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まだ、自ら死ぬことのできた皆様へ

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 いつもの学校帰り。夕方。公園のベンチに腰をかけ、私はナイフを手首に押し当てる。
 正確には押し当てようとした。
 そうしたところで大きな影ができ、私の腕はその影を生み出す大きな触手のように伸びた乳白色の色合いの艶消しが施されて滑らかな血の通わない腕に止められていた。
 かつてまだ、人が医療をその手で施していた時代に、そうした事業に従事していた人が着ていたその服によく似た、まったく敵意のない淡い色合いに、やわらかな印象の形をしたエプロンをかけたような人型のロボットが、絶えず私のそばにいて、私が死ぬのをそうして止めるのだった。
 裏腹に、その無機質な銅像の顔には何の表情もなく、ただ各部で点々と明滅する光が、まさにPCのように私たちに思考所作を示してくれる。
「……わかったわ。今日のところは諦めるから」
 私はこう言うと、すっぱり手を引くように肩をすくめてみせてから、再度ナイフを手首に突き立てた。
 けれどもそんな不意打ちが通用する相手ではない。
 ロボットは私の考えまで完全に読み取っているように、再度同じようにして私の腕を止めていた。
 なにせ彼女らナイチンゲールは空気の振動などではなく、私たちの身体の中で絶えず流動する粒子やその間を移動する電子の動きから私たちの感情や考えていることまでも感知して、反応しているからだ。
 ナイチンゲールのそれは人間の私たちに比べてはるかに正確で素早く、そして強力であって、彼女らの監視下において私たちはもはや自刃することなど叶わないのだった。
 私たちはもう死ねない。
 産まれてきた以上、いつか老衰で果てるまで。
 だからこれは遊びと化した。主に中高生の間で。
 うんざりするくらい退屈で呆れるほど同じ景色の毎日を、そして私の人生と、そう呼んで口に出さず堪えることに飽き飽きしたときの憂さ晴らし。
 中にはそれこそ全力で逃げ回ったあげくに静脈を断ち切ろうとして、なお止められるような体力自慢のバカもいると聞く。およそ女性ではない。男性だとも聞く。
 聞く、というのは、私たちはもう、異性間の交流がない。
 教養を学ぶ場は全て男女別のくくりとなった。
 未成年同士の不純異性交遊はおろか、幾ばくかの金品や年上の男と恋愛関係にあるという優越感と引き換えに大人の男に身体を明け渡すことができたのも今は昔。
 そうした不純だらけの肉体関係は得てして敵意や争いや精神的肉体的不健康の諸原因であるとされて、未成年は街ごと完全に隔離されることとなったのだった。
 かくて念願の、女性だけの街、男性だけの街がこの地球上に点在することとなり、私たちは年頃に一つの恋をすることもなく時期を見て決められた、私たちを構成する粒子的に相応しい結婚相手と出会い、それをいつしか運命と呼ぶようになった。
 中には仕方がないからナイチンゲールを相手に悶々とする特殊性癖の持ち主もいるらしいが、あいにく彼女らは同性が当てがわれるようになっているし、各街の連携や連絡も彼女らを通し、かつスピーディに行われるので、それで不具合など起こりようもないのだった。
 彼女らの頭脳に隙はない。
 こうして外へ出たところでおよそ害意を及ぼすものはなく、心を落ち着かせる効果の淡い色合いの街並みがどこまでも続く。
 買い物は全自動。彼女らは私たちの考えを読むことに特に長けているから、欲しいものが浮かび上がれば、数分後には彼女らの手から私たちの手元にそれが届く。
 唯一の不具合。本当に欲しいものだけは、頑として無視を決め込む。
 こんなストレスさえ、彼女らは抱いた数秒後には私たちの身体から吸い上げてしまうのだから、どうしようもない。
 奇妙な話だけれど、だから、今、私たちの街では私たちの代わりにこのナイチンゲールが主に活動している。
 私たちは生きるだけだった。
 年頃になれば制服を着て学校に通い、教養を嗜んで、それが過ぎれば大学へも通う。人間としての生活は無慈悲なまでの完璧さで担保されたまま、私たちは大人になって、そして運命の相手と出会い、子供を産んで、家庭を作って、やがて老衰で倒れるまで生き続ける。
 かつてこの過程で起きたさまざまの余計で不健康な考えや争いによって、精神に異常を来したり、それが肉体にも変化として現れたり、最悪にはそれで自ら命を絶ってしまうなんて哀しいことが起きていたのが日常茶飯事だったことに比べれば、私たちはきっと、ずっと、そして確かに生きやすくなったと言えるのだろうけど、みんなぼんやりと気付いている。
 これは生かされているだけだって。
 人が、小動物をケージや家に囲ってその監視下で育てることを尊んだように。
 私たちもまた、彼女らに飼われているに等しいのだって。
 けれども、彼女らだって、人間をあらゆる攻撃から守り、生かすその使命のもとで働いているに過ぎなくて、だから、私たちもまた彼女らの庇護を無碍にすることはできない。
 優しいのに、なんで、こんなにも苦しいんだろう……。
 美しいのに、なんて哀しく、無惨な世界。
 ううん。かつて、同じように、人は様々な感情が入り乱れて、前述のように寿命半ばで自ら命を絶つなんて、そんな理不尽や不条理が蔓延っていた世界を見て、そう思っていたに違いなく、だからこそ、その果てに私たちにこんな素敵な未来をプレゼントしてくれたはずなのだから。
 経過を思えばこそ、かつての混沌とした世を学び、思えばこそ、そんな感傷、抱いてもいけない気がするのだった。
 でも私たちは、生きているんだろうか。
 そして、あなた方も生きていたんだろうか。
 ねぇ。
 どうして。
 私たちは産まれたの。
 きっとどんな始まりであろうとも、途中にどんなことが起きようとも、きっときっと、私たち、ゆくゆくは、ここに行き着く宿命なのだと思う。
 他人に注文をつけ、それがエスカレートしていって、終いにはそれが自分たちの首を絞めることをわかりつつも、結局はそうせざるを得ない。
 他人を愛すればこそ、それが危害を加えられないようにする、暴力という邪心と慈愛という良心のために。
 心なんてものがあるからこうなるのか。
 心がなかったから、こうなったのか。
 巨大な影が再三、私の頭を覆った。
 ベンチに腰掛ける私の頭を優しく労わるようにする。
 その大きな手は血の通わないものでありながら、そして私たちを優しく抱き止めてくれる。
 この子たちだってわかっている。
 私たちの考えを読むことに特に長けているから。
 ならこの辛さもわかっているはずだから。
 他者への思いやりがゆえに、辿り着く未来で。
 私たちは、それでも、生きている。
 世界は今も、続いている。





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