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揺れる夜②
しおりを挟む由清は小さく笑うと、グラスに残るビールを一気に煽り、息を吐き出しながら言った。
「三広君も桃子って呼ばないのにって?」
「……!」
桃子は溢れる涙を指で拭いながら、涼しい表情で自分の思いを言い当てる彼を呆然と見た。
「だから、全部顔に出てるんだよ……そういうところが隙だらけなんだよ……桃子は」
「……っ!ま……また桃子って呼んだ――!」
「うん、呼んだけど」
「それはダメっ」
「なんで?」
「な、なんでってだから三広君が」
「彼氏でもない他の奴に名前を呼ばせてるなんて事が『三広君』に知れたら不味いって?」
由清の『三広君』に込められた僅かな皮肉な響きに、桃子はムッとして口を開くが、言い返す言葉が出てこない。
口を開いた隙を狙ったように、由清が素早く桃子の唇を再び奪った。
由清の頬を叩こうと振り上げた右手は難なく掴まれてしまい、左手で――と桃子は拳に力を込めた。が、その瞬間に彼の長い指が彼女の小さな手を絡めとってしまう。
「――!」
桃子は目を大きく開き、唇を重ねている由清の目を見詰めた。彼の澄んだ瞳は三広の眼差しを思わせるが、勿論彼は三広ではない。自分の恋人の――唇も、身体も心も許した三広ではないのだ――桃子は開いた唇を割って由清の舌が入ってくるのではないか、とおののき身体を強張らせ、また涙をその瞳に溢れさせるが、由清は突如桃子の両手を握ったままで唇を離した。
「あっ……アンソニー……酷い……」
桃子は涙をはらはら流しながら、由清の手をキツく握って――正確には、彼の掌に爪を食い込ませている状態だったが、傍目からは熱く見詰めあいながら手を握りあっているように見える――桃子は責める様に彼を睨みつけたつもりだが、由清はその眼差しに心も身体も甘く痺れていた。
「酷くない……俺は……男なら当然の事をしただけだよ」
「――!これが……これが当然なの?わ……私、三広君が……好きなのに……っ……でも……アンソニーの事も嫌いじゃないから……だから……会えて嬉しくて……なのに……こんな――」
桃子は話しながら、自分の気持ちが分からなくなってきた。
由清にも以前きっぱりと告げた筈だった。
一番好きなのは姉の美名、二番目が由清、そして三広は他のどの存在にも替えがたい特別なのだと。
あの時は全く迷い無く言い切ったのに、今は同じ言葉を果たして言えるだろうか?
由清には、目の前でしゃくり上げる桃子の胸のうちが透けて見える様だった。
桃子は恐らく三広との間に大きな事件があって――それもかなり重大な――自分の中で飲み込めないままでいるのだろう。
完璧な人間など居ないし、どんな恋人同士も何かしらの行き違いやいざこざを経験する。由清はホスト時代に散々彼氏の愚痴の聞き役をしていたのだ。
ホストとして客の話を延々と聞いていた時には自分の個人的な考えや感情を一切押し殺して、彼女達の心にひたすら寄り添う『振り』をした。人から聞かされる全ての言葉を受け止めていたら自分が呑み込まれてしまうし、ネガテイブな気持が伝染してしまい、自分の生活に影響を及ばさないとも限らない。
それに、彼女達だって由清に本気の意見など求めていない。ただ話を聞いて、共感して欲しいだけなのだ。
冷たいようだが、右から左へと流す位が丁度いい――
だが、それが、自分のプライベートで、しかも相手が桃子ならば話は全く別だ。
恋愛に於いて一番最初に感じる大きな喜びは、お互いの思いが通じあった瞬間なのだろう。例え片想いであっても恋愛であることに間違いはないが、一方的に相手に焦がれるだけの恋は切なくて出口が見えない。そう、正に今の自分がそうだ――と由清は思う。
桃子の幸せを心から願っている故身を引いたが、桃子が今の恋に疲れてしまっているとしたら――
「アンソニー……は……なして」
「って、桃子だって俺の手をずっとつねってるじゃないか」
「そ……それは……だって」
「いいよ、つねっても叩いても。俺はキスをさせて貰えれば大概の事は平気だし」
「――!」
桃子は絶句してますます鮮やかな色に頬を染めた。
由清の目には、その反応が堪らなく可愛く映り、また素直過ぎる彼女に感動さえおぼえる。
「と……とにかく、桃子って呼んじゃ……ダメ……っ」
恋愛に慣れていない桃子は、由清の甘く、抜け目のない攻めに翻弄されっぱなしだった。はなから好意を抱いていない相手なら兎も角、由清に対しては――友達と呼ぶには危うい、ボーイフレンド、と軽く呼ぶにしては少し重い、という曖昧な気持ちを抱いている。
そんな彼から、三広と仲違いしている今、その魅惑的な声で名前を連呼されたら、正常な判断が出来なくなりそうで怖い。
由清は桃子の手を握る力を込め、真顔になる。
「うん、いいよ、止めても」
「えっ」
あっさりと引き下がる彼に驚く桃子だが、彼が次に口にする言葉に返事が出来なくなってしまう。
「俺の事、名前で呼んでくれるなら……ね」
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