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第4章「春」

12.淡雲ウェンズデー(1)

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 春めいた3月の風に吹かれ、これで天文ドームともお別れなんて感傷にひたりながら屋上に立っていた。今日が最後だと思うと、名残惜しさが込み上げてくる。ふと見上げれば、薄い雲の向こうに青空が透けて見える。
 卒業式を終えた学校は、もう私の居場所ではない。3年生の教室はもぬけのカラ。廊下ですれ違うのは下級生ばかりだ。

「おー霜連。ごめんごめん、遅くなった」

 と、羽合先生が階段室から姿を現した。その顔を見た瞬間、私の心に安心感が広がる。

「あれっ? 先生、スーツにネクタイ? 珍しい」

 小脇に抱える書類が目にとまる。どうやら職員会議に出てきたらしい。

「珍しい。会議は性に合わないんじゃなかったんですか?」
「心を入れ替えた」と先生。

 そう言って彼はフェンスまでやって来ると、じっと私の顔を見つめた。

「嘘でしょ?」

 私が疑うように尋ねると、

「嘘だよ」

 と先生はネクタイを緩めながらニヤリと笑った。

「もうっ!」

 私が頬を膨らませると、先生は

「会議は本当。いろいろあるんだよ、大人の事情ってやつでさ」

 なんて言葉少なに告げて、手を振りながら颯爽とドームに入っていってしまった。

「こりゃあ、雪でも降りそうだな」

 先生に聞こえるようにわざと大きな声でいうと、先生はドームの入口から顔をだして笑った。

「いいね。じゃあ、スキーでも行くか」
「わ、大学生っぽい! いくいく!」

 私はそう言ってドームの入口に体を滑り込ませた。

「滑れるのか?」
「ひどい。いつもドジってわけじゃないんですよっ」

 冗談交じりの会話をとりとめもなく続けながら、せっせとドームの片付けに励んだ。来月からは校舎の建て替え工事が始まるのだ。

 望遠鏡の部品、文化祭の展示の残骸、誰ももらい手のない実験ノート、使い道を失った釣り糸。あまり躊躇することなく、「必要」と「不要」を仕分けていく。こういう作業は、成果が目に見えるから好きだ。一方の先生は、がらくたが宝物に見えるらしく、捨てられずにいる。困ったな。楽しそうな様子の先生を見て、私は苦笑するのだった。

「霜連、こっちのダンボールはどうする?」
「えっと、中に何が入ってたんでしたっけ?」

 私は記憶をたどりながら聞き返した。

「予備のバルーンが1つと、カプセルの設計図とか、かな」

 と先生。

「どうせもう使わないですよね」

 私が現実的な意見を述べると、先生は渋い顔で唸った。こりゃダメだな、と観念した私は

「しかたないなァ……じゃあ取り敢えず理科室に降ろしましょう」

 と提案する。先生は満足げに頷くと「よし、こっちに避けておくとするか」と言って、素早く箱を移動させた。
 棚の一番下の段にも、まだひとつダンボール箱が残されていた。

「これは?」
「ああ、それは――私、持って帰ります」

 お姉ちゃんが打ち上げたカプセルが入っている。理科部の物品だけど、もう時効だ。捨てることになるとしても、一度はお姉ちゃんの部屋に戻してあげたかった。
 棚の整理を終えると、いよいよドーム中央に鎮座する望遠鏡の掃除だ。鏡筒をピカピカに磨いてあげたい。

「そう言えば、雨宮と風間は、どうなった?」

 先生が「ほれ」と脚立の上の私に雑巾をパスした。

「えっ? 2人なら付き合ってますよ。順調に」

 その答えに先生は目を丸くして

「いや、そうじゃなくて。大学の合否だよ、大学!」

 と突っ込む。

「あ、そっか。陽菜は合格したんだけど、大地は……後期でリベンジするらしです」

 そう言いながら、私は鏡筒に付着したホコリを念入りに拭き取っていく。一度雑巾の面を変えて、更にもう一度磨き上げる。

「陽菜は『後期は別の大学を受けたら?』って勧めたらしいんですけど、大地ったら『諦めの悪さはお姉ちゃん譲り』とか言って取り合わないんだって」
「ハハッ、風間らしいな」
「でしょでしょ。アハハハ」

 私が頬を緩めると、先生は笑いながら足元のバケツで雑巾を軽く水洗いして、また私に手渡してくれた。

「ーーまぁ、でも、風間は大丈夫だろ」と先生。
「うん。私もそう思います。アイツ、何があっても、きっと大丈夫」

 ピカピカになった望遠鏡に「いままで、ありがと」と言ってコツンと額をあてる。白い鏡筒の感触は冷たく心地よい。

 来週にはいよいよ架台から取り外されてしまう。最後にもう一度覗いておけばよかった――。そんな心残りを感じながら、脚立を降りた。望遠鏡を支える銀色の架台を軽く叩き、長年の労をねぎらった。

「はい、ご苦労さん」

 先生から差し出されたペットボトルを受け取った。

「だから飲食厳禁ですって」という私の視線と「まぁ、カタいこと言うな。今日は無礼講」なんていう彼の視線がぶつかる。

 お気に入りのフルーツティー。

「ねぇ先生」

 蓋をあけ、こくこく飲む。
 ほのかな甘み、でもくどくはない。甘そうで甘くない――。好きだ。

「「4月から……」」

 いかにも自信のない私の声に、先生の声が重なった。

「あ……じゃあ、先生から、どうぞ」
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