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第三十四話

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──その男と出会ったのは、いつだっただろうか。

アルヴェリア王国が魔族の軍勢に連敗を重ねていた頃か。あるいは、王都まで魔王軍が迫っていた、あの絶望的な時期だったか。
詳細は曖昧だが、確かに王国が窮地に陥っていた時だった。

「なんだ、テメェは」

巨漢の男、ガラフィドと出会った時アドリアンは面食らった。
野獣のような鋭い眼光。全身から漂う暴力の気配。
これが侯爵?これが王国の大貴族?山賊かなにかじゃないのか?とアドリアンは思った。

「やぁ侯爵どの。俺はアドリアン。気軽に英雄様と呼んでくれていいよ」

だからついつい、アドリアンはおどけてみせた。
ガラフィドが殴りかかってきたのは、その瞬間である。

「あっぶなっ!」

すんでのところで回避したアドリアンは目を見開いた。何故いきなり殴りかかってくるんだ、という抗議の眼差しをガラフィドに向ける。

「俺はな、口先だけの野郎が大嫌いなんだ。王も、おべっかが上手い奴等を重用して俺を今まで戦に出さなかった結果がこの有様だ」

城壁の上から彼の鋭い眼光が、眼下に広がる魔族の大軍を見据えていた。

「今更呼び出しやがって。俺の領地も、息子も、全部奴等に奪われてから、ようやくだ」

彼の表情には悔しさと怒りがありありと浮かんでいた。
かつて王が重用していた者たちは既に王国から逃げ出している。残された主要な貴族はこのランドヴァール侯ガラフィドだけだった。

「奇遇だね。俺も口先だけの奴は嫌いなんだ。俺たちもしかしていい友達になれるんじゃないか?」

遥か年上の男に友達になれるかも、などと言うアドリアン。
その大胆不敵な態度に、ガラフィドは一瞬、呆気に取られた。

「テメェ、頭でも打ったのか?」
「むしろ今までで一番冴えてるよ。それより侯爵どの、いつまでこうして会話を楽しむつもりだい?目の前には敵の大軍、ならやるべきことは一つ……」

アドリアンが飛び降りた。城壁の高さはおおよそ20メートル。だが彼は恐怖の欠片すら見せず、力強く、そして優雅に着地して見せた。

「俺は彼らと遊んでくるよ。『侯爵』様は優雅に紅茶でも飲みながら観戦してていいからね!」
「なっ……!?」

彼の目の前には魔族の大軍。ガラフィドはハッと我に帰るとすぐに叫んだ。

「テメェ、一人で突っ走りやがって!」

ガラフィドもアドリアンに続き、城壁から飛び降りる。
彼の着地は、アドリアンほど優雅ではないが、それでも並の人間には真似できない凄まじいものだった。地面に大きな窪みができる。

「へぇ!侯爵さまも俺と一緒に戦ってくれるのかい?立場的に一番後ろで震える役目だと思ってたけど」

アドリアンの声が、戦場の喧騒の中に軽やかに響く。彼は魔族の一団を薙ぎ倒しながら、にやりと笑った。

「うるせぇ!お前みたいなガキに後れを取るほど、俺は老いぼれてねぇよ!」

ガラフィドの怒声が轟く。その拳が、まるで大砲のように魔族を吹き飛ばしていった。

突如、魔族の軍勢から魔法の砲撃が放たれる。青白い光の弾が、音速を超える速さで二人に向かって飛来する。常人ならば、その存在さえ認識できないほどの速度だ。
しかし、アドリアンとガラフィドは、それが見えているかのように、軽々とかわす。二人は砲撃の方向を見もせずに、ただ体を傾けるだけで致命的な一撃を避けていく。

「俺が倒した数、覚えておけよ。テメェより多く倒してみせるからよ!」
「へえ、数えられるほど少ないんだ。俺なんて、もう数え切れないくらい倒したよ」

二人の皮肉な言葉のやり取りが続く中、魔族の軍勢は徐々に混乱に陥っていく。予想外の強敵の出現に、彼らの陣形が乱れ始めていた。
城壁の上の兵士たちは、この信じられない光景に目を見張るばかりだ。

「あの二人、本当に初対面なのか?」
「侯爵様が、あんな若造と……」

そう。二人の出会いは、この戦場が初めてだった。
それから彼らは様々な戦場を共に駆けた。

──自軍の十倍もの魔王軍を前にしても。

「おい、魔族ってのはどうしてこんなに数が多いんだ?兵数で勝った試しがないんだが?」
「彼らが多いんじゃなくて、俺達が少なすぎるんだろうね。それか、俺がイケメンすぎるから嫉妬して大軍を送り込んできてるのかも」

──三日三晩、籠城して耐え続けても、なお。

「くそっ、魔族の野郎共いつ寝てやがる!?不眠不休の特殊部隊でも連れてきたのか!?」
「おや、侯爵様はもう根を上げたのかい?俺は後10日寝ないでも頑張れるけどなぁ」
「……なんだとぉ!?じゃあ俺は100日は頑張れるぞ!?どうだ、参ったか!?」
「それは凄いね。じゃあ俺は寝るから100日頑張れる侯爵様、後はよろしく」
「はぁ!?」

──過酷な砂漠での行軍でも。

「砂漠って、熱いんだねぇ。しかもなんか空も砂嵐で曇ってるし」
「そりゃあ、砂漠だからな。……おい、アドリアン。お前なんで平気なんだ?」
「え?だって俺、魔法の水で身体覆ってるから快適だし」
「テメェ自分だけ楽しやがって!俺にも魔法をかけろ!」

──そして真の絶望を前にしても。

「あれが魔大公ベゼルヴァーツの軍隊か。ありゃあ、ヤバいな。今までの相手とは桁が違う」
「大丈夫だよガラフィド。ベゼルヴァーツはキミより老いぼれだから、若い俺たちの圧勝間違いなしさ」
「奴が寿命で死ぬのを待つつもりか?」
「まさか。ご自慢の軍勢を蹴散らされる様を見せつけて、ショック死させてやろうよ」
「ははっ、そりゃあいいな!奴の顔が真っ青になる様が目に浮かぶぜ!」

彼らの関係はいつも変わらなかった。口ではお互いに皮肉を言い合うが、戦友としての絆は確かに存在していた。

王国の勇者と、世界の英雄。

人々は彼らのことを、そう呼んだ。
そしてアドリアンもまた、歳が離れた親友のことを、心から信頼していた。

こんな関係が、いつまでも続くと思っていた。

「……」

──だが、そうはならなかった。

彼の領地の街を解放する、運命の日……。

静寂の中、ガラフィドは息子レオンの亡骸を胸に抱いていた。
レオンの虚ろな瞳は、最早何も映していない。天を仰ぐように開かれたままだ。

「レオン……レオン……」

ガラフィドは何度も息子の名を呼ぶが、彼は何も応えない。

「どうしてだ……何故お前が……」

その瞳から涙が零れ落ちる。太い指が、レオンの冷たくなった頬を優しく撫でる。
息子は二度と動かない。その事実を理解してしまった。
その様子をアドリアンはただ茫然と見ているだけしか出来なかった。

「ガラフィド」

アドリアンはガラフィドに何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。どんな慰めも、彼の悲しみを癒すことなど出来ないと分かっていたから。

「ごめん、ごめんなレオン……俺はただ、お前を……助けたかっただけ……」

突然、外から剣戟の音が聞こえてきた。魔族の残党がまだ街に残っているのだ。

「まだ敵がいる……!」

アドリアンは咄嗟に動こうとしたが、ガラフィドは動かない。
ガラフィドの口から、かすかな言葉が漏れた。

「──すまない。後は頼む」

ガラフィドの瞳を見つめると、そこにあるのは生気のない虚ろな光だけ。
レオンの冷たくなった体が、ガラフィドの腕の中で不自然な角度で横たわっていた。
父親の手によって命を奪われた息子……その現実が、ガラフィドの魂を深く、深く傷つけているのだ。

「……俺は街を制圧してくる!まだこの屋敷に魔族が残っているかもしれないから、気を付けるんだ!」

アドリアンはそう言うと、屋敷を飛び出した。
街には魔族の残党が蔓延っていた。悲鳴と怒号が入り混じる中、アドリアンは魔族を次々に蹴散らしていく。
剣が風を切る音。魔法の閃光。魔族の断末魔の叫び。
しかし、戦いの最中にも、アドリアンの胸の中にざわめきが広がっていく。

──ガラフィドを……一人にしておいてよかったのか?

彼の脳裏に、ガラフィドの悲しみに満ちた顔が浮かぶ。
いつも豪快に笑い、怒り、喧嘩早い親友。そんな男の、あまりに悲しそうな顔をアドリアンは初めて見た。見てしまったのだ。

「アドリアン様!魔族の残党は全て討伐しました!」
「よしっ!後は頼んだよ!俺はランドヴァール侯の様子を見てくる!」

アドリアンはガラフィドの元へ走った。
彼の加護……いや、これは直感だ。嫌な予感が、アドリアンを駆り立てていた。
あの目は……今まで、ガラフィドが一度も見せたことのない目だったから。

「ガラフィド!無事か!?」

ガラフィドの屋敷に着いたアドリアンはそう叫んだ。しかし返事はない。
アドリアンは息を切らせながら彼と別れた部屋に飛び込んだ。

そしてアドリアンは見た。

「ガラフィド!」

アドリアンの声が静寂を破る。しかし、返事はない。
月明かりが窓から差し込んでいた。その光の中に、一つの影が浮かび上がった。

椅子に座ったガラフィドの姿。その大きな体は、力なく前のめりに傾いていた。
彼の首元から、何かが突き出している。アドリアンの目が慣れてくると、それがガラフィド愛用の斧だと分かった。

「えっ?」

斧の刃がガラフィドの首を深く斬り裂いている。赤黒い血が、首筋から胸元を伝い、椅子の下に小さな池を作っていた。
ガラフィドの顔は下を向いたまま、もはや動きを見せない。かつての勇猛な戦士の面影は、もうそこにはなかった。

「──そん、な」

アドリアンは全身の力が一気に抜けるのを感じた。親友の変わり果てた姿を見て、よろめきながら一歩ずつ、彼の元へ近づいていく。

カチッ。

ガラスの砕ける音が、静寂を破る。アドリアンの足元に、無数の破片が散らばっている。月光を受けて、それらが星のように輝いていた。
アドリアンはゆっくりとかがみ、一つの破片を拾い上げる。

それは酒瓶の欠片だった。

部屋の壁の隠し扉が半開きになっている。そこから、割れた酒瓶の残骸が散らばっていたのだ。

「あぁ……」

アドリアンの喉から、絞り出すような声が漏れる。
彼の脳裏に、かつてのガラフィドの誇らしげな声が響いた。

『聞いてくれアドリアン!実は屋敷の隠し扉に最高級のブランデーを隠してるんだ!レオンが生まれた年に仕込んで、ずっと大切に保管してきたものさ!』
『へえ、随分と手の込んだものだね』
『ああ!レオンが成人した暁には、お前も一緒に飲もうぜ。とっておきの酒で三人で乾杯するんだ!』

それはレオンを助ける前に、ガラフィドと交わした会話。
自らを親友だと認めてくれたからこその、言葉。
アドリアンはふらふらと立ち上がった。ガラフィドの亡骸に、ゆっくりと近づいていく……。

「ごめんよ」

アドリアン手から酒瓶の欠片が零れ落ちた。その音が、静寂の中で異様に大きく響いた。
──強さも、力も、全てが無意味だった。
膝をつき、アドリアンはゆっくりとガラフィドの亡骸に近づいた。震える手で親友の冷たくなった腕を抱きしめる。

「救えなくて……ごめん……」

その言葉がかすれた声で繰り返される。しかしその声が届くことはない。
アドリアンの瞳から止めどなく涙が溢れる。彼はガラフィドの腕を抱き、ただ泣き続けた。

『全てが上手くいった後にぴったりの酒だ!必ず一緒に飲もうぜ、約束だ!』

もはや叶わぬ約束の象徴のように。部屋に散らばる酒瓶の欠片が煌めいた。



♢   ♢   ♢



ガラフィドの拳が、アドリアンに迫る。
城壁すら粉々にするその一撃を、アドリアンは……無抵抗に受け入れた。

「──っ!?」

王国の勇者の全力の攻撃を受けて、アドリアンの全身に衝撃が奔った。自動的にダメージを減少させる加護をも貫通し、彼の身体がぐらりと傾いた。

その衝撃で、アドリアンの意識は覚醒する。
親友の無残な最期を看取った英雄ではなく、戦争を止めにきた英雄としての意識に切り替わった。

「くぅっ……効くね、キミの拳は」

まさか黙って拳を受けると思っていなかったガラフィドは驚愕に目を見開くが、アドリアンは冷静な笑みを崩さずにフッと笑う。

「相変わらずキミは馬鹿力だな」

思えばこの世界に来てからダメージを受けたのはこれが初めてかもしれない。
アドリアンはガラフィドに向き直る。その瞳には、強い意志の光が宿っていた。

「今の一撃は、キミとレオンを救えなかった俺への罰……」
「テメェ、何を言って……」

ガラフィドが困惑したその瞬間であった。
彼の鎧に凄まじい衝撃が走った。アドリアンの拳が、ガラフィドの腹部を捉えていた。

「ぐ……がぁぁっ!!?」

彼が纏う鎧がまるでガラスのように粉々に砕け散った。鎧の破片が、キラキラと光を反射しながら宙を舞い、衝撃波がガラフィドの全身を駆け巡る。

「そしてこれは……キミが死んだ後、俺が背負わなければならなかった重圧への恨みだ!重すぎて腰を痛めそうだったから、ここで返却させてもらう!」

アドリアンは満面の笑みを浮かべて、そう言った。
その笑顔があまりにも眩しすぎて。ガラフィドはまるで太陽を見るかのように目を細めた。

「さぁ!前の世界の続きだ!途中で終わった喧嘩勝負、決着をつけようじゃないか!今度は最後まで付き合ってくれよ!途中でリタイアするのは禁止だからな!」

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