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第3章「冬」
8.凍雲リグレット(5)
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社務所で宮司さんに謝ると、彼は穏やかに笑みを浮かべ「はっはっは」と許してくれた。奥の和室で救急箱も借りる。私がペタリと座り込み、足の痛みに顔を歪めていると、羽合先生が心配そうに声をかけてきた。
「霜連、足出して」
そう言われても、素足を見せるのも触られるのも、なんだか恥ずかしい——。
羽合先生は躊躇なく手を伸ばしてきた。
「ほら、どこが痛いの?」
そう笑いかける。冷えた足を、彼の大きくて温かな手が包み込む。先生の丁寧な手つきで包帯を巻いてもらい、少しお姫様気分に浸った。とはいえ、さすがに靴下は自分で履くと断った。
痛みが和らいできた頃、宮司さんが和室に現れ、お茶を振る舞ってくれた。
「また気球を飛ばしたんですか?」
「はい。今はまだ実験段階ですけど、本番は卒業式の日にみんなで風船を飛ばすんです。一番高く上がった生徒の願いが叶うっていうジンクスがあって」
「それはそれは。なんとも興味深いお話ですねぇ」
宮司さんは両手で湯呑を包むように持ち、静かにお茶を啜った。そして目を細めてこう続ける。
「実はですね、当社には『渚渡し』という神事が伝わっておりましてね。短冊に願い事を書いて、それを風船に結びつけて飛ばすという」
「えっ、あはは、なんだかうちの行事と似てますね」
「ええ。それだけでなく、もっと奇妙で深い繋がりがあるなぁ、とーー」
「どういうことですか?」
身を乗り出して聞いたのは、羽合先生だった。
「ええ。あなた方の高校があった場所には、以前神社があったんです。当社と姉妹関係にあたる、縁の深い神社でしてね。江戸時代には向こうは上ノ宮、うちは下ノ宮なんて呼ばれていたそうですよ」「へえ、卒業生で今は教員をしている身ですが、全然知りませんでした……」
そう言って頭を掻く羽合先生に、宮司さんは「いえいえ」と目配せしながら続けた。
「織姫の姉妹がこの地に機織りを伝えたなんていう伝説がありましてね。姉が上ノ宮に、妹が下ノ宮に祀られていたんです。で、その渚渡しの神事というのは、上ノ宮から風船を飛ばして下ノ宮に届いたら願いが叶う、というようなものだったらしいんです」
神事の詳細を記した重要な書物は、戦時中の空襲で上ノ宮と共に焼失したらしい。そのせいで、宮司の彼でさえ「おそらく」としか言えないみたいだ。ここ下ノ宮は飛んできた風船を回収するだけで、肝心の神事のほとんどは失われた上ノ宮で執り行われていたことも災いしたという。
「なるほど、ジェット気流か。気球に必要なのは高度じゃなくて、飛距離だったんですね。なかなか、巧妙な仕組みだ」
羽合先生は一人で納得し、うんうんと頷く。私は「ううう、意味わかりません……。どういうことなんですか?」と頭を抱えた。
「そうだね。季節と時間さえ選べば、風向きなんて今も昔もそれほど大きくは変わらない。上ノ宮だった学校のある場所から飛ばした風船は、たいてい海風に阻まれて、ここまで届かない。でも、もし1万メートルより上まで昇れたら、そこにある強いジェット気流に乗れる。そうすれば風船は西に——つまり海に向かって一気に運ばれ、下ノ宮だったこの神社まで到達できるんだよ」
理科の先生らしく、羽合先生の説明は分かりやすく、表情も生き生きとしていた。
「おお、なるほど!」
「だから、気球を高く上げることは、下ノ宮まで届けたいという願いと同義なんだね」
宮司さんも先生の説明に感心したように、「はぁ」と息を漏らした。
上ノ宮焼失のあとに建てられた高校に伝わる風習。いつ誰が初めたのか、ジンクスの起源は誰も知らなかったが、渚渡し神事と深く結びついていることは明らかだ。宮司さんは、詳細は定かではないとしつつ、
「おそらく、上ノ宮がなくなった後も、神事への思いはずっと人々の心の中で生き続けていたのでしょうね」
と微笑んだ。
「恥ずかしい話ですが、夏に来ていただいた時は、正直『珍しいことだな』くらいにしか考えていませんでした」
そう言って宮司さんは後頭部を掻いてから、姿勢を正して私をまっすぐ見つめた。
「でも今はっきりと分かりました。渚渡し神事は、あなたの学校の風習として今も生き続けているんですよ。これ以上の『縁』はありません。ええ、私からも精一杯応援させていただきます。どうか卒業式の気球が成功しますように——」
「ふふ、ありがとうございます。頑張ります!」
そう言ったものの、カプセルは見つからず、自信はまだ持てずにいた。それでも応援の言葉に応えたい。そして神事との繋がりも大切にしたい。今はもうない上ノ宮が姉で、風船を受け取るこの下ノ宮が妹——そんな設定も、私は気に入っていた。
「先生、見ていてください。もう少しだけ、ガンバってみるからーー気球」
帰り道の車中、そうつぶやく私に、羽合先生は優しい微笑みを返してくれた。気球に込める思いが強ければ強いほど、もっと高く飛べる——そんな予感がした。
「霜連、足出して」
そう言われても、素足を見せるのも触られるのも、なんだか恥ずかしい——。
羽合先生は躊躇なく手を伸ばしてきた。
「ほら、どこが痛いの?」
そう笑いかける。冷えた足を、彼の大きくて温かな手が包み込む。先生の丁寧な手つきで包帯を巻いてもらい、少しお姫様気分に浸った。とはいえ、さすがに靴下は自分で履くと断った。
痛みが和らいできた頃、宮司さんが和室に現れ、お茶を振る舞ってくれた。
「また気球を飛ばしたんですか?」
「はい。今はまだ実験段階ですけど、本番は卒業式の日にみんなで風船を飛ばすんです。一番高く上がった生徒の願いが叶うっていうジンクスがあって」
「それはそれは。なんとも興味深いお話ですねぇ」
宮司さんは両手で湯呑を包むように持ち、静かにお茶を啜った。そして目を細めてこう続ける。
「実はですね、当社には『渚渡し』という神事が伝わっておりましてね。短冊に願い事を書いて、それを風船に結びつけて飛ばすという」
「えっ、あはは、なんだかうちの行事と似てますね」
「ええ。それだけでなく、もっと奇妙で深い繋がりがあるなぁ、とーー」
「どういうことですか?」
身を乗り出して聞いたのは、羽合先生だった。
「ええ。あなた方の高校があった場所には、以前神社があったんです。当社と姉妹関係にあたる、縁の深い神社でしてね。江戸時代には向こうは上ノ宮、うちは下ノ宮なんて呼ばれていたそうですよ」「へえ、卒業生で今は教員をしている身ですが、全然知りませんでした……」
そう言って頭を掻く羽合先生に、宮司さんは「いえいえ」と目配せしながら続けた。
「織姫の姉妹がこの地に機織りを伝えたなんていう伝説がありましてね。姉が上ノ宮に、妹が下ノ宮に祀られていたんです。で、その渚渡しの神事というのは、上ノ宮から風船を飛ばして下ノ宮に届いたら願いが叶う、というようなものだったらしいんです」
神事の詳細を記した重要な書物は、戦時中の空襲で上ノ宮と共に焼失したらしい。そのせいで、宮司の彼でさえ「おそらく」としか言えないみたいだ。ここ下ノ宮は飛んできた風船を回収するだけで、肝心の神事のほとんどは失われた上ノ宮で執り行われていたことも災いしたという。
「なるほど、ジェット気流か。気球に必要なのは高度じゃなくて、飛距離だったんですね。なかなか、巧妙な仕組みだ」
羽合先生は一人で納得し、うんうんと頷く。私は「ううう、意味わかりません……。どういうことなんですか?」と頭を抱えた。
「そうだね。季節と時間さえ選べば、風向きなんて今も昔もそれほど大きくは変わらない。上ノ宮だった学校のある場所から飛ばした風船は、たいてい海風に阻まれて、ここまで届かない。でも、もし1万メートルより上まで昇れたら、そこにある強いジェット気流に乗れる。そうすれば風船は西に——つまり海に向かって一気に運ばれ、下ノ宮だったこの神社まで到達できるんだよ」
理科の先生らしく、羽合先生の説明は分かりやすく、表情も生き生きとしていた。
「おお、なるほど!」
「だから、気球を高く上げることは、下ノ宮まで届けたいという願いと同義なんだね」
宮司さんも先生の説明に感心したように、「はぁ」と息を漏らした。
上ノ宮焼失のあとに建てられた高校に伝わる風習。いつ誰が初めたのか、ジンクスの起源は誰も知らなかったが、渚渡し神事と深く結びついていることは明らかだ。宮司さんは、詳細は定かではないとしつつ、
「おそらく、上ノ宮がなくなった後も、神事への思いはずっと人々の心の中で生き続けていたのでしょうね」
と微笑んだ。
「恥ずかしい話ですが、夏に来ていただいた時は、正直『珍しいことだな』くらいにしか考えていませんでした」
そう言って宮司さんは後頭部を掻いてから、姿勢を正して私をまっすぐ見つめた。
「でも今はっきりと分かりました。渚渡し神事は、あなたの学校の風習として今も生き続けているんですよ。これ以上の『縁』はありません。ええ、私からも精一杯応援させていただきます。どうか卒業式の気球が成功しますように——」
「ふふ、ありがとうございます。頑張ります!」
そう言ったものの、カプセルは見つからず、自信はまだ持てずにいた。それでも応援の言葉に応えたい。そして神事との繋がりも大切にしたい。今はもうない上ノ宮が姉で、風船を受け取るこの下ノ宮が妹——そんな設定も、私は気に入っていた。
「先生、見ていてください。もう少しだけ、ガンバってみるからーー気球」
帰り道の車中、そうつぶやく私に、羽合先生は優しい微笑みを返してくれた。気球に込める思いが強ければ強いほど、もっと高く飛べる——そんな予感がした。
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