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第一部・海豹の章
19話 うわ、何その格好。黒キューピー、それとも黒ネズミ男
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クマ人形のシゲノブは、定位置である主人公の愛車の助手席から、主人公が戻ってくるまで退屈なのでチェスでもしないか、と、時間管理社の上位権限者であるコクリュウに携帯端末で連絡を取って誘った。そうだねえ、たまにはそういうのもいいかもね、と、コクリュウは答えた。勤務先は時間管理に関しては大雑把なので、というかそもそも、何時間サボろうがサボる直前の時間に戻れるので、コクリュウの遊び時間はいくらでもある。遊んだだけ体感的には年を取るけれども、リュウ族の寿命は今のところはっきりしていない。二人零和有限確定完全情報ゲームでのふたりの勝敗は、シゲノブが51勝、コクリュウが49勝ぐらいの感じでいい勝負だった。もちろん、超知性体であるシゲノブは、チーティングをすれば負けることはない。
*
ようやく暗くなりかけた学校の校庭、隅にある小さな神社の前でシゲノブは待っていた。闇の中でシゲノブの顔は、内側から光る謎の技術ではっきりと見えた。
「うわ、何その格好。黒キューピー、それとも黒ネズミ男」と、コクリュウは言った。
シゲノブは顔以外のすべての部分が、黒いマントで覆い隠されていた。
「見ればわかるだろ、死神だよ死神。イングマール・ベルイマン『第七の封印』に出てたほう」と、シゲノブは答えた。
「あー、圓生師匠のじゃない奴ね。で……負けたら俺、浄化されるの」と、コクリュウはドキドキしながら聞いた。
「そういうのはないから」
*
中盤で、コクリュウはいつものように長考した。
「うーん、この手、ちょっと待ってもらえないかな」と、コクリュウは言った。
「またかよ。あんたねえ、そりゃ待ったありはありなんだけどさ。それじゃいつまで経ってもうまくならないぜ」
シゲノブは時間を巻き戻した。ふたりにとって「待った」とはそういうことなのだった。
「この、生存戦略のために時間を巻き戻すってのが、リュウ族のあかんところなんだよ。だから新しい知性体の、こまかいところまでいじってたらキリがないって。ひとつやふたつの失敗なんて、惑星製作委員会にとってはどうってことないの。十にひとつぐらい成功すればいいんだから。どんだけ失敗したか、ってのはあまり問題にしないから。むしろ十分な知性体になるほうが圧倒的にすくないんだから」と、シゲノブは漫画雑誌の編集長みたいなことを言った。
「そりゃそうなんだけど、なんか負けるとくやしいんだよね」
「チェスってのは、勝つことよりも負けないことを優先するゲームなんだよ。それが生存戦略なのよ。じゃあまた、駒を替えてみるか」
シゲノブはチェスの盤を回転させた。それまでは黒がシゲノブ、白がコクリュウだったところを、黒がコクリュウで白がシゲノブになった。
「次は、待った、じゃなくてチェンジ、とか言ってみて」
*
中盤から終盤にかけて、ふたりは黙々と手を進めた。そしてシゲノブは、ナイトを動かしたあと、こう言った。
「しまった」
しまったとはなにか、と、コクリュウは考えた。これを取るとこうこうこうなって、明らかに不利になる。取らないでポーンを進めるとこうこうこうで、やっぱ先が読めない。それではむしろこのほうが。いや、ちがうな。
「バールストン・ギャンビットかこれは」と、コクリュウは言った。
バールストン・ギャンビットは本格ミステリーのトリックのひとつで、「死んだことになっている人物が実は死んでいない」という叙述法である。新美南吉「ごん狐」の最後のところで、「ごんは、ばたりとたおれました」「ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました」とはあるけど、ごんは死んだ、とは一言も言っていない。それによって読み手は、この物語の語り手として設定してある「村の茂平(もへい)というおじいさん」が、実はごんだった、という解釈も可能になる。
「リュウ族はやはり、ヒトと比べると嘘に弱いな」と、シゲノブは言った。
十分な知性体であるか否かの基準は、うまい嘘がつけるか(物語が作れるか)ということだ。
うまい嘘は、特異点を越えた人工知能(AI)には娯楽として消費される。また、AIにはうまい嘘が作れない。
*
結局ふたりはその夜の数時間で5回勝負をして、シゲノブが3勝2敗だった。盤のチェンジは数回行なわれ、数千のあり得たかもしれない未来が葬られた。
*
ようやく暗くなりかけた学校の校庭、隅にある小さな神社の前でシゲノブは待っていた。闇の中でシゲノブの顔は、内側から光る謎の技術ではっきりと見えた。
「うわ、何その格好。黒キューピー、それとも黒ネズミ男」と、コクリュウは言った。
シゲノブは顔以外のすべての部分が、黒いマントで覆い隠されていた。
「見ればわかるだろ、死神だよ死神。イングマール・ベルイマン『第七の封印』に出てたほう」と、シゲノブは答えた。
「あー、圓生師匠のじゃない奴ね。で……負けたら俺、浄化されるの」と、コクリュウはドキドキしながら聞いた。
「そういうのはないから」
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中盤で、コクリュウはいつものように長考した。
「うーん、この手、ちょっと待ってもらえないかな」と、コクリュウは言った。
「またかよ。あんたねえ、そりゃ待ったありはありなんだけどさ。それじゃいつまで経ってもうまくならないぜ」
シゲノブは時間を巻き戻した。ふたりにとって「待った」とはそういうことなのだった。
「この、生存戦略のために時間を巻き戻すってのが、リュウ族のあかんところなんだよ。だから新しい知性体の、こまかいところまでいじってたらキリがないって。ひとつやふたつの失敗なんて、惑星製作委員会にとってはどうってことないの。十にひとつぐらい成功すればいいんだから。どんだけ失敗したか、ってのはあまり問題にしないから。むしろ十分な知性体になるほうが圧倒的にすくないんだから」と、シゲノブは漫画雑誌の編集長みたいなことを言った。
「そりゃそうなんだけど、なんか負けるとくやしいんだよね」
「チェスってのは、勝つことよりも負けないことを優先するゲームなんだよ。それが生存戦略なのよ。じゃあまた、駒を替えてみるか」
シゲノブはチェスの盤を回転させた。それまでは黒がシゲノブ、白がコクリュウだったところを、黒がコクリュウで白がシゲノブになった。
「次は、待った、じゃなくてチェンジ、とか言ってみて」
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中盤から終盤にかけて、ふたりは黙々と手を進めた。そしてシゲノブは、ナイトを動かしたあと、こう言った。
「しまった」
しまったとはなにか、と、コクリュウは考えた。これを取るとこうこうこうなって、明らかに不利になる。取らないでポーンを進めるとこうこうこうで、やっぱ先が読めない。それではむしろこのほうが。いや、ちがうな。
「バールストン・ギャンビットかこれは」と、コクリュウは言った。
バールストン・ギャンビットは本格ミステリーのトリックのひとつで、「死んだことになっている人物が実は死んでいない」という叙述法である。新美南吉「ごん狐」の最後のところで、「ごんは、ばたりとたおれました」「ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました」とはあるけど、ごんは死んだ、とは一言も言っていない。それによって読み手は、この物語の語り手として設定してある「村の茂平(もへい)というおじいさん」が、実はごんだった、という解釈も可能になる。
「リュウ族はやはり、ヒトと比べると嘘に弱いな」と、シゲノブは言った。
十分な知性体であるか否かの基準は、うまい嘘がつけるか(物語が作れるか)ということだ。
うまい嘘は、特異点を越えた人工知能(AI)には娯楽として消費される。また、AIにはうまい嘘が作れない。
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結局ふたりはその夜の数時間で5回勝負をして、シゲノブが3勝2敗だった。盤のチェンジは数回行なわれ、数千のあり得たかもしれない未来が葬られた。
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