14 / 66
第1章「夏」
3.積乱雲キューピッド(4)
しおりを挟む
しばらく見つめ合った後、沈黙に耐えかねた私は「箱が欲しかったら、そう言ってくれれば良かったのに……」とぼやいた。
「ねえ、先生。私……気球で〈宇宙の渚〉目指してみようかな、って思った」
まっすぐ前を見て、はっきりと伝えた。
「そう。でも、俺に気を遣う必要んてないからね」
「ううん、大丈夫。私……自分のためにやろうって決めたんです」
確かに絶対の自信があるわけじゃない。でも、もしかしたら上手くいくかも、そんな小さな希望が私の背中を押していた。
「お姉ちゃんと先生がまだしてないことが、してみたいの」
亡くなったお姉ちゃんとの思い出に縛られ、身動きの取れない先生。自分は姉ほど愛される資格がないと考え込む私。お姉ちゃんの重力にとらわれた私たち二人を新しい世界へ連れ出すのに、気球ほどふさわしいものはない。そう直感したのだった。
「……わかった。だったらさ、霜連。ひとつだけ約束して」
「何でしょう?」
「もし俺がまた綾のことで、君を不安にさせるようなことがあったら……容赦なく叩いてくれ」
真剣な面持ちで言う先生に、私は思わず吹き出した。
「ぷっ……何それ先生! あはは!」
「ショック療法さ。これくらいじゃないと、俺の病気は治りそうにないからね」
「あはは、たしかに! でもその発想、ちょっと子供っぽくないですか?」
「合理的ライフスタイルと言ってもらおうか」
「はいはい、またでた」
普段のリズムに戻ってホッとしたのもつかの間のこと。
「とにかく、今日の分はこれで」
そう言って先生は身体を屈め、右の頬を突き出して目を閉じた。
「で、できるわけないじゃないですかっ」
「ひと思いにやってくれよ」
押し問答が続く。
「無理ですってば」と強く言い返しても、「練習のつもりで」「お願いだから」「霜連にしか頼めないんだ」と先生は一歩も退こうとしない。雨に打たれて冷えきった私の手は、迷ったままポケットの中にいた。
「ーーもう、わかりました。じゃあ軽ーく、ですからね」
私が根負けして言うと、先生はいよいよ強く目を瞑った。微動だにせず、ただその時を待つばかり。
「いいぞ、頼む……!」
そっと差し出された頬に、恐る恐る手を添える。覚悟を決めて、深く息を吐いた。
長くて美しいまつげ。そう感嘆しながら、思う存分先生の顔を見つめる。こんな機会はめったにない。だからここぞとばかりに、その切れ長の瞳や凛々しい眉を、心ゆくまで目に焼き付けた。すると不思議と、勇気が湧いてくるのを感じた。
「……練習、ですからね」
言い聞かせるように呟き、先生の顔を引き寄せる。ゆっくりと頬に唇を押し当てた。
(す、すばるくん……)
「え……?」
まるで電流が走ったかのように、先生と視線がぱっと合う。こんな大胆なことをしてしまうなんて、我ながら信じられない。この先の展開なんて何も考えていなかったのだ。いつも通りの、無計画で場当たり的な行動。
「あ、あっ、あの、その……」
せっかく自分から仕掛けておきながら、私の顔はめちゃくちゃ暑くなっていく。「ほっぺだからノーカン」なんて何度も自分に言い聞かせるが、頬の熱はどうしても冷めてくれない。
「霜連……」
先生が優しい表情で、そっと私の肩に手を置いた。
「ほら、雨が上がったよ。見て」
先生に促され、顔を上げる。夕焼けとは反対の空に、見事な虹が悠然とかかっていた。
夕暮れ時の帰り道、私は助手席から一言も発することなく、ただひたすら車窓の景色を眺めてばかりいた。先生の顔を直視する勇気が、まだ私にはなかった。
「ねえ、先生。私……気球で〈宇宙の渚〉目指してみようかな、って思った」
まっすぐ前を見て、はっきりと伝えた。
「そう。でも、俺に気を遣う必要んてないからね」
「ううん、大丈夫。私……自分のためにやろうって決めたんです」
確かに絶対の自信があるわけじゃない。でも、もしかしたら上手くいくかも、そんな小さな希望が私の背中を押していた。
「お姉ちゃんと先生がまだしてないことが、してみたいの」
亡くなったお姉ちゃんとの思い出に縛られ、身動きの取れない先生。自分は姉ほど愛される資格がないと考え込む私。お姉ちゃんの重力にとらわれた私たち二人を新しい世界へ連れ出すのに、気球ほどふさわしいものはない。そう直感したのだった。
「……わかった。だったらさ、霜連。ひとつだけ約束して」
「何でしょう?」
「もし俺がまた綾のことで、君を不安にさせるようなことがあったら……容赦なく叩いてくれ」
真剣な面持ちで言う先生に、私は思わず吹き出した。
「ぷっ……何それ先生! あはは!」
「ショック療法さ。これくらいじゃないと、俺の病気は治りそうにないからね」
「あはは、たしかに! でもその発想、ちょっと子供っぽくないですか?」
「合理的ライフスタイルと言ってもらおうか」
「はいはい、またでた」
普段のリズムに戻ってホッとしたのもつかの間のこと。
「とにかく、今日の分はこれで」
そう言って先生は身体を屈め、右の頬を突き出して目を閉じた。
「で、できるわけないじゃないですかっ」
「ひと思いにやってくれよ」
押し問答が続く。
「無理ですってば」と強く言い返しても、「練習のつもりで」「お願いだから」「霜連にしか頼めないんだ」と先生は一歩も退こうとしない。雨に打たれて冷えきった私の手は、迷ったままポケットの中にいた。
「ーーもう、わかりました。じゃあ軽ーく、ですからね」
私が根負けして言うと、先生はいよいよ強く目を瞑った。微動だにせず、ただその時を待つばかり。
「いいぞ、頼む……!」
そっと差し出された頬に、恐る恐る手を添える。覚悟を決めて、深く息を吐いた。
長くて美しいまつげ。そう感嘆しながら、思う存分先生の顔を見つめる。こんな機会はめったにない。だからここぞとばかりに、その切れ長の瞳や凛々しい眉を、心ゆくまで目に焼き付けた。すると不思議と、勇気が湧いてくるのを感じた。
「……練習、ですからね」
言い聞かせるように呟き、先生の顔を引き寄せる。ゆっくりと頬に唇を押し当てた。
(す、すばるくん……)
「え……?」
まるで電流が走ったかのように、先生と視線がぱっと合う。こんな大胆なことをしてしまうなんて、我ながら信じられない。この先の展開なんて何も考えていなかったのだ。いつも通りの、無計画で場当たり的な行動。
「あ、あっ、あの、その……」
せっかく自分から仕掛けておきながら、私の顔はめちゃくちゃ暑くなっていく。「ほっぺだからノーカン」なんて何度も自分に言い聞かせるが、頬の熱はどうしても冷めてくれない。
「霜連……」
先生が優しい表情で、そっと私の肩に手を置いた。
「ほら、雨が上がったよ。見て」
先生に促され、顔を上げる。夕焼けとは反対の空に、見事な虹が悠然とかかっていた。
夕暮れ時の帰り道、私は助手席から一言も発することなく、ただひたすら車窓の景色を眺めてばかりいた。先生の顔を直視する勇気が、まだ私にはなかった。
21
お気に入りに追加
31
あなたにおすすめの小説
放課後はネットで待ち合わせ
星名柚花
青春
【カクヨム×魔法のiらんどコンテスト特別賞受賞作】
高校入学を控えた前日、山科萌はいつものメンバーとオンラインゲームで遊んでいた。
何気なく「明日入学式だ」と言ったことから、ゲーム友達「ルビー」も同じ高校に通うことが判明。
翌日、萌はルビーと出会う。
女性アバターを使っていたルビーの正体は、ゲーム好きな美少年だった。
彼から女子避けのために「彼女のふりをしてほしい」と頼まれた萌。
初めはただのフリだったけれど、だんだん彼のことが気になるようになり…?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ヤマネ姫の幸福論
ふくろう
青春
秋の長野行き中央本線、特急あずさの座席に座る一組の男女。
一見、恋人同士に見えるが、これが最初で最後の二人の旅行になるかもしれない。
彼らは霧ヶ峰高原に、「森の妖精」と呼ばれる小動物の棲み家を訪ね、夢のように楽しい二日間を過ごす。
しかし、運命の時は、刻一刻と迫っていた。
主人公達の恋の行方、霧ヶ峰の生き物のお話に添えて、世界中で愛されてきた好編「幸福論」を交え、お読みいただける方に、少しでも清々しく、優しい気持ちになっていただけますよう、精一杯、書いてます!
どうぞ、よろしくお願いいたします!
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
僕は 彼女の彼氏のはずなんだ
すんのはじめ
青春
昔、つぶれていった父のレストランを復活させるために その娘は
僕等4人の仲好しグループは同じ小学校を出て、中学校も同じで、地域では有名な進学高校を目指していた。中でも、中道美鈴には特別な想いがあったが、中学を卒業する時、彼女の消息が突然消えてしまった。僕は、彼女のことを忘れることが出来なくて、大学3年になって、ようやく探し出せた。それからの彼女は、高校進学を犠牲にしてまでも、昔、つぶされた様な形になった父のレストランを復活させるため、その思いを秘め、色々と奮闘してゆく
日給二万円の週末魔法少女 ~夏木聖那と三人の少女~
海獺屋ぼの
ライト文芸
ある日、女子校に通う夏木聖那は『魔法少女募集』という奇妙な求人広告を見つけた。
そして彼女はその求人の日当二万円という金額に目がくらんで週末限定の『魔法少女』をすることを決意する。
そんな普通の女子高生が魔法少女のアルバイトを通して大人へと成長していく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる