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第二十話

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──フェルシル大草原。
地平線まで果てしなく広がる緑の絨毯は、まるで大地の息吹そのものを感じさせる。風に揺れる草の波が静かに、力強く大地を覆い尽くしていた。
古くよりそこに住まう獣人たちは、その地を畏敬の念を込めて「聖地」と呼ぶ。

『アカネよ。お前は次期頭領として、その名に恥じぬ行いを心掛けよ』

そんな聖なる地で暮らす獣人の部族の一つに、フォクシアラという獣人の一族がいた。
幻術を得意とするフォクシアラ。金色の毛並みは満月のように煌めき、見る者を魅了する一族。
その術は草原の朝霧のように神秘的で捉えどころがなく、華麗なる術で敵を翻弄する様はまさに舞踊。

『はっ。必ずや侵略者の手から大草原を護ってご覧にいれます』

この戦乱の世、大草原を狙う国は数知れない。遠くの山々の向こうから、貪欲な目で草原の富を狙う者たちの気配が絶えない。
フォクシアラの一族は獣人たちを率いて侵略者と戦い、時にならず者の冒険者や盗賊を退治してきた。
このフェルシル大草原を守り抜くことが、彼らの使命であり、誇りだった。
アカネはそんな一族の娘として生を受けた。
産まれた時から大人顔負けの魔力と身体能力を持ち、いずれは頭領となることを約束された彼女は幼い頃から厳しい訓練を積んできた。

そんなアカネが将軍として獣人の一軍を率いるようになった頃。
草原の夕暮れ時、彼女の弟であるカイが彼女の元を訪れた。

『姉上。次の戦では、僕も戦います』

彼女の弟であるカイ。彼は成人し、戦士となった。
しかしアカネのように強靭な爪も牙も持たぬ彼は、戦士としては頼りない存在だった。

『お前のような弱き者が戦場に立つべきではない。足手まといだ』

アカネはそんなカイを冷たく突き放した。
カイは悲しそうな目をしたが、アカネは見向きもしなかった。

──そんな、ある日のこと。

突如として、大草原の平和が破られた。草原の縁から、鎧の軋む音と馬のいななきが聞こえてきた。
アカネは即座に部隊を率いて出陣した。彼女の毛並みが風になびき、金色の尾が戦いの旗のように翻る。
フォクシアラの幻術が展開され、人間たちの目にはいくつもの幻影が映り混乱した兵士たちはすぐに撃退された。
しかし……戦いの興奮が冷めた後、不吉な空気が漂い始める。

『カイ様の姿が見えない』

誰かが呟く。
捜索が始まり、恐れていた事実が明らかになった。カイが人間たちに捕らえられ、連れ去られたのだ。

『アカネ様!カイ様が!』
『……』

人間に捕えられた獣人の行く末など、決まっている。拷問の末、殺されるか……良くて奴隷か。
彼女の胸に痛みが走る。どちらにせよ、カイはもう二度とこの美しい草原の風を感じることはないだろう。

すぐに、長老会議が開かれた。大樹の下、長老たちの厳しい表情が月明かりに浮かび上がる。

『カイは弱かった。奴を助けに行くことは、我々の力を無駄にするだけだ』
『そうだ。一人の弱い者のために、群れを危険にさらすわけにはいかない』

長老たちはカイを切り捨て、大草原の平和を守ることを優先した。

『……異論は、ありません』

その言葉と共に、何かが彼女の中で砕け散るのを感じた。
アカネは何も言い返せなかった。喉まで出かかった叫びを必死に押し殺す。

そうだ。弱い弟が悪いのだ。
フォクシアラに連なるキツネだというのに妙に優しく、戦士には向いていないアレが悪いのだ。

『アカネよ。お前が次の頭領だ。一族の命運は、お前の双肩にかかっていると思え』

一族が攫われたというのに、誰も助けには行かない。
アカネの胸中に、言い表せない感情が渦巻いた。

──夜、アカネは一人、星空の下に立っていた。

『姉上。僕はフォクシアラのために強くなります!』

かつて自分を慕ってくれた少年の声が、キツネの耳の奥から聞こえたような気がした。
金色の尻尾が大草原の風に揺られて、ふさりと揺れた。



♢   ♢   ♢



「馬鹿な……何故、お前が」

アカネと瓜二つの金色の髪は陽光を受けて煌めき、鋭い金色の瞳は周囲を威圧するように光っている。
その顔立ちはまるで鏡に映ったアカネのようだった。

「カイ!何故お前が……奴隷商人のような振る舞いをしているのだ!」

アカネの叫びは、市場の隅々まで届いた。露店の商人たちは息を呑み、奴隷たちは恐れおののいて身を縮めた。
アドリアンも、メーラも、レオンも、衛兵たちも。
その場を静寂が支配する。誰もがアカネに釘付けになり、彼女の言葉に耳を傾けている。

「おや……これは、珍しいお客様だ」

そんな中、男──カイは、ゆっくりとアカネに向き直った。
そしてアカネの呼びかけに答えるかのように、妖しい微笑を浮かべる。

「フォクシアラの頭領様がこのような場所にいらっしゃるとは。もしや奴隷をお求めで?」

挑発するような、侮蔑するようなカイの言葉に、アカネの耳がピクリと動く。

「カイ様!」
「総督様、良いところに!こいつらが、魔族の国などと戯言を言って我々を騙そうとしているのです!」

何故、奴隷商人たちがカイに縋りついているのだ。
何故、総督様と呼ばれているのだ。

「──答えろ、カイ。お前は、その者たちの何なのだ」

彼女の爪と牙がギシリと音を立てる。
今にもカイに飛びかからんばかりだが、周囲の衛兵たちはカイを守るように立ちはだかり、アカネの行く手を阻んだ。
それと同時に、カイがゆっくりと口を開く……。

「見ての通り、僕はこの市場の元締めとして、仕事に勤しんでいるのですよ」
「何故だ。何故そんなことをしている!お前は誇り高き一族の戦士だったはずだ!」

アカネの問いかけにも、カイは余裕すら感じさせるような笑みで彼女の問いに応じたのだ。

「誇り高い、ねぇ。弱者を見捨て、群れの保身だけを考える一族が誇り高いとは、貴女も冗談がお上手になられた」
「……!?」

カイは優雅に手を広げ、周囲を指し示した。

「ここは、獣人の下らない価値観とは一線を画す場所なのです。真に『平等』な場所だと言っていい。強者も弱者も、等しく奴隷として売り買いされる……これ以上の平等がありますか?」

彼は冷ややかな目でアカネを見下ろし、最後の一撃とばかりに付け加えた。

「あぁ、もしかして貴女は今でも『誇り高き戦士』のお遊戯に興じていらっしゃるのかな?」

アカネは、自分の耳を疑った。カイが何を言っているのか、理解できなかった。
驚愕と困惑が彼女の胸中を駆け巡り、鋭い牙がカチカチと虚しく音を立てる。

「カイ……お前は、一族を裏切ったのか」
「裏切った?はは、なんて素晴らしい言葉選びだ」

カイはアカネから視線を外し、夜空を仰ぎ見て、言った。

「でも、ちょっと順番が違うんじゃないですか?」

月明かりが彼の冷笑を浮かび上がらせている。
カイは優雅に手を広げ、クスクスと笑う。

「最初に裏切ったのはお前たちだ。それとも、弱者が攫われるという些細なことはお忘れになっていたのかな?」
「な、なに……?」
「でも安心してください。戦士のお遊戯に夢中な連中と違って、僕は今、皆を『平等』に扱っていますよ。強い者も弱い者も、全て同じ商品としてね…… 貴女たちが大切にしていた誇りなんて、ここじゃ二束三文ですがね」
「──」

アカネの瞳が怒りに燃え上がった。
彼女の全身から殺気が溢れ出し、今にもカイの首を噛みちぎらんとばかりに牙を剥いた。筋肉が緊張し、飛びかかる寸前まで体が前のめりになる。

その瞬間。

「おっと。感動の再開もいいけど、少し冷静になろうか、キツネさん方」

アドリアンの手がアカネの腕を掴み、その動きを制した。彼の声は軽やかだったが、その握力は鋼のように強かった。

「感動的な家族の再会を台無しにするのは、いかがなものかなと思ったけど、そろそろ俺も話に混ぜて貰おうかな」

アドリアンは優雅に微笑んだが、その目は鋭く状況を見定めていた。
場の空気が一瞬で変わる。アカネはアドリアンの突然の行動に驚き、カイは訝しげに彼を見た。

「なんです?貴方は。家族の会話に割って入るなんて」
「いやぁ、俺ってお節介な性分でさ。ついつい首を突っ込みたくなっちゃうんだよ。それに、俺はこのキツネのお姉さんと友達でね」
「友達……?人間と、獣人が?」

カイはクククと笑い、アカネとアドリアンを交互に見つめる。
殺意の籠もったアカネの視線を受け流しつつ、アドリアンはカイに軽くウインクして見せた。

「そうさ。このお姉さん、ちょっと変わってるだろ?でも俺はそんなとこも気に入っててね」
「それはお目が高い。彼女はフォクシアラ一族の頭領で他種族や弱者を見下す、傲慢な御方です。そんな方と友達だなんて、貴方も変わっていますね」
「見下す、か。本当にそうかな」

アドリアンはアカネに向き直り、その肩を叩いた。
そして耳元で囁く。

「アカネ嬢。ここは俺に任せてくれ」
「何を……」
「いいからいいから。ちょっと話を合わせてくれよ。大丈夫、悪いようにはしないからさ」

アドリアンは血気盛んなアカネをなだめつつ、ゆっくりとカイに向き直った。

「奴隷市場の総督……カイ殿と言ったかな。俺は魔族の王女の護衛の任につくしがない英雄さ」
「魔族の王女……?」

カイは目を細そめ、何かを考えるような素振りをしてから警戒するように口を開いた。

「魔族の王女というのが本当に存在するのか、その御方がなぜ奴隷市場をうろついているのか……色々と聞きたいことはありますが、まぁいいでしょう」

カイは再びアドリアンに向き直り、言った。

「ここに何の用で?ここは高貴な王族様が来るような場所ではありませんが」
「それが、あるんですよ、慈悲深き総督殿」

アドリアンはメーラと、地面に這いつくばる魔族の奴隷たちを大げさな身振りで示す。

「我らが偉大なる王女様が、この素晴らしい市場をご視察なさりたいとおっしゃるのです。特に、ここで『幸せに』暮らす魔族の皆様の様子をね」
「……」
「しかしこれは一体どうしたことだろうか?我が国の国民が鎖に繋がれ、無残な姿で地面に這いつくばっている」

カイはアドリアンの言葉に、何も答えなかった。ただ黙って、アカネとメーラに冷たい視線を送るだけだ。

「──姫は同胞がこのような扱いをされていることに嘆き、そして解決を私と共に考え、この市場へと足を運ばれたのだ」

アドリアンは大げさな身振りで周囲を示して見せた。彼の行動に一切の迷いはなく、堂々とした態度だった。

「貴方は平等という言葉がお好きなようだが」

アドリアンは意味ありげに眉を上げた。

「これのどこが平等なのかな?みんな平等に苦しんでいるということかな?」

カイはしばし沈黙していた。その表情からは何も読み取れない。
やがて彼は静かに、しかし冷たい声で口を開いた。

「平等ですよ。間違いなくね」

カイの声は氷のように冷たく、その全身から凄まじい冷気と殺気が放たれた。
今までの優雅な雰囲気は消え失せ、まるで別人のような鋭い眼光を放つ。
そして、カイは何やら不思議な言葉を唱え始めた。すると驚くべきことに、彼の頭部にキツネの耳が、臀部からはキツネの尻尾が薄っすらと現れ始めた。
人間にしか見えなかったカイの姿は、瞬く間に獣人の姿に変わっていく……。

「──っ!」

周囲の人間たちを驚かせたのは、市場の総督がキツネの獣人だったことよりも、その耳と尻尾の無残な姿だった。
片方の耳はちぎられ、残った耳も焼けただれたような痕跡が残っていた。尾の毛は所々毟られたように禿げ、その姿は見るに堪えないほどだった。

「僕もまた奴隷として、散々『平等に』いたぶられてきたんですからね」

カイの声は憎悪に満ち、アカネとアドリアンを鋭く見据えた。

「だけど僕は……僕はもう弱者ではない。弱者をいたぶる側なんだから──!」

憎悪の咆哮が、夜の奴隷市場に響き渡った。
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