月夜の理科部

３．下弦

第16夜 先輩と後輩（上）

　夜の学校には、もう慣れてしまった。最初の頃は、探検気分でドキドキし、見る景色全てにワクワクしたというのに。
　屋上から校庭を見下ろして「はぁ」とちいさなため息をひとつ。ローラーがけの跡に朝礼台の影。どこか人の存在を感じさせる。ここは月じゃない。
　冷たい秋の風が通り抜けた。夕暮れの反対側にはぽっかりと顔を出す大きな満月。今夜は中秋の名月だという。

「よし」

　覚悟を決めた。いつもの理科室に顔を出さず、先輩の待つ天文ドームに直行する。

「うん、大丈夫。きっと……」

　小さく呟きながら、天文ドームの扉を開けた。

「あのお、羽合先輩。ちょっとお話が……」
「ん？　どした？」
「あ、いや……」

　すぐに言葉に詰まってしまった。

「か、観測とか、忙しいですよね？　だったら、また今度にしま」
「今日は満月で明るいから、観測は中止だよ」

　屋上に出て、東から登る満月を眺めた。地平線を離れたばかりの月は、電波塔の影でモジモジしていた。なんだか私みたいだ。

「あの、月面望遠鏡って、興味あります？」
「もちろん。興味あるよ」
「実は、観測時間マシンタイム、手に入れたんです」
「マジ!?」

　小学生男子のような屈託のない笑みを浮かべる先輩。

「うん。マジです。知り合いの大学の先生に分けてもらえることになって……」

　私は早くも内心ガッツポーズした。

「すごいなぁ。いいなぁ……」
「あの、それで、先輩にあげます。観測時間マシンタイム。前に言ってましたよね？　使えればなあって」

　私は手提げから、ミルク色のキーホルダーのようなものを取り出した。５センチほどの大きさで、中央に液晶と小さなボタンがついている。

「はいこれ。トークン。利用サイトのパスワードが出ます。ＩＤは、メールで送りますね」
「ホントにいいの？」
「もちろん！　だって――」

　このときのために、先輩のために、頑張ってきたんだから――。先輩の瞳をじっと見つめると、彼は「サンキュ」と大事そうにポケットにしまった。

「あの、変なこと聞いていいですか？」
「何？」
「あ、あの……。先輩、カノジョいますか？」
「いるよ」
「あ……。そ、そうですよね」
「月の裏側、にね」
「えっ!?」
「フフッ。望遠鏡の話だよ、望遠鏡っ」

　先輩はイタズラっぽく鼻を鳴らした。
　月の裏側は、地球から見えない。不思議なことに、月が地球の周りを１周する周期と、月自身が１回転する周期が、ぴったり等しいからだそうだ。そのため、月はいつでもウサギが餅つきするあの模様だけを私たちに見せる。

「裏側はいいよ。地球側はうるさすぎるからな」

　コテッと首をかしげる私に、先輩は柔らかい声で続けた。

「裏側なら地球からの電波を、月が遮断してくれる。電波的に静かな裏側に、大きな望遠鏡を建てる計画があるんだよ」

　月面クレーター電波望遠鏡。裏側に建設予定の電波望遠鏡で、直径１キロメートル。完成すれば、太陽系で最も大きな電波望遠鏡になる。先輩がとうとうと説明してくれた。

「あの、それで……。先輩っ！」
「あ、ゴメンゴメン。望遠鏡の話はもういいか。ハハ。で、話ってなんだっけ？」
「あの、わ、私……。ずっと前から、先輩のことが――」
「ふふ」

　そういうと、先輩は私の顔を覗き込み、唇を「ナイショ」とするように人差し指で優しく押さえた。びっくりとドキドキで「ふぁ」と変な声が口から漏れた。

「あのさ。俺からも、ちょっとお願いがあるんだけど。いい？」

　先輩は琥珀色の満月に背を向け、屋上のフェンスに寄りかかる。

「次の天文部の部長、キョウカがやらない？」

　夜風に前髪がなびき、彼のシャープな口元が少しだけゆるむ。

「ほら、俺、もう卒業だからさ。いま、天文部は理科部に間借りしてる状態だけど、やっぱ独立してたほうがいいと思う。部として」
「そう、ですか……？」

　頭の上にはてなマークを３つも４つも浮かべ、キョトンとする私。

「天文部と理科部、大して違わないじゃん、って思ったでしょ？」

　じりっと近寄る先輩。図星すぎる。

「え、えっと……。はい」
「フフッ。正直でよろしい。――だから、部長は、キョウカがいいと思う」

　私は上目遣いで先輩の顔を覗いた。