人の心、クズ知らず。

木樫

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第八話 ショーゴと粉雪。

23(side翔瑚)

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 咲の唇が何度も触れる。

 何度も、何度も。

 ファーストキスが霞むほど何度も食むようにキスをする。
 俺は泣いているのにお構いなしだ。

 そのうちなぜだか口腔内に舌が入り込んで、キスはどんどん深くなり、腰の座りが悪くなってくる。

 五分、十分。
 お互いの吐息をかけあって口付ける。

 吸われて、包んで、飲み込まれて。
 タイミングが掴めず飲みきれなかった唾液が俺の顎を伝って落ちた。


「ぁ……っは……ん……」


 ──舌、溶けそう……。

 五つも年下の咲が手馴れていると痛感した。くたびれたジーンズの前が少し窮屈に感じたからだ。経験値の違いだろう。

 激しいわけじゃないが深く生々しい。
 零れた唾液すら舌が追ってなぞり、また口の中へヌルリと入り込んで絡み合う。
 俺と咲の口と口の間でクチュ、チュク、と体液が混ざる。

 それが糸を引いて手のひら一枚分ほど離れると、吐息の温度を感じた。

 トサ、と柔い乾燥した音。
 布団も敷いていない畳の上へシャツ越しに背中が当たった。

 家庭教師を始めた時は赤赤としていた窓の外はもうすっかり日が落ち、街灯の明かりがカーテンを透かして室内に差し込んでいる。

 俺を押し倒す少年の長いまつ毛が影を作る光景を見ながら、シャツのボタンがプツ、プツ、と外されていく。

 抵抗する気にはならなかった。

 一時的に脳が麻痺していたのだろう。相手がキスに慣れた年下の男だとわかっている。しかし数秒先の未来のことすら、俺にはリアルに感じられなかったからかもしれない。


「──あ、時間」

「っ」


 夢のような錯覚の魔法は、ピピピ、ピピピ、と繰り返す電子音によってパチンと弾けてしまった。

 ハッと我に返る。俺が設定した家庭教師の時間が終わるアラームだ。

 慌ててポケットから携帯電話を取り出し、ボタンを押して止める。
 危なかった。このまま流されていたら俺は生徒と関係を持っていたわけで、これは間違いなく救いのアラームだろう。

 残念、とはほんの僅かでも思っていてはいけないのだ。思うわけもない。


「さ、咲、その」

「あいあい。終わったから帰るわ」

「ぁ……」


 心得たように体を起こす咲はすぐに立ち上がり、俺に手を振って背を向けた。

 寂しい。もう少し一緒にいたい。
 馬鹿げたことを考えたものだ。伸ばしかけた手を握りしめ「また、な」と送り出す。

 ドアが閉まる寸前。


「今日買った服は次に着てきてちょーだい。脱がせやすいやつ、選んだかんね」

「っさ……っ」


 思い出したようにそう言ってニンマリ笑った咲の残像をかき消して、ドアがバタンと閉まった。

 耳の奥に影を残して去っていく咲は、本当に、悪い悪い男なのだ。

 残された俺は薄暗い部屋の中で一人へたりこみ、半端に開けられたシャツからあらわになる素肌へ、そっと手を這わせる。

 咲の体は見た目より硬かったな。
 引き締まっている。鍛えているのか。

 引き替えると俺の体は生白くて、背は高いほうだが骨ばっているだけの薄い体だ。貧相で面白みがないし姿勢が悪い。

 胸に当てた手をキュッと握る。

 別に、期待しているわけじゃない。
 気が向いただけ。なんと、なく。

 冴えない自分は前から気にしていたから特に理由はない。できる改善ならしておいたほうがいい。自分のためだ。


「咲は強引だから、次も無理やり、見るかもしれないしな……その時におかしな体だったら嫌だからな……い、嫌なのは、笑われるかもしれないというだけで……っ」


 誰にともつかない独り言と共に、俺はいそいそと携帯電話を開いてカコカコと検索フォームを開いた。

 ボタンを押す指の爪が長い。
 誰も見ないだろうとサボっている。切らなければ。爪切りはあったかな。

 次回までに魅力的な肉体美へと鍛えることはできないが、人に見られるかもしれないと思うと一層清潔にしようという気持ちが高まる。

 この時は本当に、咲が好きだとか、そういう恋の対象として認識したわけではなかった。

 憧れにも似た感情。
 好感を持つ人になら誰にでも抱く〝よく思われたい〟という感情だ。

 ただ一つだけ違うものがあるとすれば。


「……キス……もう一回、したいな……」


 男で年下で生徒で、それでもキスがしたいと思わせるくらいには、忘れがたい男だったということである。




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