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白殺し

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 こうして、久馬と浅右衛門、それに玄も加えて、三人は大急ぎで江戸は神田の紺屋町まで取って返した。
 絶妙の剣の技を誇る首打ち人は日頃から鍛錬を欠かさない。剣はヘッポコでも、日夜江戸の町を疾駆する定廻りも足腰は強い。苦も無く二里の道程を戻って来ることができた。またこのことははかららずも玄にとっては二十六夜待ちの夕方から深夜にかけて愛染院へ容易に往復出来たことの証明にもなったのである。
 夕刻、紺屋亀七に帰りつくや浅右衛門は板場へ飛び込んだ。
「浅さん?」
 久馬と玄が後に続く。
 浅右衛門は黒羽二重の袖を肩までたくし上げると土間にずらりと並べられた藍甕の中に順番に腕を入れて行った。
 さほど時間はかからなかった。ほどなく立ち上がる。
「見つけたぞ」
「一体何をだ、浅さん――あ!」
 浅右衛門の手には藍に染まった櫛が乗っていた。
「それは、まさか」
「そのまさかだ。これがあいの櫛さ。秀から買ってもらったという」
「そして、代奴に奪われたってヤツだろ? それがまたなんでここに……?」
「それこそが今回の白殺しの謎を解く答えなのだ」

「まちがいございません。その櫛を隠したのは私です」
 翌日の小伝馬町の牢屋敷。獄舎棟の真向いに建てられた番屋には牢屋奉行・石手帯刀いしでたてわき、配下の牢屋同心が並んで座している。その横、書物役の後ろに、捕縛の際立ち会い新しい手証の発見にも尽力した御様御用人の山田浅右衛門も特別に席を与えられていた。町奉行の目代(代理)としてこの日出向いた与力は添島頼母そえじまたのもだ。これら一同の前で辰巳芸者代奴殺害の下手人・藍染師秀は証言した。
「私が藍甕の中に櫛を隠しました」
「櫛を隠した、とな」
 差し出された、油紙の上に置かれた櫛を繁々と見た後で与力は首をひねる。
「つまり、どういうことだ?」
「つまりこう言うことです。私が囚人に代わり説明いたしましょう」
 南町配下の定廻り同心黒沼久馬が進み出て声を上げた。
「当夜、倒れている代奴の傍らから秀が走り去ったのはその櫛を持ち去るためでした。既にこと切れていた代奴の側には凶器として使われた簪とともに櫛が落ちていたのです。普通、下手人が何か持って逃げるとしたら凶器のはず。その凶器がちゃんと・・・・残っていたので、あの場を取り巻いていた衆人も、またその後、検視した同心や町役人も皆、秀は単に自分が犯した罪を恐れて、捕まりたくない一心いっしんで逃亡したと思ったのです。何かを持ち去ったとは考えなかった――」
 ここで一度言葉を切って久馬は秀に目をやった。後ろ手で縛られその縄先を横目(監視役)が握っている哀れな姿だが目は生気に満ち黒々と輝いている。
「しかしながら、実際は違った。秀は櫛を持って逃げたのです。理由は、それをどうしても隠したかったから。誰にも見つからない場所、もしくは、せめて見つかってもさほど奇異に思われない場所へ。それは一か所しかなかった。自分の仕事場、紺屋亀七の板場です」
 与力が頷くのを待って、続ける。
「秀は藍甕の中へ櫛を沈めました。そして、無事隠し終えたので安堵して捕まりました。あれほどの距離を逃げたのに板場で何の抵抗もせずあっさりお縄についたのはこのためです」
 与力添島が核心を突く問いを発した。
「しかし、そうまでして何故・・、櫛を隠さねばならなかったのだ?」
「それこそ、真の代奴殺しを庇うためです」
 久馬は浅右衛門の方へ視線を向けた。いつもと変わりなく静かに座すその姿を見て、再び言葉を継ぐ。
「その櫛は、紺屋の親方亀七の一人娘であり秀の許嫁でもあるあいへ秀が贈ったものです。あの場にあるはずのないものだった。代奴の屍骸の側であいの櫛を見た秀は代奴を殺めたのはあいだと悟った――」
「ううむ、秀は見つかっては都合の悪い物――代奴殺しの身元を示す物を隠して自分が罪を被ろうとしたというのだな?」
 与力の言葉に久馬はキリリと奥歯を噛んで頷いた。
「捕縛した際、私が聞いて妙に思った秀の『大丈夫です』は、何とか娘にだけ伝えようとした思いの籠った言葉だったのです」
 ――安心して大丈夫です。お嬢さん、この罪は俺が被ります。
「咄嗟に出た言葉でしたが、揺るぎない決意の表れでもありました。自分の命に代えて愛しい女を守ろうというのだから」
 水を打ったように静まり返る番屋内。が、ここで若い定廻りの口調が変わる。
「だが、これはとんだ早合点だったのです」
 ズバッと久馬は言ってのけた。
「あいも下手人じゃない」
 与力の声が裏返った。
「な、なんだと?」
「櫛は数日前、あいが代奴に奪われたものだ。あいは二十六夜待ちの夜、櫛を取り戻そうと代奴に会いに置屋へ足を運んでいる。だが、代奴は不在で会えなかった。それも当然で、その時にはもう代奴はそこにいず死に場所になった柳原土手の柳森稲荷にいた。もうひとつ、あいが下手人ではない証拠があります。当夜、あいは深川から舟を嫌って歩いて帰ったと言っているが、そうなると、柳原土手の稲森稲荷は通らない」
 あいは新大橋から日本橋を渡って神田紺屋町を目指した。江戸切絵図を見れば一目瞭然、逆方向なのだ。これは江戸っ子なら即座に理解する事柄である。
「私が申し述べたいことは以上です。あいは代奴を殺していないし秀も下手人ではありません」
「だが、そうなると白殺しは何処にもいなくなる……」
「まさに、それなんです。白殺しはいない。というか、白殺しは代奴自身だ」
「む、自死だと言うのか?」
「としか、思えません」
 この時、それを言う久馬の口元は辛そうに歪んでいた。しかし、しっかりと言い切った。
「代奴は気風と気の強さが売りの辰巳芸者でした。惚れきっていた幼馴染の秀の心がどうやっても取り戻せないと悟って、絶望のあまり自らを刺した。それ以外考えられません」
 一度口を噤む。
「私は、もし本当に秀が殺したのなら櫛ではなく凶器の簪を持って逃げたと思います。また、あいが真の下手人なら、自分を庇って身代わりになった秀を放っておくはずはない。紺屋の娘は自分が代わりに死んでもいいと私に泣いて訴えました。あの涙に偽りはない。あいが代奴殺しなら正直に自分がやったと名乗り出ているはず」
 顔を上げ、久馬は締め括った。
「代奴は絶命して、もはやどうやっても生き返りはしません。ならば、これ以上この件で死人を出したくはない。それが今、何よりも強く私が願っていることです」
 与力の返答は早かった。
「わかった黒沼。おまえの言い分に私も大いに納得した。再吟味の訴願としてその言葉をそのままお奉行へ伝えることとする」
「ありがとうございます」

 〈代奴は自死〉〈藍甕覗きで見つかった真の愛〉〈白殺しは何処にもいない〉
 〈藍染師お咎めなし〉〈解き放ちの沙汰下る〉

「いたいた、ここに居やがった! 黒沼の旦那に、山田様、こりゃ一体どういうことです?」
 あくる日の昼過ぎ。時の鐘の真下、本石町の飯屋に二人の姿を見つけて飛び込んで来たのは竹太郎だ。例のごとく手には瓦版を握っている。
「てんで訳がわからねぇ。わっちが部屋に籠って『白殺しの下手人は玄』というセンで書きなぐっている間に、世間じゃ何がどうしちまったんで?」
「だから、瓦版そこに書いてある通りだよ、キノコ。白殺しは何処にもいなかった――」
 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている自称戯作家を見て、流石に可哀想になって久馬はもう少し説明してやった。
「あの後、俺たちは板橋の愛染院へ行って、これぞまさに愛染明王のお力、玄に引き合わせてもらったのよ。のみならず浅さんが像を見て閃いた。愛染明王は素敵な宝瓶に座っているだろ? おめぇもあいが櫛を代奴に奪われた話は聞いてたよな? で、ひょっとしてと思った浅さんが捜したらドンピシャ、藍甕の中から櫛が見つかった」
「なんと、なんと、〝白殺し〟の次は〝甕覗き〟ですかい!」
 甕覗きも藍の色を差す言葉である。白殺しの次の濃さ、ちょうど甕を覗いたくらいの短い間、サッと藍に浸けた色と言うのでこの呼び名がある。
「出て来たその櫛を秀に見せて、あいがそれを代奴に奪われていた経緯いきさつを教えたら、それまでかたくなに口を閉ざしていた秀もあっさり事実を語り始めた、と言うわけさ」
 ゆるりと立ち上がる定廻り。
「さてと、そろそろ行くとするか、浅さん?」
「そうだな、久さん」
 それまで一言も口を開かず、静かに座っていた浅右衛門も腰を上げる。久馬が振り返って聞いた。
「おめぇも一緒に来るかい、キノコ?」
「冗談じゃない。一件落着でお二人さんがこの後何処で祝杯を上げるのか知りませんがね、わっちは旦那たちと違って暇人じゃない。これから帰って大急ぎで白殺しの結末を書き変えなきゃならねぇんだ。じゃ、これで」
 言うが早いか風を巻いて駆け去る竹太郎。
「ふぅん、結末かぁ……」
 定廻りはちょっと悲しい顔をした。


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