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第2章「秋」
6.はね雲ファースト・フライト(3)
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案内開始の1時、屋上はすでに多くの人で賑わっていた。
目指す〈宇宙の渚〉は高度30キロ。それに比べれば、今回の高度50メートルの「係留飛行」は、まさに目と鼻の先。とはいえ、飛行に変わりはない。陽菜が読み上げるチェックリストに従って、私は入念に気球の準備を進めていく。
「ワイヤーの締めなおし」
「緩みなし。ぜんぶオッケー」
「搭載カメラの電源は」
「OK。ちゃんと赤ランプついてる」
「予備電源の接続」
「確認。大丈夫!」
最後にもう一度深呼吸をして自分を奮い立たせる。そっとカプセルを閉じ、継ぎ目には入念に防水テープを貼った。さぁ、いよいよ打ち上げだ!
「先生、お願いします!」
私の合図で、羽合先生がヘリウムボンベのバルブを開いた。みるみる膨らんでいく風船に、観客席から歓声が上がる。
「わぁ、すごーい!」
「早っ!」
あっという間に風船は、大人が両手を広げたくらいの大きさに。浮力を得た風船は、屋上を吹き抜ける風に揺らめきながら、スッと宙に浮いた。それを地上に押さえつけておくのは、結構な力仕事だ。
(今はまだダメ。もうちょっとだけ我慢して)
まるで生き物みたいにぐんぐん成長していく風船を見つめる。へその緒のようにボンベと風船を繋いでいたチューブを慎重に外し、空気の注入口を丈夫な結束バンドでしっかりと閉じた。
お姉ちゃんのノートに書いてあった通り、バンドは二重に巻くのを忘れずにーー。いざという時に備えて、釣り糸を握る手にはしっかりと力を込める。この風船を手放した瞬間、宇宙まで一直線に飛んでいってしまうかのような、不思議な高揚感。
いよいよその時が来た――
最後に、風向きを示す吹流しに目をやる。予報通り、風はほとんど止んでいる。午後からは無風状態が続きそうだ。
「打ち上げます!」
私の高らかな声が、青空に響き渡る。全員が一斉に空を見上げた。
「10秒前、9、8、7……」
私がカウントを始めると、今まであった賑やかな喧騒が一瞬にして消え去り、場内は水を打ったように静まり返った。
「5、4、3、2、1……放球!」
そう叫んだ瞬間、私の手が風船から離れた。
真っ白な風船が勢いよく一直線に空高く舞い上がる。少し遅れて、カメラを搭載したカプセルもすいすいと追随していく。今のところ、釣り糸のトラブルはなさそうだ。風船とカプセルを結ぶ細い糸が、まるで空に吸い込まれるように、するするとリールを繰り出されていく。
「高度10メートル到達!」
5メートル刻みでマーキングした目印を頼りに、私は高度を逐一報告する。風船は音もなく、でも勢いを感じさせながらグングン上昇していく。風に少しあおられ、校庭側に流されながらも、概ね真上に向かってまっすぐ昇っている。目を細めると、カプセルが回転しているのが見えた。あれじゃ上手く撮影できないんじゃ…………そんな心配が、じわりと胸をよぎり始める。
「高度20メートル!」
まだ目標の半分だ。私が不安で顔をこわばらせていると、羽合先生が優しく微笑みかけてくれた。
「霜連、大丈夫だよ。ちゃんと糸に手をかけておいて」
「は、はい!」
先生の励ましの言葉で、不思議と不安が霧散していく。今自分にできることを、全力でやろう。そう心に誓って、私は再び空を仰ぎ見た。
「高度30メートル! もう半分以上」
青空の中、真っ白な風船が小さく見える。下でぶらぶらと揺れるカプセルは、もはや頼りなく見えるばかり。用意した釣り糸の長さは全部で55メートル。この高度からは、宙に迎えられた糸の長さのほうが、地上にとどまる分よりも長くなっている。
細く光る釣り糸が、ピンと張りつめ、まるで空へと伸びる一本の直線のよう。ヘリウムガスの量とサイズの計算は正確だったようで、風船の浮力に問題はなさそうだ。頼もしい風船は、カプセルをどんどん引き上げ、青空の奥深くへと誘っていく。
「高度40メートル!」
「わぁ、すごーい!」
「こんな高いんだ!」
「あっという間だね!」
歓声と驚きの声が子供たちから次々にあがる。この高さは、10階建てのマンションをゆうに超えるほど。周囲に高い建物が少ない立地のおかげで、風船の存在感はひときわ際立っている。屋上から打ち上げたというのも大きい。
糸に結び付けた赤いマーカーが、軍手をするする滑り抜けていく。残すところあと5メートル。ゴールは、もう目の前だ。
「高度50メートル……係留開始!」
私は素早く釣り糸を掴むと、手のひらにぐるぐると巻きつけ、しっかりと押さえつける。ほぼ同時に、天文ドームの土台に結んだ反対側の糸もピンと伸びきった。
この瞬間、釣り糸には実験中最大の張力がかかるはず。息を呑んで、風船と糸の結び目に目を凝らす。何事もなく持ちこたえていた。よし、この程度の力なら糸は耐えられる!
秋の青空に白い風船が映え、まるで雲の波間を悠然と泳ぐかのよう。風に揺られるたびに、宝物を運ぶ使者のようなカプセルがきらりと輝く。このまましばらく係留して様子を見よう。本番では、90分以上にわたって風船を浮遊させる必要があるからね。
校庭からも歓声と拍手が響いてくる。カメラを搭載していることを伝えると、皆わくわくした表情で、それぞれ踊るように個性的なポーズを取り始めた。
「ちゃんと撮影できてるかな……」
クルクル回転が続くカプセルの様子が気がかりだ。でも、そんな心配をよそに、気球はあっという間に学校中の話題となり、サッカー部の交流試合から弓道場の屋根の雨漏り検査まで、撮影依頼が殺到した。
「ぜんぶ風まかせなんです」
なんて言って追い返そうとするも、みな嫌な顔ひとつせず「それは楽しみ」とむしろ喜ぶ始末。
ノリノリの校長先生のご提案で、校章の人文字を空撮することになってしまった。暇な生徒や来場者も巻き込んで、みんなで校庭に出ては校章の形に並ぶ。服も背丈もバラバラ。学年もまぜこぜ。そもそも、位置だってかなり怪しい。それでも生徒会長の結ちゃんが、公私混同、職権乱用で音頭をとり、何とかかたちになった。パンダに続いて、彼女には助けられっぱなしだ。校庭では、理科部のレーザー距離計が大活躍した。
目指す〈宇宙の渚〉は高度30キロ。それに比べれば、今回の高度50メートルの「係留飛行」は、まさに目と鼻の先。とはいえ、飛行に変わりはない。陽菜が読み上げるチェックリストに従って、私は入念に気球の準備を進めていく。
「ワイヤーの締めなおし」
「緩みなし。ぜんぶオッケー」
「搭載カメラの電源は」
「OK。ちゃんと赤ランプついてる」
「予備電源の接続」
「確認。大丈夫!」
最後にもう一度深呼吸をして自分を奮い立たせる。そっとカプセルを閉じ、継ぎ目には入念に防水テープを貼った。さぁ、いよいよ打ち上げだ!
「先生、お願いします!」
私の合図で、羽合先生がヘリウムボンベのバルブを開いた。みるみる膨らんでいく風船に、観客席から歓声が上がる。
「わぁ、すごーい!」
「早っ!」
あっという間に風船は、大人が両手を広げたくらいの大きさに。浮力を得た風船は、屋上を吹き抜ける風に揺らめきながら、スッと宙に浮いた。それを地上に押さえつけておくのは、結構な力仕事だ。
(今はまだダメ。もうちょっとだけ我慢して)
まるで生き物みたいにぐんぐん成長していく風船を見つめる。へその緒のようにボンベと風船を繋いでいたチューブを慎重に外し、空気の注入口を丈夫な結束バンドでしっかりと閉じた。
お姉ちゃんのノートに書いてあった通り、バンドは二重に巻くのを忘れずにーー。いざという時に備えて、釣り糸を握る手にはしっかりと力を込める。この風船を手放した瞬間、宇宙まで一直線に飛んでいってしまうかのような、不思議な高揚感。
いよいよその時が来た――
最後に、風向きを示す吹流しに目をやる。予報通り、風はほとんど止んでいる。午後からは無風状態が続きそうだ。
「打ち上げます!」
私の高らかな声が、青空に響き渡る。全員が一斉に空を見上げた。
「10秒前、9、8、7……」
私がカウントを始めると、今まであった賑やかな喧騒が一瞬にして消え去り、場内は水を打ったように静まり返った。
「5、4、3、2、1……放球!」
そう叫んだ瞬間、私の手が風船から離れた。
真っ白な風船が勢いよく一直線に空高く舞い上がる。少し遅れて、カメラを搭載したカプセルもすいすいと追随していく。今のところ、釣り糸のトラブルはなさそうだ。風船とカプセルを結ぶ細い糸が、まるで空に吸い込まれるように、するするとリールを繰り出されていく。
「高度10メートル到達!」
5メートル刻みでマーキングした目印を頼りに、私は高度を逐一報告する。風船は音もなく、でも勢いを感じさせながらグングン上昇していく。風に少しあおられ、校庭側に流されながらも、概ね真上に向かってまっすぐ昇っている。目を細めると、カプセルが回転しているのが見えた。あれじゃ上手く撮影できないんじゃ…………そんな心配が、じわりと胸をよぎり始める。
「高度20メートル!」
まだ目標の半分だ。私が不安で顔をこわばらせていると、羽合先生が優しく微笑みかけてくれた。
「霜連、大丈夫だよ。ちゃんと糸に手をかけておいて」
「は、はい!」
先生の励ましの言葉で、不思議と不安が霧散していく。今自分にできることを、全力でやろう。そう心に誓って、私は再び空を仰ぎ見た。
「高度30メートル! もう半分以上」
青空の中、真っ白な風船が小さく見える。下でぶらぶらと揺れるカプセルは、もはや頼りなく見えるばかり。用意した釣り糸の長さは全部で55メートル。この高度からは、宙に迎えられた糸の長さのほうが、地上にとどまる分よりも長くなっている。
細く光る釣り糸が、ピンと張りつめ、まるで空へと伸びる一本の直線のよう。ヘリウムガスの量とサイズの計算は正確だったようで、風船の浮力に問題はなさそうだ。頼もしい風船は、カプセルをどんどん引き上げ、青空の奥深くへと誘っていく。
「高度40メートル!」
「わぁ、すごーい!」
「こんな高いんだ!」
「あっという間だね!」
歓声と驚きの声が子供たちから次々にあがる。この高さは、10階建てのマンションをゆうに超えるほど。周囲に高い建物が少ない立地のおかげで、風船の存在感はひときわ際立っている。屋上から打ち上げたというのも大きい。
糸に結び付けた赤いマーカーが、軍手をするする滑り抜けていく。残すところあと5メートル。ゴールは、もう目の前だ。
「高度50メートル……係留開始!」
私は素早く釣り糸を掴むと、手のひらにぐるぐると巻きつけ、しっかりと押さえつける。ほぼ同時に、天文ドームの土台に結んだ反対側の糸もピンと伸びきった。
この瞬間、釣り糸には実験中最大の張力がかかるはず。息を呑んで、風船と糸の結び目に目を凝らす。何事もなく持ちこたえていた。よし、この程度の力なら糸は耐えられる!
秋の青空に白い風船が映え、まるで雲の波間を悠然と泳ぐかのよう。風に揺られるたびに、宝物を運ぶ使者のようなカプセルがきらりと輝く。このまましばらく係留して様子を見よう。本番では、90分以上にわたって風船を浮遊させる必要があるからね。
校庭からも歓声と拍手が響いてくる。カメラを搭載していることを伝えると、皆わくわくした表情で、それぞれ踊るように個性的なポーズを取り始めた。
「ちゃんと撮影できてるかな……」
クルクル回転が続くカプセルの様子が気がかりだ。でも、そんな心配をよそに、気球はあっという間に学校中の話題となり、サッカー部の交流試合から弓道場の屋根の雨漏り検査まで、撮影依頼が殺到した。
「ぜんぶ風まかせなんです」
なんて言って追い返そうとするも、みな嫌な顔ひとつせず「それは楽しみ」とむしろ喜ぶ始末。
ノリノリの校長先生のご提案で、校章の人文字を空撮することになってしまった。暇な生徒や来場者も巻き込んで、みんなで校庭に出ては校章の形に並ぶ。服も背丈もバラバラ。学年もまぜこぜ。そもそも、位置だってかなり怪しい。それでも生徒会長の結ちゃんが、公私混同、職権乱用で音頭をとり、何とかかたちになった。パンダに続いて、彼女には助けられっぱなしだ。校庭では、理科部のレーザー距離計が大活躍した。
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