわしていた。
「もう……全部……お酒でしょ?」
「違う違う。ジュースだよ」
「美味しい……」
琥珀色が沈む白い液体を一口流し込むと、またカッと身体が熱くなる。
「祐樹、飲ませ過ぎだぞ」
いつの間にか、正面に水割りのグラスを手に綾波が居た。
「あや……みしゃん……ひっく……うふふ」
ほなみは、酔いのせいなのか笑いが込み上げて来た。
綾波は呆れた様に肩を竦め、西君の頭を小突いた。
「ベロベロじゃねえか。
加減を知らんのかお前はっ」
「可愛いからつい……さあ。
ふふ……ごめんね?」
頭を撫でられて、ほなみは彼の肩に甘えて凭れかかる。
綾波の視線を感じたが、酔いのせいだろうか。
見つめられても恥ずかしい気持ちはなかった。
「ほなみ。
これを付けておけ」
綾波は、おもむろにポケットから何か出したかと思うと、ほなみの左手を掴む。
「綾波!何すんだ」
西君が目を剥く。
「いやあん……
あやなみしゃん……なあにい?」
「……じっとしてろ」
左手首に冷たい感触が気持ちよかった。
金の細いバックルだった。
「きれーい……」
華奢な輝きを放つそれをほなみはうっとりと見つめた。
「綾波!何のつもりだ?
それに、外れねぇじゃないか」
「本当だ――取れない……ふふ」
綾波は柔らかい笑みで、ほなみの左手首を見た。
「よく似合うぞ……
まあ、お前らに祝いの代わりだ」
「だから何の祝いだよ……恋人みたいにこんな物押し付けやがってお前」
「祐樹。細かい事でガタガタ言うな」
「言うに決まってるだろ!」
怒る西君の相手をせず、綾波はほなみに耳打ちした。
「――御守りだと思え。絶対に外すな」
思わず心臓が跳ねたその時。
ステージが眩い照明で照らされ賑やかなリズムのドラムが鳴り響く。
鳴らしているのは三広だった。
いつの間にか亮介と野村までがステージに立ち演奏を始めていた。
勇ましくリズミックな、まるでアニメか戦隊ヒーローものの主題歌みたいな曲だ。
西君は眉をひそめる。
「……待てよ?……これはまさか」
「なあに?」
「俺が作った曲だ」
「えっ?こんな曲クレッシェンドにあった?」
あぐりが言った時、
ステージの三人が一斉に
「HEY!」
と叫び、濃いスモークの中から何かが現れた。
「何あれ?」
白にラメ仕様の派手なオバQに似たキャラクターがステージ中央で激しくジャンプをしている。
ジャンプする度に腕に付いている簾みたいなキラキラした紐がブワッと広がった。
オバQ擬(もど)きは激しいヘドバンをメンバーと共に決めて、歌い始めた。
『HEY!GO!
HEY!GO!
ハリケーン
俺が 来なくちゃ
始まらないぜ
HEY!GO! HEY!GO!
サイクロン
俺が 噂の
“はまじろう”』
ステージ横に設置された巨大な扇風機から風が送られて、
“はまじろう”の布地と簾はバタバタとはためいた。
よく見ると、胸の辺りには
「HAMA」
という文字が書いてある。
綾波はニヤニヤ笑い、西君は頭を抱えている。
(どこかで聞いたような声……)
ほなみは、ある人物が思い当たった。
着ぐるみの目の下にわずかに穴が空いていて、そこから覗く顔を見て、確信する。
「――は、浜田さんっ」
ほなみとあぐりは同時に叫ぶ。
「ギャハハハハ」
もう我慢出来ないという風に西君は笑い転げた。
「マジか……浜田さん……
頼まれて、デビュー前にテーマソングを作ってやったんだよ俺」
「テーマソング?」
「“嵐を呼ぶはまじろう”のテーマソングだよ……俺に取っては黒歴史だよ……ぷっ」
着ぐるみを着ているとは思えない激しい動きで浜田はステージを駆け回る。
「大丈夫かよ……血管切れるぞ」
息も絶え絶えに笑いながら西君は浜田のパフォーマンスに手を叩いて喜んでいる。
長い長い間奏では、見事なバク転を決めて見せた。
「おおおっ」
皆一斉に声を上げた。
「宴会にはピッタリの男だな」
綾波が手拍子しながら頷く。
『吹きすさぶ
ハリケーン
恋の 愛の ハリケーン
お前の 心に
吹きすさぶ 愛の
ハリケーン
want to you!!』
パァンという破裂音と共に銀テープが舞い、亮介と野村と浜田は演奏の締めに一斉にジャンプを決めた。
拍手喝采といっても、ほなみ達と店のスタッフ位だったが――とにかく、大きな拍手を皆で送った。
「はーい!ほなみちゃんに、あぐりちゃん!
久しぶりだねえ!」
はまじろうの姿のまま浜田がステージで叫ぶ。
「浜田さん……!凄かった……です……ぷっ!」
ほなみとあぐりは涙を流し、抱き合い笑い転げた。
「今日はお祝いに駆け付けよ!
それと、これは僕からのほんの気持ちだよ」
スタッフが布のかかった大きな何かをキャスター付きのテーブルに乗せて運んできた。
「――?」
「西君、ほなみちゃん、一緒に開けてごらん」
二人は顔を見合わせ、布を引っ張った。
すると現れたのは、一番上に可愛い二匹のネコがキスしている形の砂糖菓子が載っている大きなケーキだった。
「うわあ……」
二人は、感嘆の声を上げた。
「Happy Birthday&Happy wedding!」
浜田が叫び、バンドメンバーがスローテンポのBGMを演奏し始める。
「浜田さん!?」
「それはバースデイケーキを兼ねたウェディングケーキだよ!
西君、プロポーズしたんだろう?
僕からのお祝いさ!」
ほなみは困って綾波を見たが、彼は小さく頷く。
「ほなみ……今話せ」
ほなみは首を振った。
「無理、無理です」
あぐりが手を握る。
「ほなみ、頑張って」
「ほなみちゃん!大丈夫だよ!」
「俺達も味方だよー!」
ステージから三広と亮介が叫び、野村も頷いている。
「ほなみ……?」
西君は不思議そうな表情で、ほなみを見た。
「……私、私…」
ほなみは胸がつっかえて、上手く話せない。
喉の奥がぎゅうと締まり、痛い程だった。
「聞くから……言ってごらん」
西君は、ほなみの手を握り締め、皆も固唾を飲み見つめている。
崖から飛び降りる様な覚悟を決め、ほなみは言った。
「西君――私……
あなたと結婚……出来ない」
「……なぜ?」
彼の瞳の奥が、水面に石を投じたかの如く揺れた。
「私にはっ……
おっ……
夫が居るから……
だからっ……」
しゃくり上げるほなみの手を握る彼の指に力が込められ、その瞳がまた、ゆらりと色を変える。
「今のままじゃ……無理なの……
だけどっ」
「……」
「私は……
私の答えは……イエスしか……ないの!」
「ほなみ――」
「西君と……西君と一緒に居たいの――!」
涙が溢れた瞬間、彼はほなみを抱き締めた。
「私…っ……私」
「わかった……ほなみ……わかったよ」
ほなみは、西君の背中に腕を回して咽び泣いた。
バーンとシンバルを鳴らし、三広が叫ぶ。
「祐樹――!
勿論、お前の答えはイエスだよな?」
「お前がビビってほなみちゃんを捨ててみろ――!?
そしたら、俺がほなみちゃんをお嫁さんにするべく旦那と戦うまでだ――!」
亮介が演奏しながらジャンプして叫ぶ。
「はあ!?」
ほなみを抱き締めながら西君が叫ぶ。
「尻込みして諦めるとか、男の風上にも置けないぞ」
野村が華麗にターンを決めながら攻撃的なフレーズを奏でた。
「祐樹。
お前に覚悟がないなら、俺がほなみを貰うぞ」
綾波が鋭く西君を見た。
「綾波っ……お前」
「ほなみちゃーん!
僕も付いてるからねー!」
浜田が着ぐるみの中から叫んでいる。
「にっしもと――!
ほなみを捨てたらあんたの悪口をネットにたんまり書き込んでやるからねえぇっ!
風評被害の影響をなめんじゃないわよ――!」
あぐりも柄悪く、巻き舌で叫ぶ。
西君は震え出し、やがて爆笑した。
「――全く……お前らは」
「西君……」
涙でグチャグチャになりながら、胸の中で西君を見上げると、今まで見たことが無い程の優しい笑みがそこにあった。
「何となく分かってたよ」
「えっ……」
「ほなみのマンションに泊まった時から、そうじゃないのかな、て思ってたよ」
「……なのに……なんで?」
「結婚してるとかしていないとか……
そんな問題なんて関係ない位、ほなみが好きなんだよ」
「西君……!」
「あ――よかった。
今『旦那と別れられないからあなたとは終わりよ』
て言われるかと思って、俺泣きそうだったよ?」
「本当に……本当に?」
「……俺は、ほなみが欲しい!
誰に何と言われても、ほなみが好きだ!
お前らも、わかったか!?
ほなみは誰にもやらないからな――!」
ワアッと皆が喚声を上げ、三広が満面の笑みで、ドラムロールを始める。
バーンというシンバルの音と同時に、浜田がくす玉の紐を引っ張ると、紙吹雪と共に白い鳩が飛び出し、長い垂れ幕には
『目指せ!円満離婚』
と、達筆に描かれた文字。
「ぶっ!」
「……」
西君は笑い出したが、ほなみは流石に引いた。
「おめでとー!」
「やったー!」
「もう離婚出来たも同然よ!」
「ヒャッハー!」
ステージにあぐりも乱入して、皆で騒ぐ中、ほなみは西君に抱き締められながら綾波を見た。
「まあ、大変には違いないが何とか頑張るしかないだろう」
綾波は事も無げに言った。
「綾波……
さっきの、本気じゃないだろうな!」
「何の事だ」
「だから……ほなみを貰うぞ、とか何とか!」
「さあ、どうかな」
綾波は妖しく笑いほなみを見た。
「このっ……」
綾波に掴みかかろうとする西君に、ほなみはしがみつき、キスした。
「ほ……なみ」
彼が、輝く瞳でほなみを見つめる。
「好き……好き……」
「ほなみ……!」
再び、ほなみは物凄い力で抱き締められた。
綾波はそんな二人を静かな眼差しで見つめていたが、やがて椅子から立ちバーテンに飲み物を頼みに行った。
「もう……絶対に離さない」
「うん……」
「ウザいって言われても離さないからな!」
「うん……でも、ちょっとだけ今離して?」
「えっ」
「外の空気、吸ってくる」
「一緒に行くよ」
「すぐに戻るから、ね?」
ほなみは、西君の頬を両手で挟んで唇に軽くキスした。
「祐樹――!助けてくれ――!
三広がまた鼻血――!」
亮介が絶叫している。
「やれやれ……」
西君は溜め息を吐いて、ほなみをゆっくり離した。
「行ってあげて?
私もすぐ戻るから」
「うん……本当にすぐだよ?ほなみ」
ほなみは手を振り、ライブハウスの扉を開け外に出た。
見事な満月の今夜は、昼間の様に明るい。
澄んだ冷たい空気を吸い込み、ほなみは白い月をうっとり見上げた。
パーティーが始まるまでの不安な重い気持ちは嘘みたいに消えていて、何でも出来る様な気持ちが湧いてきた。
伸びをして戻ろうとした時、後ろから屈強な力で掴まえられた。
「何っ――」
じたばたもがくが、敵わず後ろに引っ張られる。
口を塞いでいるその手を噛もうとしたら素早く白い布を嗅がされ、途端に身体中の力が抜けていく。
倒れそうになるのを強い力で支えられた。
「悪く、思わないでね?
ほなみさん」
聞き覚えのある懐かしい声。
薄れ行く意識の中、そのひとの名前を呼ぼうとしたが、月が雲に隠れるように、ほなみの全ての感覚は闇に沈んだ。
『DーEAST』
は、今夜は西君のバースデイパーティーの為に貸し切りになっていた。
皆、綾波の到着を待っていた。
テーブルにはサラダやチキン、様々な料理が並べられている。
まるで子供の誕生会のように壁に色紙で作られた飾りがカラフルにぶら下がり、ステージには何故かくす玉が用意されていた。
「この飾り付けって誰が……?」
「一週間前から僕達と綾ちゃんで時間の合間にやってたんだよ。なあ亮介?」
「そうそう!あのくす玉なんて自信作だよな!」
ほなみが聞くと、三広と亮介は得意気にくす玉を指差した。
「綾ちゃんが一番マメに準備してたよな」
「ああ見えて細かい作業好きだからな~」
「そうなんだ……」
綾波がどんな顔をして色紙を切ったり貼ったりしているのかと想像し、可笑しくなってほなみは笑った。
しかし、先日の事があるから顔を合わせるのが気まずい。
また顔に出てしまったらどうしよう、と変な心配が頭を悩ませた。
「計画した張本人なのに遅えなあ。
もう奴抜きでやるか」
西君が憮然として言った。
「まあまあ、今に来ると思うよ」
三広が自分のスマホを見て言った。
「遅れて来て目立つ、てのは高度なテクニックだな~綾ちゃん、狙ってんじゃね?ふああ」
亮介が欠伸をした。
「合コンじゃあるまいし……
目立って誰の気を引くのさ~?」
三広がケラケラ笑った。
「そりゃあ……決まってるだろ」
西君がほなみの肩をグイと引き寄せ、ほなみの耳元に囁く。
「ほなみは、俺の側から離れない事……
いいね?」
「……っ」
ほなみはときめいて、頬も身体も朱に染めた。
「ふふ……
綺麗な紅色になって……可愛いよ……」
西君は、ほなみの頬にチュッとキスした。
「ギャー!」
「祐樹――お前――!目の毒だからちょっと控えてくれよ――!」
「刺激が強すぎ――!」
三広と亮介が喚いたが、構わず西君は更に腰を抱き寄せて来る。
ほなみは必死に彼の胸を押した。
「西君……皆の前で恥ずかしいよ」
「恥ずかしがってるほなみ……可愛い」
「やだっ……」
「ひえ――!これは何かの拷問なのか――!」
「セクハラ野郎――!お前あんまりベタベタし過ぎると今に嫌われるからな――!?」
わあわあと、二人が抗議するが西君は楽しそうにペロッと舌を出して見せた。
「大好きなんだから、仕方ないじゃん。
悔しかったらお前らも女作れ」
「がっ!」
「ぐっ!」
二人は凍り付いた。
「やっと黙ったか」
西君は鼻を鳴らした。
二人は固まったまま遠い目をしている。
その周囲に「ビュー」と木枯らしが吹いているような雰囲気だ。
あぐりと野村は隣同士で座っては居たが、一言も喋っていない。
あぐりは鏡を見てマスカラの点検に余念がなく、野村は難しい顔をして何か考え事をしているのだろうか。
先程のピリピリした空気を思い出し、ほなみは西君に抱き寄せられながらも不安で甘い気持ちに酔えなかった。
(話しやすい雰囲気にしてくれると綾波さんは言っていたけれど、一体どんな風にそこまで持っていくんだろう……)
あぐりと野村はお互いに目を合わせないままだ。
三広と亮介はショックから抜け出せないらしく、隅っこで壁に向かって何か話しかけている。
ほなみは不意に顎を掴まれた。
西君の澄んだ瞳がじっと見つめている。
こうして見られると、何度もドキンとしてしまう。
「何を考えてる?」
「――」
「……隣に居るのに、遠くに飛んで行きそうだな……」
「え……」
西君の瞳の中に切ない色が沈むと、顎を掴んでいた指が頬に添えられ、彼の唇が近づいて来る。
「……離さないけどね?」
「西……君っ」
シャンプーの香りと共にサラサラした前髪が額にかかる。
キスを受け入れようと目を閉じた時、ライヴハウスのドアがギイと音を立てて開いた。
西君が入口の方を向き舌打ちした。
「――本当に空気を読まないヤツだな」
ほなみは、ドアを開け入って来る綾波を息を呑み見つめた。
襟足まであった髪は短く切られ、いつものサングラスが無く、澄んだ切れ長の目からは全ての物を射抜く様な鋭い輝きが放たれている。
いつもはダークスーツだが今日は珍しく明るいグレーのジャケット、えんじ色のリボンネクタイを合わせていて、その様は西君の雰囲気そのものだった。
綾波は、まるで音を立てず歩く高級な飼い猫の様に優雅に歩いてきた。
ほなみの心臓が激しく鳴る。
(大丈夫……
隣には西君が居るんだから……
綾波さんを見ても……
私は……変になったりなんか……しない……)
ほなみは、胸のざわめきを必死に抑えながら、西君の手を思わず握る。
彼は、目を見開いたが、ほなみの額にキスをして囁いた。
「ふふ……
ほなみは、甘えん坊だな」
ほなみは彼を真っ直ぐに潤む目で見つめた。
綾波は、上着を脱ぎバーテンに預けながら二人を見たが、その表情からは彼が何を思うのかは読み取れない。
「皆揃ってるな」
「揃ってるなじゃね――よ。
お前が最後だぜ?
罰ゲームで後で何か歌えよ」
西君は憮然と頬を膨らませた。
「別に構わん」
綾波がニヤリとした時、バチッと視線がぶつかり、ほなみは思わず西君の背中に隠れた。
またからかわれるかと身構えていたが、綾波はそのまま三広と亮介に声をかけて、二人を引きずって椅子に座らせた。
皆がテーブルにつくと同時に、待ち構えた様にバーテンが次から次へと飲み物を運んで来る。
「今日は飲むわよ――ほなみ!
ぶっ倒れたら後は宜しくね!」
あぐりが鼻息荒く言った。
「うん……ほどほどにね?」
野村が然り気無く隣のあぐりにグラスを差し出すと、あぐりも素直に受け取っていた。
ほなみは、それを見て少しホッとした。
「西君、何を飲む?」
「俺はジュースかウーロンでいい」
「飲めないの?」
「いや、酒は喉に良くないからね」
「そうか……」
ほなみはグラスにウーロンを注ぐ。
「沢山飲みなよ……ちゃんと介抱するから……ふふ」
西君はクスクス笑って、綺麗な緑色のカクテルを寄越した。
「これジュース?」
「さあ、どうかな?」
綾波が咳払いをすると立ち上がった。
「さて、じゃあ始めるか。今日は祐樹の誕生日の前祝いと……
活動を再開するクレッシェンドの決起会だ。
テレビ収録も近いしレコーディング作業も始まる。
いいか、お前ら。
世間の注目が集まっている中与えられたチャンスをムダにするなよ。
新曲は絶対に初回チャート一位だ。
それ以外あり得ん」
きっぱりと言い切り、メンバー一人一人の顔を綾波は鋭い目で見た。
ひゅうっ、と亮介が口笛を吹いた。
「い、一位……っ」
三広が大きく目を見開き、野村は端正な口元をキュッと引き締める。
「どうだ祐樹。出来るか」
綾波が挑みかかるような視線を向けると、西君は涼やかに笑った。
「せっかく復活するんだ。ど派手にやってやるよ」
「おう、言ったな?」
「当然さ」
二人の間にバチバチ青い火花が散るように見えた。
「あ――っ!と、とにかく、頑張ろうよ!
気張らず無理せず追い込まず自分達の全力を出そう!」
「三広。頼りないがリーダーはお前だ。
しっかりやれよ」
「ぐっ……
プレッシャーかけんなよ!」
「じゃあそういう事で、祐樹の誕生日と、クレッシェンドの新たな出発に、カンパーイ!」
亮介がグラスを掲げた。
皆でグラスをぶつけ合い、場は一気に宴会モードになる。
「リーダー……
俺って……リーダーなんだよね……
でも……体重軽いし……背ぇ小さいし……
他の長身バンドマンに喧嘩売られたら……
マジで……負ける自信しかない……
ふふ……アハハ……
でも……が、がんばらなくっちゃ……
でも……怖い……
怖いよぉ……っ」
三広は早くも酔ったらしく、ブツブツ言いながら泣いている。
亮介はせっせとテーブルの料理を皿に取り分け皆に分けていた。
「はい、あぐりちゃん」
亮介がお皿を渡すと、あぐりはニッコリ笑った。
「ありがとー」
「沢山食べなよ。
もう少し太った方がいいよ」
野村に言われて、あぐりはムッとして睨んだ。
「言われなくても食べるわよ!それに、そんなにガリガリじゃないわよ!」
「うん。知ってるよ……
でも、お尻の辺りとかもう少し大きいほうが――」
「何言ってんのよバカー!」
あぐりは真っ赤になり、金属のトレーで亮介の頭をぶん殴った。
「ぐはあっ!
な、何で俺が殴られるのっ?」
「あぐり……今朝はゴメン」
頭を押さえ痛みに呻く亮介をよそに、野村はあぐりの手をそっと握る。
「ううん。何を言われても仕方ないもの……
もう嫌いになったでしょ?」
あぐりはカンパリソーダを口に含んだ。
「……ならないよ」
二人はテーブルの下で指を絡ませた。
「ほなみ、これもジュースだから飲んでみなよ」
ニコニコしながら西君は次から次へ、ほなみに飲み物を寄越す。
緑色のソーダの次はピンクと黄色の層になったチェリーの沈むカクテル。
今度は
「美味しい珈琲牛乳だよ」等と言い、カルーアミルクを飲ませようとしている。
既に、ほなみは体がふわふわしていた。
「もう……全部……お酒でしょ?」
「違う違う。ジュースだよ」
「美味しい……」
琥珀色が沈む白い液体を一口流し込むと、またカッと身体が熱くなる。
「祐樹、飲ませ過ぎだぞ」
いつの間にか、正面に水割りのグラスを手に綾波が居た。
「あや……みしゃん……ひっく……うふふ」
ほなみは、酔いのせいなのか笑いが込み上げて来た。
綾波は呆れた様に肩を竦め、西君の頭を小突いた。
「ベロベロじゃねえか。
加減を知らんのかお前はっ」
「可愛いからつい……さあ。
ふふ……ごめんね?」
頭を撫でられて、ほなみは彼の肩に甘えて凭れかかる。
綾波の視線を感じたが、酔いのせいだろうか。
見つめられても恥ずかしい気持ちはなかった。
「ほなみ。
これを付けておけ」
綾波は、おもむろにポケットから何か出したかと思うと、ほなみの左手を掴む。
「綾波!何すんだ」
西君が目を剥く。
「いやあん……
あやなみしゃん……なあにい?」
「……じっとしてろ」
左手首に冷たい感触が気持ちよかった。
金の細いバックルだった。
「きれーい……」
華奢な輝きを放つそれをほなみはうっとりと見つめた。
「綾波!何のつもりだ?
それに、外れねぇじゃないか」
「本当だ――取れない……ふふ」
綾波は柔らかい笑みで、ほなみの左手首を見た。
「よく似合うぞ……
まあ、お前らに祝いの代わりだ」
「だから何の祝いだよ……恋人みたいにこんな物押し付けやがってお前」
「祐樹。細かい事でガタガタ言うな」
「言うに決まってるだろ!」
怒る西君の相手をせず、綾波はほなみに耳打ちした。
「――御守りだと思え。絶対に外すな」
思わず心臓が跳ねたその時。
ステージが眩い照明で照らされ賑やかなリズムのドラムが鳴り響く。
鳴らしているのは三広だった。
いつの間にか亮介と野村までがステージに立ち演奏を始めていた。
勇ましくリズミックな、まるでアニメか戦隊ヒーローものの主題歌みたいな曲だ。
西君は眉をひそめる。
「……待てよ?……これはまさか」
「なあに?」
「俺が作った曲だ」
「えっ?こんな曲クレッシェンドにあった?」
あぐりが言った時、
ステージの三人が一斉に
「HEY!」
と叫び、濃いスモークの中から何かが現れた。
「何あれ?」
白にラメ仕様の派手なオバQに似たキャラクターがステージ中央で激しくジャンプをしている。
ジャンプする度に腕に付いている簾みたいなキラキラした紐がブワッと広がった。
オバQ擬(もど)きは激しいヘドバンをメンバーと共に決めて、歌い始めた。
『HEY!GO!
HEY!GO!
ハリケーン
俺が 来なくちゃ
始まらないぜ
HEY!GO! HEY!GO!
サイクロン
俺が 噂の
“はまじろう”』
ステージ横に設置された巨大な扇風機から風が送られて、
“はまじろう”の布地と簾はバタバタとはためいた。
よく見ると、胸の辺りには
「HAMA」
という文字が書いてある。
綾波はニヤニヤ笑い、西君は頭を抱えている。
(どこかで聞いたような声……)
ほなみは、ある人物が思い当たった。
着ぐるみの目の下にわずかに穴が空いていて、そこから覗く顔を見て、確信する。
「――は、浜田さんっ」
ほなみとあぐりは同時に叫ぶ。
「ギャハハハハ」
もう我慢出来ないという風に西君は笑い転げた。
「マジか……浜田さん……
頼まれて、デビュー前にテーマソングを作ってやったんだよ俺」
「テーマソング?」
「“嵐を呼ぶはまじろう”のテーマソングだよ……俺に取っては黒歴史だよ……ぷっ」
着ぐるみを着ているとは思えない激しい動きで浜田はステージを駆け回る。
「大丈夫かよ……血管切れるぞ」
息も絶え絶えに笑いながら西君は浜田のパフォーマンスに手を叩いて喜んでいる。
長い長い間奏では、見事なバク転を決めて見せた。
「おおおっ」
皆一斉に声を上げた。
「宴会にはピッタリの男だな」
綾波が手拍子しながら頷く。
『吹きすさぶ
ハリケーン
恋の 愛の ハリケーン
お前の 心に
吹きすさぶ 愛の
ハリケーン
want to you!!』
パァンという破裂音と共に銀テープが舞い、亮介と野村と浜田は演奏の締めに一斉にジャンプを決めた。
拍手喝采といっても、ほなみ達と店のスタッフ位だったが――とにかく、大きな拍手を皆で送った。
「はーい!ほなみちゃんに、あぐりちゃん!
久しぶりだねえ!」
はまじろうの姿のまま浜田がステージで叫ぶ。
「浜田さん……!凄かった……です……ぷっ!」
ほなみとあぐりは涙を流し、抱き合い笑い転げた。
「今日はお祝いに駆け付けよ!
それと、これは僕からのほんの気持ちだよ」
スタッフが布のかかった大きな何かをキャスター付きのテーブルに乗せて運んできた。
「――?」
「西君、ほなみちゃん、一緒に開けてごらん」
二人は顔を見合わせ、布を引っ張った。
すると現れたのは、一番上に可愛い二匹のネコがキスしている形の砂糖菓子が載っている大きなケーキだった。
「うわあ……」
二人は、感嘆の声を上げた。
「Happy Birthday&Happy wedding!」
浜田が叫び、バンドメンバーがスローテンポのBGMを演奏し始める。
「浜田さん!?」
「それはバースデイケーキを兼ねたウェディングケーキだよ!
西君、プロポーズしたんだろう?
僕からのお祝いさ!」
ほなみは困って綾波を見たが、彼は小さく頷く。
「ほなみ……今話せ」
ほなみは首を振った。
「無理、無理です」
あぐりが手を握る。
「ほなみ、頑張って」
「ほなみちゃん!大丈夫だよ!」
「俺達も味方だよー!」
ステージから三広と亮介が叫び、野村も頷いている。
「ほなみ……?」
西君は不思議そうな表情で、ほなみを見た。
「……私、私…」
ほなみは胸がつっかえて、上手く話せない。
喉の奥がぎゅうと締まり、痛い程だった。
「聞くから……言ってごらん」
西君は、ほなみの手を握り締め、皆も固唾を飲み見つめている。
崖から飛び降りる様な覚悟を決め、ほなみは言った。
「西君――私……
あなたと結婚……出来ない」
「……なぜ?」
彼の瞳の奥が、水面に石を投じたかの如く揺れた。
「私にはっ……
おっ……
夫が居るから……
だからっ……」
しゃくり上げるほなみの手を握る彼の指に力が込められ、その瞳がまた、ゆらりと色を変える。
「今のままじゃ……無理なの……
だけどっ」
「……」
「私は……
私の答えは……イエスしか……ないの!」
「ほなみ――」
「西君と……西君と一緒に居たいの――!」
涙が溢れた瞬間、彼はほなみを抱き締めた。
「私…っ……私」
「わかった……ほなみ……わかったよ」
ほなみは、西君の背中に腕を回して咽び泣いた。
バーンとシンバルを鳴らし、三広が叫ぶ。
「祐樹――!
勿論、お前の答えはイエスだよな?」
「お前がビビってほなみちゃんを捨ててみろ――!?
そしたら、俺がほなみちゃんをお嫁さんにするべく旦那と戦うまでだ――!」
亮介が演奏しながらジャンプして叫ぶ。
「はあ!?」
ほなみを抱き締めながら西君が叫ぶ。
「尻込みして諦めるとか、男の風上にも置けないぞ」
野村が華麗にターンを決めながら攻撃的なフレーズを奏でた。
「祐樹。
お前に覚悟がないなら、俺がほなみを貰うぞ」
綾波が鋭く西君を見た。
「綾波っ……お前」
「ほなみちゃーん!
僕も付いてるからねー!」
浜田が着ぐるみの中から叫んでいる。
「にっしもと――!
ほなみを捨てたらあんたの悪口をネットにたんまり書き込んでやるからねえぇっ!
風評被害の影響をなめんじゃないわよ――!」
あぐりも柄悪く、巻き舌で叫ぶ。
西君は震え出し、やがて爆笑した。
「――全く……お前らは」
「西君……」
涙でグチャグチャになりながら、胸の中で西君を見上げると、今まで見たことが無い程の優しい笑みがそこにあった。
「何となく分かってたよ」
「えっ……」
「ほなみのマンションに泊まった時から、そうじゃないのかな、て思ってたよ」
「……なのに……なんで?」
「結婚してるとかしていないとか……
そんな問題なんて関係ない位、ほなみが好きなんだよ」
「西君……!」
「あ――よかった。
今『旦那と別れられないからあなたとは終わりよ』
て言われるかと思って、俺泣きそうだったよ?」
「本当に……本当に?」
「……俺は、ほなみが欲しい!
誰に何と言われても、ほなみが好きだ!
お前らも、わかったか!?
ほなみは誰にもやらないからな――!」
ワアッと皆が喚声を上げ、三広が満面の笑みで、ドラムロールを始める。
バーンというシンバルの音と同時に、浜田がくす玉の紐を引っ張ると、紙吹雪と共に白い鳩が飛び出し、長い垂れ幕には
『目指せ!円満離婚』
と、達筆に描かれた文字。
「ぶっ!」
「……」
西君は笑い出したが、ほなみは流石に引いた。
「おめでとー!」
「やったー!」
「もう離婚出来たも同然よ!」
「ヒャッハー!」
ステージにあぐりも乱入して、皆で騒ぐ中、ほなみは西君に抱き締められながら綾波を見た。
「まあ、大変には違いないが何とか頑張るしかないだろう」
綾波は事も無げに言った。
「綾波……
さっきの、本気じゃないだろうな!」
「何の事だ」
「だから……ほなみを貰うぞ、とか何とか!」
「さあ、どうかな」
綾波は妖しく笑いほなみを見た。
「このっ……」
綾波に掴みかかろうとする西君に、ほなみはしがみつき、キスした。
「ほ……なみ」
彼が、輝く瞳でほなみを見つめる。
「好き……好き……」
「ほなみ……!」
再び、ほなみは物凄い力で抱き締められた。
綾波はそんな二人を静かな眼差しで見つめていたが、やがて椅子から立ちバーテンに飲み物を頼みに行った。
「もう……絶対に離さない」
「うん……」
「ウザいって言われても離さないからな!」
「うん……でも、ちょっとだけ今離して?」
「えっ」
「外の空気、吸ってくる」
「一緒に行くよ」
「すぐに戻るから、ね?」
ほなみは、西君の頬を両手で挟んで唇に軽くキスした。
「祐樹――!助けてくれ――!
三広がまた鼻血――!」
亮介が絶叫している。
「やれやれ……」
西君は溜め息を吐いて、ほなみをゆっくり離した。
「行ってあげて?
私もすぐ戻るから」
「うん……本当にすぐだよ?ほなみ」
ほなみは手を振り、ライブハウスの扉を開け外に出た。
見事な満月の今夜は、昼間の様に明るい。
澄んだ冷たい空気を吸い込み、ほなみは白い月をうっとり見上げた。
パーティーが始まるまでの不安な重い気持ちは嘘みたいに消えていて、何でも出来る様な気持ちが湧いてきた。
伸びをして戻ろうとした時、後ろから屈強な力で掴まえられた。
「何っ――」
じたばたもがくが、敵わず後ろに引っ張られる。
口を塞いでいるその手を噛もうとしたら素早く白い布を嗅がされ、途端に身体中の力が抜けていく。
倒れそうになるのを強い力で支えられた。
「悪く、思わないでね?
ほなみさん」
聞き覚えのある懐かしい声。
薄れ行く意識の中、そのひとの名前を呼ぼうとしたが、月が雲に隠れるように、ほなみの全ての感覚は闇に沈んだ。
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